夜
刑務所のせまい廊下を男は走ります。スリッパのかかとをこすらないように気をつけながら。
刑務官がむちを振るう音が遠鳴りしていますが、泣き声も怒声もいっさい聞こえません。
囚人は音をたててはならないからです。
走りつづけていると、鉄格子が暗闇に浮かんで見えたり、松明をもつ看守とすれ違う気がしますが、確信はありません。
この道が正解かどうかすら、判別がついていないのです。
これまでの人生で努めてきたように、決断力だけが指針です。
むろん猪突猛進は悪いくせであると理解していますが、違う人間になることは無理でした。
「いつなんどき、おれは人さまに怒っただろう?」
男は釈然としないままに走りました。
さして長い人生ではなく、輝かしい功績もありませんでしたが、可能なかぎり、人にやさしくしてきたつもりでした。
「つもりがよくなかったのだろうか? 本当の本当にやさしい人間は、つもりなどと不要な言葉をつけないはずだ」
男の右手には鍵束が握られており、ちゃりちゃりと、ふとももが風を切るたびに鳴りました。
ふと、友だちのことが頭をよぎります。
あのとき、なぜ金を貸さなかったのでしょう。正道を守ろうと、意固地になっていたことは確かです。
とはいえ、道徳に誠実だと胸を張れるほど、男は厚顔でもありません。倫理を語る資格があると豪語するのであれば、友だちを手助けするべきでした。男は面倒だったのかもしれません。ならば、それは人として一等忌むべきことかもしれません。
彼は男の幼なじみでした。同じ病院で生まれて、どちらも裕福な家庭で育ち、不自由なく育ちました。
しかし、時間がたつほどに彼だけが削られました。物事を器用にこなせず笑いものにされ、自信を失い、意欲をなくしました。
ある日、友だちは子どもを殺しました。
「やあ」
暗闇の穴から、子どもがひょっこりと顔を出しました。
ひたいは突きとばされたはずみに割れ、天の川もかくやの青い血が両目へ流れこみ、シリウスを宿しているのです。
「悲しそうね。どうして?」
「友だちを失ったから」
そう答えると、男の影はこう叫びました。
「本当は、あいつもこいつも、どうだってよかったよ」
男は肯定も否定もしませんでした。たしかに、他人を滑空する烏のように考えていたことは事実です。
遠目にひらめくうつくしい羽は、近くで見るとみじめでみっともないでしょう。それはいつも、男に人間の限界やら、人の情の儚さを連想させました。
とはいえ、人間そのものを好いてはいました。
泥水をすすり這いつくばる、いたいけな姿を受けいれることを、とてもやりきれないと思うくらいには、人間が好きでした。
「ぼく、死んだことは悲しくないんだ。そのかわり、あんたの傲慢さが悲しい」
「そうかい。おれは、どんなところが悪かったかな」
「自分が悪いやつだと知っていること。なのに、どうしてお父さんが死んで、あんたは生きているの?」
「おれが金を持っているからかもね」
「金はそんな簡単に運命を変えられるものなの?」
「だめな大人が、だめにならないためには」
子どもは鼻で笑い、シリウスを両目からつまみだすと、男の胸ポケットに滑りこませました。すると、それはつららに化けて心臓を一突きします。
その瞬間、友だちの葬式が脳裏によみがえりました。
雨降る六月の午後、気まずい葬式でした。悲痛も憐憫も遠く、男は平常の心もちです。
帰り道、電車に乗った男は、疲れきった人々の呼吸でくもった窓ガラスの外を、友だちが走ってゆく光景を見ました。
彼は少年の姿でした。だれもいない河川敷を、虫か、魚か、あるいは人か、なにかしら知らないすばらしいものを、あの日のように追いかけて笑っていました。
それを見た男は、生まれたときより用意されていた自分の居場所が、いったいどこだったのか忘れてしまいました。
おそらくですが、その記憶は、友だちが、地獄に、いや天国に、持ち去ってしまったのです。いたずら好きな男でしたから。
「金があろうが、人殺しするやつだっているんだ。そういうやつは生まれつき不幸だよ」
