間話

 すりガラスの空を、綿帽子が通りすぎてゆきます。

 時刻は昼さがりに似た空隙であり、未誕生の時間では、おだやかな天候が続くのです。

 ひとつの綿帽子が、マダムに気がつきました。傘を閉じて飛んでくると、ベランダの手すりの上でおじぎをします。


「やあマダム。元気かい」


「元気ですわ、兎さん」


 彼は半透明骨格標本の兎です。まだ仕事中のはずですが、意気揚々と会いにきてしまいました。

 兎の仲間たちは、堂々としたサボタージュに鼻を鳴らして抗議しながら、次の職場へと流されてゆきます。

 兎は笑いました。


「昼だっていそがしいのさ、なまいきにもね。当然夜のほうが盛んだけど、マダムもせかせかしたことは嫌だろう?」


 兎の上半身は毛に覆われていますが、下半身は恋人たちの暴食のおかげで、蛍光色の骨しか残っていません。

 しかし、兎はこの姿に満足しています。

 よけいな肉を取りのぞいたおかげで身のこなしが軽くなり、獣の身にして、可憐なマダムに会えるからです。


「たしかに、あくせくすることは好きではありません。でも、あなたは違いますよね?」


「そうさ、兎は駆けまわるんだ。敵も味方も多いもんでね。なにせやつらったら底なしのくせして、より好みが激しいんだから」


 兎はむきだしの骨盤を見せつけましたが、下品に思われたような気がして、話題を変えました。


「そうだ。このあいだね、あの店の娘さんが布が足りないって言うから毛を分けてやったのさ」


 兎はそう言って、向かいのアパートの一階を指さしました。

 そこには慎ましい門がまえの服屋がありました。

 とても繁盛しているようには見受けられませんが、その実、非常に人気の服屋です。

 母娘が助けあって営んでいる店で、母親は心臓の弱い娘のために毎日店番に立ち、娘は心の病で笑顔を失った母親を笑わせようと、道化の服を織っているのですが、その愉快な愚かさ、笑いを誘う哀れが大変な評判なのです。

 なぜなら、母親はどぶねずみのような図体の性根の腐った女で、娘のほうは服を織ること以外、悲惨なほどに能なしなのです。

 店頭を横切ると、母親が娘の無能さを嘆く声と、娘の妙に真摯で的外れな言い訳が聞こえてきます。

 そんな母娘の陰鬱な顔に喜劇があざやかに映えるので、だれもが彼女たちの、いっそうの不幸を願っています。


「おいらたち、骨だからね。道化の服にも耐えうるのさ」


 兎は得意げに、黄色と水色の両足を打ち鳴らしました。


「道化はね、カラフルじゃないとだめなんだ。ひとりぼっちも笑えるが、しみったれているから。愉快になるなら、ふたり以上は必要なんだよ」


「一理ありますわ。でも、道化はひとりで役を演じるのでは?」


「おっとマダム。そりゃそうだが、客を忘れちゃいけないよ」


 兎は陽気に跳ね、綿帽子の傘を回転させました。

 空に見事な虹がかかりますが、すきま時間においては幻想にすぎないので、一瞬で影も形も消えてしまいます。

 しかし、兎はちっとも悲しくありません。


「ほらね、客がいるから、ひとりでも笑っていられるだろ」


「自己犠牲ですわね」


「そうだよ。だから、娘さんは色が好きなんだろうさ。悲劇は滑稽で隠さないとね、まあ、むしろ、逆かも知れないけれど」


 ふたりはそう話しながら、服屋の煙突を見あげました。

 あらゆる形態の煙が、渦を巻いてのぼってゆきます。

 勝利の旗、蛾のりん粉、悪魔の唇、鯨の胃、未亡人のふところに忍ばせた金貨、天使の目を盗んで実った果実。

 すべてが、道化の服を染めあげる色です。

 娘は役にたたない想像力を、こうして色の煙にして焚きあげ、見果てぬ叶わない夢を見ています。

 それは物語にもならない法螺話ですが、娘はかまわないのです。それで母親と自分の糊口をしのげるのであれば、だれかに笑われることは、むしろ面白いことでしょう。

 ですが、娘のそんな一種のんきな献身を、母親は理解していません。店の戸口に現れた母親は喪服姿で、砂ほこりの舞う道をにらみつけ、道化の服が必要な不幸を品定めしています。

 今日はどうにも貧乏人ばかりで、こんな奴らに売りつけたところで、商売にはなりません。

 母親は歯噛みをし、自分たちを笑う民衆を、どうにか貶めてやれないかと考えています。道化の服によって、相手を道化にし、さすれば自分たちが自然、上にあがるでしょう。

 母親が無駄な策略を巡らすあいだにも、空は色で染めつけられてゆきます。


「どうか不幸の話を、あなた」


 目覚めた赤子がねだると、兎はぎくりとしてあとずさりました。この赤子と兎は、顔をあわせられないルールなのです。


「それじゃあ、マダム」 


 汗だくになってバルコニーから飛びおりた兎を見送り、マダムは服屋の戸口を眺めました。

 赤子の温度を感じながら、このおごそかな冷たさでも、石像のような、あの母親の心を溶かせないものだろうかと考えます。

 他人の不幸を望むことに夢中で、大切な我が子の存在をないがしろにするなど、到底非道理なことです。

 あの女は、命が産まれ大きく育つこと、その喜びと感謝を、忘れてしまったのでしょうか。


「母親ですのに」


 マダムは思わずつぶやき、笑ってしまいました。

 その声のなんとかぐわしいこと。服屋の娘が解きはなつ色たちでさえ、びっくりして振り返るほどです。


「お話をいたしますわ。わたくしにできるかぎり」


 上唇を舌でなめると、マダムの口に甘い味が広がりました。味覚のうれしさに、顔をほころばせます。

 それから、穴倉の目で、もう一度唇をなめました。






















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