第5話
ある二十代の母親が娘を連れて新幹線に乗っていた。母と娘の二人旅。荷物はほとんどない。もう、秋の終わり頃でちょっと肌寒い時期だが、車両の中は十分暖かかった。女は自由席の三列シートの窓側に娘を座らせた。娘が外の景色を見ていたいと言ったからだ。旅行の時はいつもそうする。女の子は、電車に乗る時いつも黙っていて、食べ物を口にすることもない。乗り物酔いするからだった。
女は通路側に座り、自分だけ駅の売店で買ったパンを食べていた。そして、読みかけの文庫本を読んだ。内容は恋愛小説。自分とは縁のない世界だ。自分の時間はそうした細切れのひと時しかない。…あ~あ。まだ独身だったらなぁ。女は読書に没頭した。
その日は、実母の具合が悪く、病院にお見舞いに行った帰りだった。母は関東済みだったが、女は関西に住んでいた。兄の話だと母は来年くらいに亡りそうだった。女の気分はずんと沈んでいた。仕事が忙しいのにあと何回通わなくてはいけないんだろう。交通費のせいで今月も赤字だ。だからと言って、親が余命いくばくもないのに、実の娘が行かない訳にいかない。兄の嫁にも金をケチって見舞いにも来ないと陰口を言われているようだ。
でも、本当にお金がなかった。旦那のいる人にはそれがわからないのだろう。兄は好きだが、嫁は本当に嫌な人だった。それを兄がいちいち伝えて来るのだ。母が〇んだら、兄と疎遠になろう…と女は決めていた。
新幹線の客層は出張帰りのサラリーマンなど多いようで、ほとんどがスーツ姿だった。誰も話している人がいない。みんな寝たいのだ。車両全体に気だるい空気が漂っていた。
母親はパンを三個買った。時間外れの夕食のせいで、パンの匂いが周囲に漂っていた。その香ばしいような、脂ぎったような匂いが娘の鼻腔を刺激した。時間はもう夜8時頃だったから、娘は外の景色を見て気を紛らわせることもできない。だからと言って、何もできることがなかった。こういう時は、自分の体調の変化に意識が移ってしまうのだ。
娘は車酔いが酷く、車両の臭いの他に、母親の食べているパンの匂いのせいで気分が悪くなって来た。唾液がこみ上げて来る。
娘はもう五歳くらいだったが、少し前から、ずっと泣き続けていた。まるで赤ん坊のように止めどなく。しかも、成長した分、もっと激しく声を上げて泣いていた。母親は、先ほどから、周囲の殺気を感じ取っていた。
「迷惑だから、泣かないの」母親は困り果てて、娘の口を押えた。母親の手も唾液でべとべとになる。娘はビニール袋を持ってだらだらと唾液を流しながら、泣き続けていた。
「苦しい。息ができない」娘が涙ながらに訴えた。
やがて、後ろの席から舌打ちする音が聞こえた気がした。女はきっと空耳だと思うって気持ちを落ち着かせた。
「うるせえな」
それは、四十歳くらいの男の声だった。母親の胸にずんと響いた。…どうしよう。女は途方に暮れた。『お願い。泣き止んで』母親は口を押えたまま、娘の頭を揺すって泣くのをやめさせようとした。早く吐いて大人しくなればいいのに…。でも、何も食べていないから吐くものもない。デッキに連れて行こうか迷ったが、その前に通路で吐いてしまうかもしれない…。
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