第4章:同居生活のはじまり?

 梅雨入り間近の湿った空気が、温泉街全体を覆い始めた頃――。

 俺、三峰(みつみね)ジンの家である「三峰旅館」の二階廊下には、カラフルなスーツケースや段ボール箱が並んでいた。いずれも「スパークル・ステージ」のメンバーが持ち込んだ私物だ。まだ整理しきれていないため、あちこちに置かれていて、普段は閑散としている旅館の一角が急に賑やかになった。

 つい先日、「ご当地アイドル」として地元を盛り上げるために結成された彼女たちは、町長と商工会の後押しを受けて、この旅館にしばらく滞在することになったのだ。理由は単純で、まとまった人数が泊まれる施設が少ないうえ、運よく三峰旅館が空き部屋だらけだから。客が少ないという不名誉な理由でも、彼女たちの拠点として役に立てるのなら、喜んで受け入れることにした。


 「お邪魔しまーす!」

 元気よく旅館の玄関をくぐってきたのは、メンバーの一人、春川(はるかわ)サヤだ。ふわふわのセミロングヘアを揺らしながら、両手に新しい買い出し袋を提げている。続いて、ポニーテールがトレードマークの桜庭(さくらば)ミツキ、そして寡黙な印象の一ノ瀬(いちのせ)ナナが入ってきた。

 「ただいまー! ジンくん、荷物もう届いてるかな?」

 サヤの明るい声に振り向くと、俺は玄関先で出迎えながら「荷物なら二階に運んでおいたよ。まだ段ボールを開けてないから、必要なものがあればいつでも呼んで」と答える。旅館の部屋割りは、メンバー二人ずつ使ってもらう形で合計二部屋をあてがうことにした。とはいえ、女の子たちからすれば足りないスペースもあるかもしれないが、古い旅館なのでそこは多めに見てもらいたい。


 ちらりと視線を廊下の奥に向けると、ちょうどリーダーの水無瀬(みなせ)ヒナが姿を見せる。夏用の涼しげなワンピース姿で、両手に雑巾を持っていた。どうやら部屋の掃除をしていたらしい。

 「ジン、ちょっと来て。あの押し入れがどうしても開かないんだけど……」

 ヒナがそう声をかけるので、俺はスリッパを脱いで急いで廊下を駆け寄る。押し入れにかかった古い引き戸が歪んでいるようで、力を込めてもビクともしない。二人がかりで引っ張ると、ようやくズズッと隙間ができ、板の合わせ目にほこりが舞った。


 「わっ……けほっ!」

 ヒナが思わずむせかえるので、俺は慌てて扉を固定しながら「大丈夫か?」と声をかける。彼女は目をしばたたかせながら「あー、びっくりした。かなり老朽化してるんだね」と苦笑いを浮かべた。

 「ゴメンな、うちは築が古くて。メンテナンスも行き届いてないんだ……怪我しないように気をつけてくれよ」

 申し訳ない気持ちがこみ上げるが、ヒナは「ううん、これも旅館の味だよ。こういうレトロな雰囲気が好きって人もいるんじゃない?」と返してくれる。

 (ああ、そういう見方もしてくれるんだ。)

 リーダーとしてだけじゃなく、前向きな性格を持つヒナには何度も助けられている気がする。



 実は、ヒナと俺は“婚約者”という設定になっている。しかしこれは町長や商工会が仕掛けた“町おこし”のための企画で、正式な婚約というわけではない。とはいえ、この旅館で一緒に生活している以上、周囲からは「本当に婚約してるのでは?」と色眼鏡で見られることもしばしばだ。

 少し前の記者会見で「ご当地アイドルのリーダーと温泉旅館の息子が期間限定で婚約」という話題が出たときは大騒ぎになった。今でもネットやテレビでネタ扱いされることがあり、俺は落ち着かない。正直、まったく慣れないまま日々が過ぎている。


 そんな中、ヒナや他のメンバーが長期滞在をするとなれば、当然“同居生活”に近い形になる。彼女たちは女性専用の大部屋を確保しているし、俺は別の部屋だから“同棲”とは違う。でも、年頃の男女が同じ建物に暮らしている事実は、どうしたって意識してしまうものだ。

