空調の悪い部屋

 白い厚紙の部屋は、快適そのものです。

 立派なガラスのデスクと革ばりのチェアは、人数ぶんあり、三百八階の窓から眺められる、雪原のごとき真っ白な景色は、オフィスで働く人々に開放感を与えるのです。

 たとえようもない、すばらしい部屋。

 そこで、多くの社員が業務に勤しんでいます。

 彼らは意図せずして、うりふたつの兄弟です。

 ストライプの半そでシャツと、灰色のスラックスを身につけ、黒の革靴を履いています。

 左胸に名札がピンでとめてありますが、読めません。彼らに読解の必要はないため、それらはミミズとなり土食するだけなのです。

 右斜め前の席から数えて二十番目の男は、書類をのたうつミミズを親指と人さし指でつかみました。

 頭か尻かわからない先端を微妙な塩梅ですりつぶし、この軟体における痛覚の存在について、仕事もせずに考えます。


「土壌が悪いのに、どうやって花を咲かせる?」


 こめかみにボールペンをあて、考えこみます。


「美的な問題だ。ミミズが単位では、おれたちのこの仕事は、永遠に報われないぞ」


 いっさい手を動かさず悩んでいると、急に右のこめかみからネジが跳ねとび、デスクに転がりました。

 男は目を見開き、いぶかしげにネジを見おろしました。


「こりゃいかん」


 つぶやくと、隣席の同僚が振りむきます。


「なあ、修理が必要なんじゃないか」


「そうなんだろうか」


「おれぁ」


 同僚は、もつれた舌を指で矯正しながら話します。


「おれぁ、そう思うね。悪い部分は即刻なおすべきだと思う。病も即刻いやされるべきだ。怪我は即刻治るべきだし、悪人は至急に、大至急に、処刑されるべきだ」


「それぁ、おれもそう思うね」


 男がふざけて真似をしますが、同僚は気にしません。


「そうだろう」


「ああ、そうだともさ」


 同意に満足し、同僚は仕事を再開しました。

 ドライバーで、キーボードを修理しているのです。それは凸凹しており、復旧には時間が必要そうです。

 たとえば、海ぞいで鯨が撃たれると、Jのキーが悲鳴をあげ、他のキーはこのように糾弾するのでした。


「正義の別名は責任だ。つまり、保護権を放棄したNが悪い」


「いやはや、自立こそ正義だろう。つまり、Jは自分で責任をとる。そして、俺たちは彼を支援する」


「鯨を欲しがるおまえたちが悪いのだろうよ」


 同僚は騒ぐキー連中を押さえつけ、土台に留めなおします。

 修理に次ぐ修理のせいで、最近は健全な状態がどのようなものか思いだすことも難しいのです。

 それはこの部屋にしても同じことで、先ほどまでは快適な室温でしたが、機械の熱がこもっているのか、背中が湿る暑さになっていました。


「おれぁ、部屋の温度をさげにいくよ」


 男が席をたつと、やはりストライプの半そでシャツを着た、窓側に座る部長が顔をあげました。

 こめかみの空洞に気づき、ものわかりのよい顔でうなずきます。


「そうだよな、つらいよな」


「なにがつらいもんですかね?」


「そりゃ、これほどまでに寒いことさ。とはいえ、われわれはこの服を着なければならんし」


「部長、冗談でしょう。こんなに暑いのに」


 男は偉そうに続けました。


「おれぁ、暑くてならんのです。ですから、そうですね。三度ばかりさげちゃいますよ」


 部長は男をじろじろ見ました。男は肩をすくめました。部長も男も、狂人になにを言っても無駄だと思っています。

 言いわけも説得も不要と判断した男は、地下の管理室へ向かうため、部屋を出ました。

 時刻は午前十時、廊下にはだれもいません。

 数年前に竣工されたこのビルは、白い厚紙でかこわれた世界の、白い厚紙のビルです。

 本来、これは偉大な存在への贈りものだったのですが、見向きもされずに、月日だけが経過しています。

 男が歩いていると、窓ガラスに、途方もなく大きなアメジストの瞳が現れました。

 彼もまた、ギフトを受けとったひとりでしたが、これほどにつまらない世界が自分に贈呈されていたなど、つゆ知らず、限度を知らない白さに驚愕し、周辺を見てまわっていたのでした。


