食虫植物の島の旅人

 食虫植物の島は、大海原を一望し、あくびをします。

 どの冒険家も夢みる光景が白波をたてますが、島にとっては退屈なだけです。

 彼は桃色の口腔を開き、南空の太陽に聞きました。


「さあて、おやっさん。なにか変わったことは?」


「うん、落ちてくるね」


 太陽と島は空を見守りました。

 きりもみ回転をしながら、小さいなにかが落ちてきます。

 島に墜落したのは男でした。

 右手にゲーム機のコントローラー、左手にティッシュペーパーの箱をつかんでいます。

 午前二時、鼻をかもうとした瞬間に、宇宙の爪先にスウェットの襟を捕まえられてしまったのです。

 突拍子もなく振りかかった出来事にあぜんとしていた彼ですが、しばらくすると周囲を探索し始めました。凝った首をぐりぐり回しながら、こう考えます。


「教授いわく、昔は色つきの夢が狂人の証だったらしい。それならリカのやつこそ狂人だ。まともな神経があったら、違う男と連続で寝られやしない」


 男はかぶりを振りました。まだ夢のなかにいる気分です。

 もやのかかった視界に、食虫植物の島に自生するあでやかな植物が映っています。ハイビスカスやらココナツやら、夜ふかしの頭には少々刺激が強いようです。

 男は灰色にくすんだ肺の息を吐き、同じ体勢をしていたせいで、萎んだ体の筋肉を伸ばしました。


「そうだ、おれとリカは生涯の友だちだ。恋人ではない。来週か、再来週には、そう伝えないと。けったいな夢を見ているな。コントローラーでこれが動くのかね?」


 ためしにスティックを動かしてみると、島も一緒に回転したので男は万歳して喜びました。

 一方、食虫植物の島は身勝手な行動に腹をたてましたが、上陸者に従う宿命ですので、辛抱するほかありません。

 男はいそいそと海岸に向かいます。

 島をふちどるトゲのそばで、あぐらをかくと、塩辛い風で胸を膨らませて、気の向くままに海を攻略し始めました。

 それは愉快にすぎる冒険でした。

 スティックの倒れる方向に島は進み、ボタンを押すと、男の意のままにトゲが動きます。

 ここは三千世界のくずかご、偉大なものたちの厠なのです。

 数字の幻想におとらない多様さは目を見はるほど。波をただようのは、ありとあらゆる物語の残滓です。

 例えば、白と黒の手で組まれたジェンガの塔、肥だめの底に沈む聖堂、腐りかけた果物がネズミ捕りをしかけて放置した檻、そして風吹きすさぶ丘。

 虹をかついでクロールする目玉の群れたちは、すれ違いざまに、食虫植物の島に声をかけます。


「どこにいくんだ、そんなもん連れて」


「おれだって知りたいさ」


 食虫植物の島は叫びながら、男に操られて、ひたすらに海を進みました。

 やがて、入道雲に横たわった聖女が現れました。

 鯛の腹のように白くうろこだらけの両足を深海におろし、鯨の尾びれをかじっています。

 彼女は目を輝かせて、頭を起こしました。


「まあ旅人さん。わたくしの夢、おひとついかがかしら?」


 聖女の銀色の衣がはだけ、右の胸があらわになると、万華鏡の夜が出現しました。

 雲をつく摩天楼を勇敢な兵士たちが襲撃しています。嘘いつわりではない、まことの金貨を求めて戦争をしかけたのです。

 彼らの足元にビラニアの群れが放たれ、両足首に噛みついて動きを封じ、そのまま足にすげ替わります。

 そうとは知らない兵士の恋人たちは、道に並ぶベッドに腰かけ、凱旋の列を待ちますが、時間は浪費されるばかり。

 これらはすべて、果てなき幸のため恋のため。

 そう聖女が語ると、男は顔をしかめました。


「胸やけがするね」


「どうしてでしょう」


「女に待たれるのは、いやな気分だろ。時間のむだじゃないか」


「あなたを待つことが生きがいの方もいますわ」


「リカ?」


「知りませんけれどね」


「かえって、あの子みたいに、ゆるいほうが、待っていてもらって楽かもしれないな」


「では、こちらは?」


 聖女は体勢を変えてうつ伏せになり、左胸を見せました。

 すえたにおいが鼻をさし、男は眉を寄せます。

 次に見えた光景は荒地でした。おびただしい数の老人が折りかさなっています。

 ひからびた虫の死体に似た彼らは、それぞれの肩甲骨に書物を置き、文字にかじりついています。

 文字たちは身をよじり、老人の唇から垂れるよだれを避けようとしますが、そこは老獪な執念ぶかさ、文字たちはねぶりつくされ、やる気をくじかれ、労苦の賜物により、知恵の大樹があちらこちらに根づくのです。

