MANGO
みけろくろ
プロローグ
紫色のイヤホンが、ドアスコープの木枠ごしに揺れています。
ふいに男が枠のなかに現れ「今日が始まる」とつぶやきました。
目を疑うような大怪我をした男です。
耳から首までが、まるで五線譜のそれぞれの線を割いたように、破れてしまっています。
血のかわりに蔦とカーネーションが流れおちていますが、すでに苦痛は遠い思い出の地に去り、傷を覆うのはイヤホンだけです。
彼はアパートの人々を起こすため、うんと伸びをしてから、イヤホンに歌うように命じました。
「今日が始まる」
シーリングライトが点滅し、声高に復唱します。
「今日が始まる」
アパートの骨組みが振動し、驚きに目覚め、いまだ夜半すぎの街も震えながら体を起こします。
部屋の奥に満ちる深海も歌に泡だち、ようやくマダムが目を開きました。
ドアスコープをのぞきこみ、そこにいる男と歌の存在を認めると清潔な布にくるまれた塊を、しっかりと胸に抱えます。
歌が奏でられるほどに体熱が水を蒸発させ、熱くなった塊が海を干上がらせるのです。
湿度の高い塩辛い味のする部屋で、塊から放たれる匂いをそっと嗅ぐと、それは牛の糞の匂いがしました。
玄関扉が笑います。
「他人の愛のかおり」
もの思いにふけるマダムの袖を、布から突きでた小さな指先がつかみました。
「あなた、お話をしてくださいませんか」
月のような赤子に請われて、マダムはうなずきました。
赤子を抱えなおし、ベランダに続く窓をあけます。そばかすの浮いたほおが、赤々とした提灯に照らされました。
街ではすでに阿鼻叫喚が始まっています。
宝石箱、薬箱、おもちゃ箱、ごみ箱、世界のありとあらゆる箱をすべてをひっくり返しても、この煩雑さに比類しないでしょう。
地面が見えないほどの人の頭で、道が埋まっているのです。
人々は必死に歩いています。
軒をつらねる屋台は、人の波に押され前に後ろにかたむきながら怒声を響かせています。
彼らが扱っているのは、果物のジュースや牛の串焼き、どこで拾ってきたのか予想のできない怪しげな服飾品です。
ベランダに現れたマダムを見つけると、なじみの店主が手を振りながら金色の指輪を突きあげました。
「長年の婚礼準備に、二十一本目の指にはめる指輪を!」
マダムは肩をすくめ、道を眺めました。
そこにあるのは真っ赤な感情です。怒ったり喜んだり、両手両足を振りまわして、ばか騒ぎすることしかできないのです。
人々は歌います。おおいに食べ、おおいに飲む、それ以上に彼らは歌いたくてならないのです。
歌詞はこんな具合です。
ゆるしてたもう、すべてわすれたから。
あなたもすべてわすれてしまえ。
ゆるしてたもう、ゆるしてたもう!
横断幕には、通りの名前が堂々と書かれています。マダムは文字が読めません。ですが、その意味するところは理解できます。
歩け歩け。叫びながら、歌いながら、後の人に背を押され、幕を顔面に受けて、人々は先へ進んでゆきます。
今日はどのように赤子の要望に応えようかと考えながら、マダムは彼らの顔をつぶさに観察しました。
まず、アパートの排水管にもたれている男を眺めます。
かつては高名な学者だった彼は、知識に口をぬいつけられ、賢さに理論の共有を禁じられたせいで、腹だたしさのあまり腸が膨れあがっています。
その向かいの肉屋の店番は、鼻水を垂らしながら鏡をにらんでいます。だれよりも公平な裁判官だったにもかかわらず、天秤のぐらつきのせいで氷河に落ち、血管が凍って動けないのです。
道の果て、そびえる門の手前にも男がいます。しわだらけの唇を豆とれん乳のかき氷で冷やしながら、白紙の本を読んでいます。
彼は正直者です。中庸です。正義を知っているのです。
それでも、それゆえに、門をくぐる資格がないのです。
彼女は赤子の頰をなで、たずねました。
「だれが、いっとう罪深いでしょうか」
「もちろん、わたくしです」
赤子の答えに、マダムはほほえみました。
「かわいい子。お話をいたしましょう」
燭台の底のごとく明暗のはっきりとした人々の道のさまを、赤子とマダムは睥睨します。どしゃ降りの声の雨、ふたりは傘の下にいるのです。
静寂と怒号のすきま、ぴんと張った弓のように透徹な道徳が、息をひそめています。
どこかで言いあいが始まりました。
肩をいからせた警官が現れ、笛をくわえると、雷が鳴り、小鳥が落下し、マダムの唇は門のごとく開きます。
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