第10話

 天気のいい朝だった。


 住宅街の一戸建てから、その家の人たちが出て来た。

 父親が車椅子を押していて、そこには髪の毛のない子どもが座っていた。顔はぐったりしていて、太陽の日差しが眩しそうだった。


 平日だったの、両親が傍に付き添っていた。母親は片手に籐のバスケットを持って、頭には白い麦わら帽子を被っていた。

「あら、いいお天気!日焼けしちゃうわ」

 明るく張りのある声だった。カラ元気なのが見てわかった。

「いいお天気で良かった!眩しくない?」

 母親は息子の顔を覗き込む。子どもは力なく首を振った。もう、目の前が真っ暗で、何も見えていないかのようだった。

「やっぱり、帽子被った方がいいんじゃないか。眩しすぎる」父親が目を細めながら言った。

「うん。わかった。取って来るから待ってて」


 母親が玄関ドアの鍵を開けて中に入った。そして、野球帽を取って来ると、子どもにかぶせた。子どもの顎の辺りにはまだ日が当たっていた。

 五月だったから、天気が良くてもまだ少し肌寒かった。子どもの膝には薄い毛布が掛けられていた。小さい頃、外出先でよく使っていたものだ。戦隊ものの柄が入っている。


 父親は黙って車いすを押していた。一歩一歩噛みしめるようだった。母親はさっきから盛んに子どもに話しかけていた。「ほら、この店前はなかったでしょう?」そう言って新しくできたパン屋を指さした。今流行りのお洒落な外装で、単価の高いパンを売っていそうだった。

 子どもは興味なさそうに頷いた。


「今度買って食べよう」

 父親は言った。もう、他に言うことはなかった。そうした将来の話をすることも、彼には辛すぎた。その子がパンを買って食べることなどもうないのだ。

 その日は母親の発案で公園に出かけることになったが、本当は子どもに無理をさせているのではないかと父親は思っていた。あまりに元気がないので、母親でさえ、来なければよかったと感じ始めていた。息子の顔は老人のようで、生気がなくなっていた。唇は真っ白で粉を吹いたようだった。

 一年前はすごく元気で公園に走って行くのを止めるのがやっとだったのに、今はもう満足に歩くこともできない。両親は泣きそうになるのを堪えながら、無理にはしゃいだり笑ったりしていた。


 それが恐らく最後の散歩になるだろうということは、そこにいる三人全員が思っていた。僕はもうどこにも行かなくていい。前の日に息子がはっきりと言っていたのだが、母親が息子を励まして無理やり連れだしたのだ。最後に大好きだった公園を見せてやりたい、そして自分たちが最後にもう一度だけ幸せだった頃に戻りたいという両方の思いがその暴挙の引き金となっていた。


 公園に着いた頃には、息子は家を出た時より、一層無口だったし、半分目を瞑りそうになっていた。

「ほら、着いたぞ」

 父親が声を掛けると、息子はかすかに微笑んだ。そこは、少し広めの児童公園で、ジャングルジム、ブランコ、アスレチックなどの一般的な遊具の他に砂場が二つと走り回れるグラウンド、藤棚、回遊式の通路、水遊びできる池などの設備があった。


 少年は胸が張り裂けそうな思いでその場所を見つめていた。大好きだった公園。友達と泥だらけになって駆け回った公園。やはり懐かしかった。小さい子どもがいて、犬がいて、白い花が咲いている。みんな、今頃学校に行ってるんだろうな。少年は寂しく感じた。みんな元気なのに、どうして自分だけが病気なんだろうと思うと悔しかった。


「お水飲む?」


 母親が尋ねた。息子は首を振った。そう言えば、息子はその日一言も発していなかった。両親は公園の中を何度もぐるぐると回った。そこにいたのは、幼稚園に上がる前の小さな子どもばかりだった。大人たちは事情を察して目を合わせないようにしていたし、子どもはしげしげとこちらを眺めていた。両親も何も話さなくなっていた。この先、また子どもが出来たとしても、この子の代わりはどこにもいない。なぜ、こんなことになってしまったのか。誰にもわからなかった。


