第3話

「痛み止めをあげるから…取り敢えずこれを飲んで」

 男は黒い革のカバンの中から白い錠剤を取り出した。女がカバンの中をちらっと見ると、聴診器や白衣、注射器などが見えた。往診の途中なんだ。男はテキパキと薬を包装から押し出すと、一粒女の子の口に押し入れた。

「ごくんと飲んじゃって」

 女の子は言われた通り薬を飲んだ。

「お母さん、誰か呼んで来てください。早く病院に行った方がいい」

「はい」

 女は慌てて、その場を後にした。2分ほどかかる自宅のある号棟まで。走りながら考えた。こういう時はどうしたらいいんだろう。うちは車もないし、車を出してくれるような親しい人もいない。タクシーしかない。もう、仕方ないか…。貯金は完全になくなるだろう。女は絶望的な気持ちだった。途中で誰か知り合いにでも合わないかと期待したが、知っている人とはすれ違わなかった。こんなことなら普段からもっと人付き合いをしていればよかった。


 階段を4階まで一気に登る。3階まで上がった頃には息が切れていた。


 女はこうしてタクシーを呼んだのだが、すでにかなりの時間が経っていた。正確にはわからないが、10分近くは過ぎているに違いない。タクシーを団地の前まで呼んで、その後で公園まで誘導しよう…。頭の中でシュミレーションした。女はトイレを済ませ、冷蔵庫から麦茶とゼリーを出して食べ、空腹を落ち着かせた。旦那の会社に電話しようか迷ったが、驚かせるだけなので、やめておいた。大体、旦那は娘をかわいがっていなかった。大けがをしたところで、インフルエンザにかかったくらいにしか思わないだろう。でも、5歳にもなると抱っこするのも大変だ。病院に連れて行ったところで、戻って来た時に4階までどうやって上がっていいやらわからない。


 女はこれからどうするか考えたものの解決策が思い当たらなかった。やっぱり病院から旦那に連絡して…来てもらわなくては。はぁ…っとうんざりしたようなため息をついた。お前のせいでケガをしたと言われるだけだ。


 女は今日が人生最悪の日かもしれないと思った。やっと娘の保険証を持つと、部屋を出た。


 外は少し曇っていた。雨が降りそうだった。女は一階まで降りてタクシーを待っていた。一体どれくらいの時間が過ぎたか見当もつかなかった。骨が飛び出した状態でどれくらい持つもんだろうか。でも、医者が付いてくれてるなら、応急処置はしてくれるだろう。タクシーはなかなか来ず、二十分くらい待たされた気がした。時計を持っていないから時間がわからない。


 ようやくタクシーが女の前に停まった。黄色時に赤と緑の線がある車だった。久しぶりに乗るタクシーは清潔だがタバコ臭かった。

「すいません。この先に公園があるので、そこで人を乗せたいんです…」

 女は運転手に説明した。

「その後に、〇〇病院に行きたいんですが」

「奥さん、どっか悪いの?」

 五十代くらいの運転手は心配そうに尋ねた。女に取って父親くらいの世代の人だった。どことなく人を安心させるタイプの顔をしていた。

「子どもがジャングルジムから落ちて、骨折してしまって」

「そりゃ大変だ。急がないと…今日、タクシーがなかなかなくてね…〇〇で式典があって。悪かったね。すぐ来れなくて」

 運転手は慌て出した。女が焦っていないことに怪訝そうな表情を浮かべていたが、女はさも深刻そうな顔をしてうつむいた。

「はい」

「救急車呼ばなくていいの?」

 あ、そうだ…救急車を呼べばタダだったのに‥‥失敗した。女は後悔した。

「〇〇病院は外来で行くと結構待つよ」

 運転手は自分の親が骨折して病院に行った時、二時間も待たされたという話をした。

「この近くだと〇〇っていう病院がいいよ。もともと〇〇大学病院にいた先生が開業してて…緊急の場合は先に見てくれるから」

「そうですか?じゃあ、そこで…」

 女はその個人病院がどこにあるかもわからなかったが、その運転手に任せることにした。

「今やってるでしょうか」

「うん。あそこは平日は休みないから」

 女はようやくほっとした。『あ、でも、あのお医者さん、なんて言うかな…もしかしたら、知り合いの病院を紹介してくれるかもしれない…』でも、医師同士の紹介はやめた方がいいと聞く。結局客を融通し合っているからだ。

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