 これらは当然、終わりなき知のため人のため。

 そう聖女が語ると、男はいぶかしみました。


「ふむ、これが立派だって? 巨人の肩とは、こんな下品なものだったかい」


「ええ。、文化の開拓こそ人生の意味ですわ」


ね。数字や言葉にできるなら正しいのだろうか」


 食虫植物の島が口をはさみました。


「なにを寝ぼけたことを話しているんだ? 食えないものに意味はない。おまえら、みんなあほだ」


 男に島の忠告は聞こえませんが、男も同じ気持ちでした。

 嫌悪感に従い、コントローラーを聖女の乳首に投げつけます。

 聖女は悲しげに口角をさげました。


「それでは、こちらはいかがでしょうか」


 聖女は腰をあげ、木星ほどの大きさがある臀部を、青空に見せつけました。そして、両足を広げて食虫植物の島をまたぐと、尻を下に落としてしゃがみこみました。

 銀色の衣のすそが食虫植物の島を覆い、トゲをくすぐります。

 口腔に粘液がたまり、食虫植物の島はあせりました。

 我慢できません。パタンと口を閉じてしまいます。

 驚いたのは、もちろん男です。

 閉じられた視界に泡を食っていると、皮膚が溶け始めました。

 全身がむずがゆくヒリヒリと痛むので、泣きっ面になりながら、暗闇を歩きまわり、手さぐりで島をうろつきます。

 死にもの狂いで、コントローラーのボタンを押し、スティックを回しても、食虫植物の島は、うんともすんとも言いません。


「出してくれ!」


 暗闇に怒鳴りちらす男でしたが、食虫植物の島はそれどころではありません。

 聖女の股ぐらに宿る神秘に心うばわれていたのです。

 それは、血の通う肉体です。

 赤と青の血管があちこちに張りめぐらされ、鼓動に合わせてときめきます。

 生きていてうれしい。

 聖女は口ずさみながら、大きな尻を振りました。

 食虫植物の島がぼうぜんとしたのも、無理のないことでしょう。

 生を受けてこのかた、そんな考えを知る機会がなかったのです。

 ただ食い、ただ出すこと。

 それしか島は知りませんでした。

 やがて幕の頂点が破れ、皮膚の表面に生活が現れます。食虫植物の島は、めくるめく光景から目を離せません。

 それは、子ども時代でした。

 彼はベビーカーに乗って、パパとママと公園を歩きました。

 緑と水色と、おうど色、笑い声、小春日和。

 それらが入りまじり、ぬくもりを与えました。

 わめきながら粥の皿をひっくり返し、机に叩きつけます。

 ママのやるせない思いとパパの不愉快が暗く光り、むだになった食事が、彼に怒りを与えます。

 視界は明瞭になってゆきます。

 痛覚を根城に、感情の形とその扱い方を学んでゆくのです。

 彼は怯えながらも、勇敢に歩き始めました。

 アスレチックからすべりおちて左足の骨を折り、駄菓子屋からチョコレートを掠めとり、自転車を立ちこぎして猫をひきました。

 感情を渡りあるいた結果、やがて正義を知ります。それは、藻のびっしりと生えた池でした。水面に映る、おぼろげな姿。

 年月に苛まれた深緑色は、大切な感覚を隠します。ときおり見える自分自身が、はたして本物だろうかと疑わせてしまうのです。

 不安を抱きながらも、彼は感情の方向性を手に入れました。

 斜向かいの家の女の子を好きになりました。女の子は万引きしたチョコレートよりもすてきな存在です。

 からあげ、ボテトチップス、サッカー選手、テレビゲーム、戦隊ヒーロー、百点満点の算数のテストよりも、すてきです。

 しかし、やはり、なぜでしょうか。

 彼は心配なのです。

 納豆、先生、トイレの時間が長いことをからかう友だち、歯並びが悪いと笑う斜向かいの家の女の子を、心底嫌いになります。

 藻の間から、ちらりと見える彼の顔は、困惑しています。

 いかに物事を理解すれば、いかに自分を把握すれば、この藻を散らして、池の深さを知れるものでしょうか。

 先生や親に聞いてみますが、だれもそんなことには少しも興味がないようです。

 それでも視界は年月と共に高く伸び、パパとママは彼を誇りに思います。

 彼は生まれ故郷を離れます。

 蛍光灯が、降下します。