「きみ、仕事をさぼっているのかい」


 アメジストの瞳は、大気中の分子の角度によって輝いています。彼は高貴さの象徴で、それゆえに上からものを言おうとも、尊大ではありません。


「部屋の温度を変えにいくんだ。あんまり暑いんでね」


 男は苦言をのべました。

 アメジストの瞳は誠実で、責任の本質を知っている立派な存在だったので、状況の理解すらせずに謝罪します。


「そうか、もうしわけない。不便をおかけした」


「いいのさ。自分たちの部屋だからね。面倒くらい見るよ」


「なるほど。しかし、温度をさげたら、より寒くならないのかね」


「いいや、暑いんだよ。だから、こんな服を着ているわけで」


 男は言いながら、自分の姿を見おろして面食らいました。

 どういうわけか、スーツを着ていたのです。それは仕立てのよい、すてきな服でしたが、どうにも腑に落ちません。

 アメジストの瞳がうしろを振り返りました。

 快晴の空に、パトカーの群れが駆けつけたのです。黄色い車の窓から、子ども警官が顔を突きだし、警棒で雲をぶっています。

 男とアメジストの瞳は、途方にくれました。


「これが彼らの仕事なもんで。まあ、ちょっとばかし残酷だけど、雲は悪さをするからさ」


「どんな悪さかね」


「はあ、それは知らないけれど、こうしないといけないんだ」


「そうか。ほら、早く温度をさげてきたまえ」


 アメジストの瞳はうんざりして、男を追い払うと、パトカーの群れを威嚇しながら、白い厚紙の世界を見捨てました。

 男はいたたまれない気持ちで、エレベーターに乗りこみました。たしかに不愉快な光景でしたが、彼らを怒らなければならない縁もゆかりもありません。

 こめかみをかいて、エレベーターの天井を見あげます。

 そこには監視カメラの代わりに、八つ目の猿が張りつき、不届き者を警戒していました。

 男が軽く会釈をすると、猿はひさしぶりの客に心をおどらせて、下に降りてきました。愛想のよい猿です。

 彼は延々と続く予定の、エレベーターの旅に彩りを添えようと、八つ目に流れる外の映像を、男に提供しました。

 しばらくのあいだ、じっと眺める男でしたが、少しもしないうちに冷や汗をかきはじめました。

 映像は白い厚紙を映し、どれほどに時間がすぎようと、寸分変わりません。おそろしいほど変わりばえのしない風景です。


「おれぁ」


 男は顔をしかめました。舌がもつれたのです。指で矯正すると、最終的には「おれ」と正しく発音ができました。


「おれのいる場所は、昔からこんなだったかな」


 男は満足しましたが、違和感を感じました。しかし、なにが徹底的に変化したのかは、到底わかりません。

 気がつくと、男はTシャツとジーンズを着ています。もちろん、すべて一からデザインした特注品のようです。


「まぎれもない成功者!」


 エレベーターの救出口がすきま風を吹きこんでからかうと、男は無性にいらいらして、足先で床を叩きました。

 そのリズムの正確さに、猿は怯え、天井に戻ろうと腕を伸ばしますが、男が阻止します。


「おや、どこに行くんだ」


 蝶を狩るカマキリのように、すばやく猿を捕まえます。