子どもは男の鍵に視線を向けました。
「そうさ。そういうやつは生まれつき不幸さ」
「ああ、そうだとも」
男は青ざめました。
「いや違う。幸せだった」
「幸せだった。それがなにさ。じゃあ、幸せを知らずに死んだぼくは、幸せだったかしら?」
子どもは穴の底で眠り、男は胸をなでおろして、走りつづけました。気がつくと、握っていたはずの鍵束は消えています。
刑務所のせまい廊下は果てが見えません。
死者に寄生するほたるの光が、行く先をかすかに照らします。
彼らは葬式の会場に必ず現れ、死者をいたむ人々を監視し、独自の書式で書きとめるのです。
男は目をこらしました。ほたるの翅に輪郭が見えたのです。
妻とふたりの娘、友人が数人、職場の人々がいます。
男は思わずがっかりし、それからすぐに態度を改めました。彼らとのあたたかな交流や記憶について、真摯になろうと努めました。
うつくしい心がけの男でしたが、だんだんと胸がもたれます。 地獄の番人がさしだす箸を受けとり、異物をかきだすと、男は肩を落としました。
時間に堆積する埃が、べっとりと箸に付いています。
これまで男は選択に自信を持ち、後悔しないように生きてきたつもりでしたが、実際は徒労だったのです。
臆病が原因だったのは明らかで、言葉で区切りをつけたが最後、迷子になるとわかっていた男は、意志の強さを装っていただけなのです。
突然、ほたるの翅から、妻がしゃべりかけました。葬式の参列者に話しています。
「みなさまに支えられて、幸せな人生だったかと思います」
男は彼女の冷静さに、不愉快さと不思議さを同時に感じましたが、ここ最近はすっかり忘れていた彼女の美点を思い出しました。 気丈なところを一番の長所だと思い、結婚したのです。
「みなさまに支えられて……」
その声は廊下に反響し、オブラートの羽に変わると、男の肩甲骨にすがりつきました。
男の目に涙が浮かびました。
この羽の、なんと脆弱なことでしょう。
気丈ではなく、葬式の準備に疲れただけです。当然、男を好いてなどいません。ある日から、決断と思考が面倒になり、時効が来るまで放置していただけです。
チューイングガムのごとく、吐いて捨てるために残った情。
それすらも、男の棺桶と一緒に土に埋没するのです。
男も無残で退屈な想いしか、彼女へ抱いていませんでしたが、それゆえに、悲しみは粘っこい唾液のように脳裏に張りつきました。
道の奥から、仰々しいようすでボンレスハムが登場しました。
麻のひもにがんじがらめにされ、セール札をぶらさげ、あれもこれもほしいほしいと、わめき散らしています。
「たまらないよ」
そう叫んで、妻がしつらえた羽を抱きしめますが、オブラートの薄さでは巨体を受け止めません。
床に穴をあけて、落下してしまいました。せせら笑う声が聞こえます。妻の声です。彼自身の声です。
ほたるが叩きつぶされました。
廊下は暗闇にもどり、なにもかもが男の視界から消えうせます。
刑務所のせまい廊下を淡々と走ります。
その姿はベルトコンベアに運ばれる荷物に似ており、走ることに慣れた男は、過去について考える余裕がありました。
「そもそも、おれは人間だったのだろうか?」
今となっては、それすらもあやふやでした。
もしかすると犬や猫、家畜の類かもしれませんし、虫や微生物かもしれません。
命ある生物だったかどうかすら、疑わしくなってきます。
そんな男のそばを、折紙が羽ばたいてゆきます。
虚弱な精神そのものが擬態する、鶴、船、手裏剣、小箱が、道具箱から飛来するのです。
「すべて忘れろ」
折紙の群れはささやきながら、せっかく折たたんだ体をみずから使い古しの紙に戻し、破いてしまいました。
「後悔を捨て、過去を捨て、自分すら捨ててしまえ。そうすれば、まともな気分になるはずだから」
男は意気消沈して、立ち止まろうとしました。折り紙の提案は、意気地なしの彼にとって、歓迎されるものだったのです。
しかし、べつの声が発破をかけました。
「いえいえ、まだです!」