 実際、いまもヒナが半袖のワンピース姿で動き回るのを見ていると、旅館の仕事だとわかっていても妙にドキドキしてしまう。考えないようにと思っても、目が追いかけるのを止められないのだ。



 部屋の準備を終えたあとは、夕食の買い出しに行くことになった。ヒナはメンバー全員の食費をできるだけ節約したいらしく、まとめ買いをして自炊を試みるらしい。もっとも、旅館のスタッフとしてばあちゃんが日々の賄いをしてくれるときもあるが、彼女たちは彼女たちで独自のメニューを試したいのだという。

 「ジン、商店街のスーパーまで一緒に行かない? 初めての場所だから、道がわからなくて」

 そう言われ、俺は「うん、いいよ」と答える。婚約者“らしく”買い出しへ行くのかと思えば、実際にはメンバー全員が予定を合わせられず、今日はヒナ一人だけが行くことになっていた。ミツキは別のミーティング、サヤとナナはSNS用の配信準備に忙しいらしい。


 夕刻の涼しい風が町を吹き抜ける中、俺とヒナは並んで石畳を歩く。旅館から商店街へは徒歩10分ほどの道のり。途中、もともとお土産屋だったらしい建物がシャッターを下ろしていて、暗い雰囲気を醸し出している。

 「うわあ……思った以上にお店が閉まってるんだね」

 ヒナが寂しげな表情を浮かべる。俺も改めて街を見回して、ため息が出る。ここ数年で廃業した店も多く、かつては地元民が利用していた商店もことごとく閉じてしまった。

 「だからこそ、今の企画で少しでも盛り返したいんだ。アイドルやイベントがきっかけで、人が増えてくれればいいけど……簡単にはいかないよね」

 「うん……でも、私たちも頑張るよ。まだ何も成果が出てないけど、いつかきっと……」

 ヒナが微笑むその横顔を見て、俺は何とか気持ちを奮い立たせる。


 久しぶりに営業しているスーパーへ到着すると、地元民の少数が買い物をしているだけだった。商店街という名前がついているけれど、実際はこのスーパーがかろうじて生き延びているという状況だ。

 「必要なものって何? 食材?」

 カートを押しながらヒナに尋ねると、彼女はスマホのメモを確認しつつ、「玉ねぎ、じゃがいも、人参、あとはお米……」と淡々と品目を挙げていく。アイドル活動のかたわら、料理もするつもりなのか。ちょっと意外だ。


 「ヒナって、料理できるの?」

 率直な疑問を投げると、彼女は恥ずかしそうに笑う。

 「まあ、一通りは。私、家にいた頃から母に手伝わされてたんだ。アイドルになってからは忙しくてあまりやってないけど、これからはメンバーで協力して自炊もしてみようって話してるの」

 「へえ……」

 俺はホッとした気持ちになる。多少なりとも料理ができれば、旅館のばあちゃんの負担も減るし、メンバー同士で頑張っていけるだろう。


 夕方のスーパーはそれほど混んでおらず、俺とヒナはスムーズに必要な食材をカートに入れていった。途中、地元のおばちゃんらしい人がこっちを見てヒソヒソと何か話している。「あれ、旅館の息子さんよね?」「隣にいるのがウワサの婚約者……?」と聞こえてくる。俺はこそばゆいような、気まずいような気分になって、ヒナに小声で言う。

 「……なんか、じろじろ見られてるね」

 「しょうがないよ。婚約って言われてるんだもん。“本当なの?”って思うのは当然でしょ」

 ヒナはどこか達観している。ここ最近、結構な注目を浴びてきたから、もう慣れたのかもしれない。


 ひととおり買い物を済ませると、会計を終えて外に出る。ちょうど日が沈みかけており、空は薄紫色に染まっていた。俺たちは買い出し袋を両手に提げて、石畳を旅館へと引き返す。