 男には猿が怯える理由など思いあたらず、手のなかで震える小さな生物を、ただ哀れに思いました。


「そばにいてくれないのかい」


 猿の頭をなでると、いきなり八つの目に四〇一と表示され、男は狼狽しました。

 画面に砂嵐が流れ、ついに、シャットダウンしてしまいます。

 かろやかな金属音が鳴り、ついにエレベーターが到着しました。

 男はひたいの汗をぬぐいました。その右手には、猿の体が力なくぶらさがっています。

 男は力強く自身に言い聞かせます。

 いずれにせよ、やるべきことは一つ。

 だれもが快適な部屋で過ごせるよう、温度をさげなければなりません。それだけが、言わずと知れた重要事項です。

 決意をあらたに歩き始める男ですが、左右にぶらぶらしているだけの猿が気にかかり、まぶたを指でこじあけてみました。

 そこには、暗闇しか存在しません。


「外は雨つづき」


 暗闇が教えました。しかし、雨など降っていません。


「どんな色の雨なんだ?」


「黙りこくった雨だね。つまり、空漠さ」


「へえ、まだ警官たちは雲をいじめているのか」


「雲狩りだよ。子どもは弱虫が嫌いだからね」


「弱虫だって、生きているのに」


「残念だが違うよ。空をごらん」


 男が窓をのぞきこむと、地上で青空がだらけていました。

 白い厚紙に場所をとられ、屑紙のように丸められた空は、過去の栄光にひたりながら草むらに寝ころがり、テレビにかじりつくだけの生活を送っています。


「こういうわけで、雲だけがひたすらにがんばっている」


「それはひどい」


 男には理解しえないことでした。

 人々のために温度をさげようとしているので、残虐な警官や仲間を置き去りにする空が、心底情けなく思えたのです。

 暗闇は、にやりとしましたが、余計なことは言わない主義なので、口笛を吹くだけにとどめました。

 ようやく男はロビーに到着しました。

 赤い帽子の守衛たちが、所在なさげにうろついています。

 彼らは腰にさげた散弾銃に手を添え、その筒先が床すれすれを掠めるたびに、たがいをにらみつけています。

 火花が戦争の合図となるからでしょう。

 男はフロントの横に直立する守衛に近づき、銃の形にうっとりとしました。


「おつかれさまです。なにかありましたか?」


 挨拶をする男に、守衛は顔も向けずに答えました。


「ふん、毎日なにも起こりやしませんよ。起こる気がするだけで」


「へえ、平和でうらやましい」


「うらやましい? こうして釘づけにされているわたしがですか。退屈で非人間的な仕事ですよ……まあもちろん必要な仕事ですが。まちがいありません。我々は来るべき日の抑止力ですから」


「そうでしょうね。ですが、来るべき日とは?」


「さあ、知りませんね」


 守衛はどうでもよさそうに答えました。


「重大な仕事ですが、たまに、外に出たくなります」


「そういうときは、どうするんですか?」


「そりゃあ、戦争を呼ぶんです」


 守衛は笑いながら、散弾銃から手を離しました。

 筒先が床をこすり、火花が散ります。絵筆を取りおとしたときに散る赤い絵の具のような、かすかな火花でしたが、周囲の守衛たちは弾かれたように姿勢を正して銃をかまえました。