男は飛びあがり、あわてて走りました。それに腹をたてた折り紙は、蝉のようにうるさい羽音をたてながら並走します。
「忘れろ、忘れろ」
悪意ある声から耳をふさぎ、走りつづけます。反対側から、かん高い声が応援しつづけます。
それは、お母さんの声でした。
公園で自転車に乗る練習をする男を、子どもよりも一所懸命になって応援していたのです。
「まだよ、まだ、がんばって」
応援の声が、男の内臓を腐らせました。
幼さに耐えきれず、感傷に反吐が出るのです。建設機械に滅茶苦茶にされる山々さながら、重ねた歳月が崩れてゆきました。
やがて、廊下にボロボロとこぼれ落ちた内臓は、元の持ち主の悲嘆など気にかけず、陽気に声をかけました。
「やあ、おつかれさま。楽になったろう」
男は長いあいだ世話になった友を哀惜もなく見送り、泣きながら走りました。
骨と皮膚だけになり、しばらくすると、しわだらけの皮膚が呆れかえって男を脱ぎ捨てました。
骨は最後まで男につきあって、早く足を止めるように提言しましたが、やがて足元でカラカラと音をたてて消えました。
ひゅうひゅうと、風をきって走りました。
ひとりきりで走ると、呼吸の必要がありません。空虚が心を満たしてゆきます。
思いがけずおもしろいことがひらめき、男はえづきながら、にやりとしました。
幸せの本質、それは穴です。風そよぐ春の余韻は、水墨の掠れ。男は、それそのものです。
男は牢屋の前にたたずんでいました。
小窓の格子ごしに草原が見え、文明を知らない前時代の太陽があくびをしています。
春風の吹く、涼しげな牢屋の片隅に、身ごもったマンゴーが寝そべっていました。
「期待されましたか?」
問いかける声はたえなる響きです。天井からぶらさがる天使の輪のモビールを回転させます。
「どこかに、なにかがあるのではないかと」
「はい」
「しかし、見あたりませんでしたね」
マンゴーは男を哀れみ、青葉の指先を腹に刺しました。薄橙色の汁が彼女の両足を流れ、水たまりを作ります。
「あなたのせいではありません。どうか、がっかりしないで」
声をかけられても、男は黙っていました。
そうしていると、マンゴーの穴が腐敗し、身の毛もよだつにおいが充満しました。
四月に遊ぶ鬼気の正体を男は知ります。つまり、これが長年忘れさられていたものだと言うのでしょうか。
「そんなことは信じたくありませんね」
男がつぶやくと、枯葉の指先は廊下の最奥を指さしました。
「ごめんなさいね。でも、そちらへ」
良心的な言葉に、男はゆっくりと奥へ向きなおり、立ち去ろうとしました。
しかし、うごめく黒い物体が目に入り、足を止めます。
病におかされ、斑点まみれのそれは蛆でした。汚臭を放つマンゴーから産まれたようです。
けなげな瞳が男を見あげました。
「まだ期待があるのならば、あなたは与えられるでしょうか?」
「なにを?」
「あなたのずっと欲しかったものを」
「そんなもの、おれは持っていない気がするけれど」
「持っていなければ、与えられないのでしょうか?」
男は考えました。それは間違いなく、男の肉体にも、精神にすらも最初から存在していません。
「与えられるのならば、与えたいです」
男は、無気力にも聞こえる震え声で言いました。
「だれに?」
蛆が男の右足の小指に這いよりました。
「あなたに」
「そうですか」
蛆は男を牢屋に放りこみ、鍵を閉めると、ためらうことなく火をつけました。回転する渦のなか、男は踊りはじめます。
今世において、みずから望んではだれにも与えなかったものが、心の裏からノックするのです。
その音は飲みこめないほどに注がれつづけ、満たしつづけ、鳴りやまない鼓動に溺れます。
やがて、男は高く舞う塵となりました。
草原の頭上に、小さな光が浮かんでいます。太陽ではなく、月でもないそれこそが、望んでいたものなのでしょうか。
風に流されながら、男は考えました。
とにかく、ようやく本物の夜がやってきたのです。
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