間話

 紅葉と藤に染まる空に、老いた夢の一団が現れます。

 彼らが尾をたなびかせて泳ぐのは、夕方の郷愁を隠し、人々を悲嘆から遠ざけるためですが、アパートの住民には無縁の話でした。

 耳をふさいでも、指のあいだから過去が忍びこんでくるのです。

 隣の男もそうでした。眠れる雷雲を横目に、傷口に詰めた膿だらけのガーゼを交換しています。

 男はぶっきらぼうに問いました。


「マダム、そいつは寝たかい」


「ええ、ぐっすり」


「今日はなんの話を?」


「いつもと変わりません。つまらない話です」


 男は空を見あげました。


「クラシックが飛んでいるな」


「悪いことですか?」


「もちろん悪いことじゃない。だが、虫酸が走るね」


 男はポケットから銃を出し、夢たちのあいだを泳ぐ、クラシックを撃ちおとしました。

 墜落する高尚さに、老いた夢の一団は霧散します。

 狡猾な夕方は、そのすきを逃しません。

 たおやかな両腕で地上を抱きしめ、煌々と光るあかね色で、人々の髪を照らしてしまいます。

 彼らは足を止め、口をぽかんとあけました。

 忘れなければならなかったことを、突然思いだしたのです。


「マダム、だれを待っている?」


「だれのことも待ってなどおりませんわ」


「ふうん。見てみなよ。彫刻家は今日も首を吊り、絵かきも指を折る。歌手くずれのふたりは互いをめった刺しにしている」


「ええ」


「あいつらを救ってやるべきかな?」


「そうは思いませんわ」


「どうして?」


「芸術に、なぐさめなど要りません」


「あれを芸術と表現できるかな」


「だって、好きでやってるんでしょう」


「そのとおり。しかし、おれがあんたの隣人とは残念だな。ほかのやつなら、気前のよい嘘で助けられたかもしれないのにね」


 つぶやく男は、苛だちを隠そうともしません。

 彼は音楽家でした。目にうつらない存在への奉仕によって、真実が明かされることを望んでいました。

 そして、それが自分の小さな牢獄のような孤独を癒す唯一の術であると、生涯ずっと考えていたのです。

 ですが、最終的に得られた報酬は、不合格の烙印だけでした。

 彼の悲願どころか、だれひとりとして、その望みは叶えられなかったのです。

 人の身にすぎた願いが、彼の傷口を膿ませています。

 しかし、それでも傷を包む汚れたイヤホンは、輝く王冠の顔をして、人々をそそのかすのです。


「十分に助かっておりますわ」


 マダムはぎこちなく、しかし、心からそう言いました。

 男のイヤホンが彼女の思いやりに報いようとして、古い曲を奏ではじめました。

 それは、赤子にささげられた月の歌のようです。

 乳白色のメロディ、なつかしい恋の歌詞を、どこか知らない国にいる女が、夕飯を用意しながら口ずさんでいます。

 玉ねぎを手ぎわよく切る包丁がリズムを刻み、鍋からのぼる湯気が背後に流れると、二本の腕が現れ、細い腰にまわされます。

 男は呆れかえったため息をつき、歌をこぶしでなぐりました。

 すると、あたたかな歌詞とメロディは、ばらばらにくだけ、足元に砕けた鏡となって散らばります。

 破片が夕暮れを反射し、ふたりの顔は、あずかり知らないだれかの血を浴びています。


「あなたは自分であれば、なぐさめられますわね」


 マダムのつぶやきに、男は複雑な顔を浮かべました。

 マダムの主張は思いちがいでした。彼自身が、だれよりも自らの心を憎悪していたからです。

 その心は疲れはて、思いあがった目的に利用されたことに、いまさら謝罪など望んでいないのです。

 ですが、男は再び息をつくと、イヤホンを胸の前にそっとかざしました。

 映写機の音が聞こえ、向かいの建物の壁に映画館が現れます。

 映画館のシートに埋まる子どもが食いいるように見つめる画面には、天涯孤独の歯車が延々と回転しています。


「堂々めぐりだな。結局、このの正確さを知っただけだ。そんなことに、なんの意味があるんだろう」


「なしとげたこと、それ自体に意味がありますわ」


「見かけだおしでも?」


「たどりついたあなたは偉大だと、わたくしは思います」


「だが、おれの求めたものじゃないんだ」


「そんなの、わがままですわ」


「そうは言うがね、マダム。繰り返しになんの意味がある?」


 おもむろに子どもが立ちあがり、歯車をよじ登りました。

 マダムは、そのあどけない瞳を見つめました。

 男は正しいのです。そこに甲斐など存在しません。

 子どもはまっすぐ前を見つめているだけです。それは、若さゆえですが、無知な若さではないのでしょう。

 彼はもとより知っています。

 ありきたりな報いなど、永遠に訪れないこと。

 歯車の仕組みを少しでも知りたいと願っただけなのです。


「どうなんだ。なんの意味がある」


「わたくし、信じているだけです」


「ふうん」


「だって、信じているあいだは」


「存在するかい」


「そのとおりです」


 男は笑いました。


「馬鹿だね、あんたは」 


 子どもはありったけの力で舌を噛みました。分不相応な夢が、彼のあごを流れおちてゆきます。

 血の滝に気づいた通りの人々は、子どもに数枚のチップを投げました。そして、数回拍手をして、通りすぎてしまいました。


「あなた、正しさの話を」


 赤子の言葉に、マダムは虚をつかれました。


「ええ、もちろん」


 マダムは引きつった笑みを浮かべて同意しました。

 傷口から膿をこぼしつづけている男は、ベランダの下を見おろしていましたが、やがて部屋へ去ってゆきました。


「少しでも正しさがあれば、どのような命も救われるでしょう」


 そう赤子は言いますが、マダムは嘘だと知っています。

 なぜなら、もしそれが本当ならば、階下に落ちたあの子どもは、いったい、なにによって救われたというのでしょう?








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る