 男が目を覆うひますらありませんでした。

 守衛は紙きれのように、床に倒れました。

 ずっしりと重い死体から種がぽろぽろこぼれ、芽吹き、茎を伸ばし、猫のひたいほどの大きさの花畑をこしらえます。


「いかがですか、戦争は?」


 橙色のマリーゴールドが男に話しかけました。


「あんまり好きじゃないね」


 男は周囲を見わたし、渋い顔をしました。銃声が蠅のように飛びまわっているのです。

 猿の頭上をブンブンと飛んでいたので、やがて騒音に耐えかねて再起動した尻尾が、蝿たたきの役割を果たして、ようやく静かになりました。

 猿はマリーゴールドを見つけると、飛びあがりました。

 やわらかい茎を喜々としてちぎり、男の肩によじのぼって、その襟に飾ります。 

 男は花弁を失った茎へ両手を合わせましたが、なにを祈るべきか見当がつかず、思わしげに散弾銃を拝借しました。

 男は猿を右肩に、散弾銃を左肩に乗せ、先を歩きました。

 旅を始めたときよりも、歩幅は広くなっているのですが、思考力は弱まっているようです。

 昔よりも、よりよく物事がわかってはいます。

 それゆえに俗世間の、切った張った、好きだ嫌いだ、生きた死んだに、飽きた気がしてならないのです。

 そんなことを考えながら歩いていると、そのうち男は裸になっていました。

 マリーゴールドだけが首の血管にささり、ぶらぶらしています。

 猿はにっこりしました。こちらは男と違って幸福です。

 視界の端にある、あいまいな橙色を何度も、これは花だ、自分が彼に贈った花弁だと、そう思いだしたり、男の息苦しそうな呼吸、肺から鳴る音を体全体で聞くことが幸福なのです。

 そして、幸福は彼に歌わせます。

 奇妙な節の、だれも知らない言葉の歌です。

 これは、なにもかもを、きちんと忘れないため。

 そんな内容の歌詞ですが、猿は言葉を知らないので、音だけを真似します。

 歩きつづけた男は、ついに管理室に到着しました。

 疲れきった息をひとつ吐き、錆びついた扉の取手に指をかけますが、なぜか腕が動きません。

 こめかみから、青白く光るシリウスのかけらが、こぼれてゆき、男は凍りつきました。

 果てしない旅路、情熱をそそいだ存在、それらすべてが馬鹿げていると気づいてしまったのです。

 脳のなかに住みつく青い星のことづけに従ったばかりに、人生を無駄にしたと直感した男は、こめかみに指をつっこみ、残りの液体をかき出すと、あぐらをかいてつぶやきました。


「幸せを知らずに」


 男は扉を呆然と眺め、おもむろに散弾銃をかまえました。

 猿の瞳が、男をけげんそうに見つめます。

 こわがらせないように、八つの瞳の中心に銃口を向け、迷わず引金をひきます。

 花がこぼれ咲くように、赤い口が開きます。その銃声は男の体まで撃ちぬいて響きつづけます。

 轟音の衝撃で扉が開きました。かびくさいモップと雑巾、バケツの山、掃除用具いれがのぞきます。

 左の壁に、空調の操作盤がありました。

 男は猿の体を抱えて、操作盤の前に立つと、温度を三度さげました。

 ちいさな電光掲示板の数字をじっと見つめながら、銃筒をこめかみの穴にさしこみます。

 がっしりとした鉄の塊は、どのような難事にも動じない若き日の男のようです。そして、それを打ちくだいた倫理の偉大な姿のようでもあります。

 ですが、どのように考えようと、すべてがくだらないことです。

 右手の人さし指をトリガーにかけ指を曲げると、穴に音が吸収されたので、男はひっそりと倒れました。

 その弾みに、もうひとつのネジが床に転がりました。それはだれかの靴先で停止し、けり飛ばされます。

 そして、そのだれかは倒れた男の襟からマリーゴールドを抜きとると、ビルの外へ歩いてゆきました。

 

 白い厚紙のビルの前に、ついに子ども警官たちになぐり殺された雲の死骸が落ちています。


「おまえ、起きるんだよ」


 だれかはそう声をかけ、マリーゴールドを雲に供えました。

 雲はうつらうつらと片目をあけ、橙色の花に触れます。うちひしがれても、なお幸せそうな花です。

 雲は祈りはじめました。

 子ども警官にいじめられようが、怠惰な空から見放されようが、いつでも祈っていたのです。


「すべてがやさしさのうちに終わりますように」


 雨が降ります。白い厚紙の世界を、濡らしふやかし溶かしきり、なにもかもが眠りにつきます。






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