 食虫植物の島は、銀色の衣の正体がアルミニウムの実験用トレーだと気づきました。

 白衣の人々が作業台をかこみ、彼もまた、ノートとボールペンを手にして、真剣な面持ちで講義を受けています。


「女神のまなざしですね」


 教授は、食虫植物の島をいとおしげに見おろして言いました。


「このまばたきの犠牲なら、食われても光栄だと僕は思いますが、君たちはいかがでしょうか」


「教授、人間はハエに生まれついてはおりません」


「あら。彼女はハエどころか小型のナメクジも食べますよ。でも、君たちは、ナメクジにも生まれついていないのかな?」


「はい。しかし、ナメクジとハエなら、どちらが上等ですか?」


「ハエは臨界融合頻度がすぐれています。ナメクジはかわいい」


 生徒たちは肩をすくめ、教授はげらげらと笑いました。


「彼女はおくゆかしい」


 教授は食虫植物の島の口腔にピンセットをねじこみ、無理やりに口を開けさせました。

 コントローラーと男の残りかすが衆人の目にさらされて、食虫植物の島は決まり悪く思いましたが、だれも気にしません。

 教授はうなずき、はさみを取りだしました。


「この瞬間に、僕らはなにを考えるべきでしょうかね」


 生徒たちは顔を見あわせ、次々と答えました。


「命の重さについてでしょう」


「いかに切断するか、ですね」


「まず、手順をあやまっていないか確認するべきかと」


「いいえ、欲望について考えないと」


 彼はノートをとる手を止め、たずねました。


「教授、欲望とは悪いものですか?」


 教授は、にっこりしました。


「僕たちは善悪を語るべきではありません。道徳はなおさら」


「道徳ですか」


「ええ。子どもは道徳を持たないはずですから。つまり、ゆめゆめ純粋な思いで、命にやさしくあるべきでしょうな」


 じょきん、と、はさみが身体を通りました。

 食虫植物の島の唯一無二の心が、銀色の衣の側面をわくわくと駆けあがります。

 二つに切断された食虫植物の島が、トレーにころりと転がると、海も空も島々も息たえ、時間を止めてしまいました。

 食虫植物の島は、ようやく安心しました。教授の言葉が水面の藻をしりぞけ、彼のちっぽけな姿をあらわにしたからです。

 三千世界が嘘だと悟り、その短い命を知ります。

 それはそれとして、水面の空の、なんと明るいことでしょう。






 大学院を無事卒業し、大手の製薬企業に入社した彼は、数年後、交際していた女性と結婚し、女の子をもうけました。

 それから十年後、外国への単身赴任が決まります。喜びいさんで南へ飛び、たくさん仕事をしました。

 そんなある日、小さな島を訪れました。

 現地で知りあった女性と遊びにきた彼は、わけもなく不機嫌になった彼女が、ホテルに引きこもってしまったので、ひとりで散歩に出かけました。

 島を一周して発見したものは、観光ホテルと数軒の小屋だけで、特に目新しいものはありません。

 歩き疲れた彼は、ホテルのビーチであぐらをかき、一面の青い広がりを臨みました。

 ひいては満ち、ひいては満ちてゆくばかりです。

 大きく息をつき、膝の上に両手を乗せて、コントローラーを握りしめると、太陽が彼を見おろしました。


「遠い旅だったね」


 彼はうなずきます。

 胸を踊らせていたころの記憶が、よみがえりました。

 目がくらむほどの夢。生きる喜びに満ちていた彼の形が、やわらかい灰色の影となって砂浜を走り、海風にはためきます。

 しかし、結果的にたどりついたのは風のない海です。

 すでに難所を越え、あとは水平線を眺めるだけ。

 スティックをまわすと太陽が輝き、ボタンを押すと白波が打ち寄せました。

 彼は出しぬけに顔をあげ、コントローラーを遠くへ投げました。


「ぽちゃん」


 彼はつぶやきます。


「それは海に沈み、二度と地上に戻ってくることはない」


 彼は両手から砂を払いました。そして、彼女と昼寝をするためにホテルへ帰りました。







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