 そのうち、父親がトイレに行きたいと言い始めた。そばを通ると中が丸見えになってしまう公衆トイレだ。母親は頷いた。息子は相変わらず具合が悪そうに目線を落としていた。

「元気になったらまた公園で遊ぼうね。その時はサッカーボール買おうね」

 息子は頷いた。公園で球技をしてはいけないが、母親は忘れているようだった。息子はもう自分は〇んだとわかっていた。


 母親は息子と二人になると、何を話していいかわからなくなった。友達の話をしても本人が辛いだけだろう。

「どこかお悪いんですか?」

 後ろから声がしたので、母親は振り返った。見ると身なりのいいハンサムな男が立っていた。

「ええ、ちょっと」

「小児癌ですか?」

「は?」

 母親は男がぶしつけに言うので固まってしまった。癌だということは子どもには言っていなかったからだ。癌イコール〇ではないが、子どもは特にそう思うかもしれない。

「いいえ」

「私は医者ですからご心配なく。決して冷やかしなんかじゃありませんので」

 母親はびっくりして震えていた。でも、その男が何となく信頼できる雰囲気をまとっていたから、女は声を掛けてもらって嬉しいとも感じていた。

「私は〇〇大学の〇〇研究所で新薬の研究をしてるんです。今やっている研究ですと、マウスレベルでは癌を100%除去できました」

 男は熱心に話し始めた。専門用語を並べ立て、いかにもその道のプロフェッショナルという感じだった。出身は有名な大学の医学部だと言うし、間違いなさそうな人だった。数年前まではアメリカに留学し、ノーベル賞を取った有名な医師の門弟でもあったということだった。

「もう少し、早くお会いできればよかったんですが」

 母親は言った。

「ああ、でも、僕が研究している薬はまだ人間には治験を行っていないので…」

「連絡先を伺えませんか?」

「ナンパですか?」

 母親は噴き出した。

「まさか…」その目は泣きながら涙が溢れていた。男はポケットから箱を取り出した。指輪を入れるような白いケースだった。

「これはアメリカから持って来た、一錠三千万する薬です」

「まあ、すごい!」

「薬の値段っていうのはとんでもないものなんです。大した材料を使っていなくても、それまでの研究費を回収するために法外な値段が付けられているんですから。僕はこの薬を自製できますけどね。一つ上げますから、騙されたと思って飲んでみてください。一週間後には末期の状態から、ステージが一つ下がってますよ」

「え?本当ですか?」

「ええ。これはアメリカではもう認可されてるんです。ご存知のように、日本の厚生省じゃ認可までのスピードがえらく遅い」

「本当にそうなんです!お金があればアメリカに行けたんですけど…」

「これを飲めば、半年後にはこの子もこの公園を走り回っていますよ」

「え…」女は感激して震えていた。

「これは週一回飲む薬です。次の分を差し上げるのでここに連絡してください」

「は、はい」

「じゃあ、取り敢えず今日の分を…」

 男はポケットから錠剤を出すと、男の子の口に押し込んだ。母親は藁をもすがる思いで、その様子をじっと見つめていた。

「旦那さんが見たら怒るでしょうね。私はそろそろ失礼します。では、連絡待ってます」

 男は頭を下げて立ち去った。女性は笑顔で頭を下げた。


 女は旦那が怒ると思って、今あったことはだまっていた。もし、息子に何かあったとしても、結果は同じなのだ。息子の余命はわずかしかない。それなら、試す価値はある。女は希望を持ったり失ったりと、めまぐるしく変わる生活に疲れ果てていた。早く終わらせたかった。


 父親が帰って来ると、母親は車いすのハンドルから手を離した。両親はその後も息子の車いすを押しながら、公園の中を何週もし、息子に色々と話しかけていた。父親もトイレで一息入れて気持ちを切り替えていた。明るい声で何度も息子を励ました。


 やがて息子はだんだんと前のめりになり、気が付いた時にはひじ掛けの部分に上半身が乗っているような状態になっていた。

「〇〇〇!」

 母親は叫んだ。

「〇〇〇!」父親も叫んだ。

「すみません!誰か救急車を呼んでください!」父親は遊具で遊んでいる子どもの母親たちに向かって叫んだ。

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