間話


 眠りに落ちた赤子を抱き、マダムは一呼吸つきました。

 気まぐれな昼が、彼女に片手をあげます。朝は物語の終わりに、朝寝坊して現れるため、常に昼が先んじるのです。

 そこに、ベランダの外壁をよじ登って壺が現れました。

 マダムが数歩さがると、壺は足を滑らせて、三つの破片に砕けてしまいました。

 しかし、すぐに億劫そうに立ちあがり、マダムのエメラルド色のスリッパをかこんで、マイムマイムを踊りはじめました。


「水をあげてしんぜましょう」


 一つ目の破片が言いました。

 その顔には、葬式が描かれています。


「いいえ、血をくべてしんぜましょう」


 二つ目の破片が笑いました。

 その顔には、鎖を手にした女が描かれています。


「あんたがほしいのは違う。ほら、夢に浸してしんぜましょう」


 三つ目の破片は、黒いチューリップをマダムに手渡しました。


「そうですね。溺れられるほどに」


 マダムが同意すると、黒い花はしわしわにしぼみ、かわりに白いチューリップを手にした昼の月が立っていました。

 彼は朽ちかけた建物に似ていました。ぼろぼろのシルクハットをかぶり、虫食いだらけのスーツを着ています。

 その半透明の体には、この暑さも関係がありません。

 ずいぶん昔になにもかもから興味を失い、まぼろしと化した彼は、空に居住する身でありながら、なにも支配しないのです。

 マダムは思いもよらない訪問客に驚きましたが、丁寧に膝を折り挨拶をしました。


「ごきげんよう、あなた」


 昼の月は人ぎらい特有の視線を彼女に送り、気づまりなようすで息をつきました。ひどい憂鬱症なのです。


「ご婦人に親切にしたいところですが、しかし、不気味でしょう。あなたに親切なわたしなんて」


「いいえ、あなたの親切はどんなものでもうれしいですわ」


「無作法のほうがましですね。だってほら、こんなにも、わたしは水びたし」


 昼の月は妙にはっきりした声でしゃべり、拍手をしました。

 すると、空を破る勢いで雷が鳴り、スコールがやってきました。

 マダムは嵐の猛々しさに魅入りましたが、雨が怒りのまま赤子をなぐりつけたのを見て、かたく抱きしめました。

 昼の月は、マダムの腕に触れました。


「いけませんよ、やさしく卵を抱くようにしないと。雨の音はよく効きますから」


 マダムが息をのんでうなずくと、昼の月は目をまたたかせ、再び気の滅入ったようすで道を観察しはじめました。

 その雨にけぶり、明瞭ではない面だちを、彼女はじっと見つめます。さまざまなことが思いだされました。

 肋骨のかたさ、ほそい足の指、黒くかたくまっすぐな毛。小さな耳、鎖骨からするレモンのかおり、わき腹のあざ。

 土星のうつくしさにも負けない、あの声。

 ゆるやかな昼の月の稜線に、記憶の細部が揺り動かされます。

 彼女は心のうちで、背後から抱きつき、体に触れました。

 腕の皮膚をはがして筋をほどき、さらに奥へ奥へと指を伸ばしますが、記憶はそれ以上の想像を拒絶します。

 月の本質である白い骨は、彼にふさわしくないからです。

 雨がすべての音を消し去ると、マダムのまつげに水滴が落ちて、まるで泣いているかのように頰を伝うのですが、実際の彼女に感傷はないようです。

 ただ呆然と空を見ています。


「お話をしてください」


 いつのまにか目覚めた赤子が言いました。


「やさしさの話を」


「ええ、もちろんです」


 マダムは笑いました。

 雨は弱まり、昼の月は消えています。足元に白いチューリップが落ちています。














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