 すると、途中で若い男性のグループが目に入る。観光客らしく、スマホ片手にどこか楽しげに歩いているが、ちらりとこっちを見て何か話しているようだ。

 「……あれ、あの子、アイドルの……ってか、男といるじゃん。ヤバくない?」

 そんな声が耳に入ると、ヒナの肩が一瞬ビクッと震えた。すぐに聞こえなくなったが、やはり気にしているらしい。


 「気にしなくていいよ、ヒナ」

 「うん……でもやっぱり、見られると意識しちゃうね。私、アイドルって言ってもまだ駆け出しなのに。変に思われるのかなって……」

 「まあ、俺たちが“婚約”って設定だし、ファンの人からすれば複雑かもしれない。でも、誤解を解くのも難しいよな」


 正直、この状況は俺も落ち着かない。ヒナが芸能活動をする立場なら、男性とのツーショットを撮られることに神経質になるのは無理もない。しかも婚約者の体裁を取らなきゃいけないのに、本当の愛情を育んでいるわけでもない(……少なくとも今の時点では)。アイドルとしても、彼女個人としても、やりづらいことばかりだろう。


 「……ごめんね、ジンにも変な気を遣わせて。でも、今は私たちがこっちに住んでる以上、こういうのも含めて乗り越えなきゃダメだよね」

 ヒナはそう言って、ぎこちなく微笑んだ。俺は首を振り、彼女が抱える気まずさや不安を少しでも軽くしてあげたいと思う。



 旅館に戻ると、ばあちゃんが台所から顔を出し、「買い物お疲れさん。あんたたち、お腹空いてるだろうから、夕飯の時間には一緒に食べてちょうだいね」と声をかけてくれた。メンバーが多いのでキッチンを貸しているが、ばあちゃんが用意した食事もある程度は提供してくれる。

 「ありがとうございます。助かります!」とヒナが頭を下げる。その姿を見て、ばあちゃんはまるで孫を見るかのように目を細めていた。


 俺が買い物袋を抱えたまま二階へ上がろうとすると、ふと後ろからミツキが「あれ、ジンとヒナ、一緒に買い物行ってたの?」と顔を出す。俺が「うん、夕食の材料をいろいろね」と答えると、ミツキはにやっと笑い、

 「えー、いいなあ。婚約者らしく新婚生活っぽい感じじゃない? 私も混ざりたかった!」

 と冗談めかして声をかけてきた。ヒナが「べ、別に新婚生活ってわけじゃないよ。普通に買い出ししただけだし」と照れ隠しっぽく返す。


 (……やっぱり、こういう話題になるのか)

 未だに婚約設定をどう受け止めればいいかわからない俺は、少し頬が熱くなる。そんな空気を振り払うように、「さあ、食材を冷蔵庫に入れようか」と二人を促し、再び歩き始めた。



 その日の夜は、ばあちゃんが用意した家庭料理をメンバー全員で囲みつつ、簡単な打ち合わせも兼ねて過ごすことになった。大広間にちゃぶ台を並べ、テレビをつけながらの雑多な夕食だが、全員が揃うと賑やかだ。アイドルグループのミーティングが、まさかこんな昔ながらの畳の部屋で行われるなんて不思議な光景ではある。

 「明日は朝から撮影があるんですよね? 町長が“婚約アピール写真”を撮りたいって言ってたけど……」

 サヤが口を開くと、俺は思わず箸を止める。そうだ、明日は旅館周辺で写真を撮って、SNSにアップするという企画があった。地元の小さな雑誌にも載せるつもりらしい。

 「俺とヒナが婚約者“らしく”手を繋いだり、散歩するシーンを撮るって言ってたような……」

 ヒナは俯きつつ、「そうそう。ちょっと恥ずかしいよね、あれ……」とつぶやく。メンバーたちはクスクス笑い、ミツキが「最高じゃん! 思う存分イチャイチャする機会でしょ?」などと茶化すから、二人とも「ち、違うよ!」と慌てて否定する羽目になった。


 食事を終えたあと、ヒナは「今日は疲れたから先に休むね」と言い、部屋へ向かった。俺も自分の部屋へ戻り、机に向かって明日の撮影や旅館の手伝いの段取りを確認する。

 ふと、隣の部屋のほうから話し声が聞こえてきた。ヒナやメンバーがガールズトークでもしているのか、声のトーンから楽しげな雰囲気が伝わる。内容まではわからないが、アイドル活動の話かもしれないし、あるいは俺とヒナの“婚約関係”をネタにしているのかもしれない。

 それを考えると、妙に胸がざわざわする。婚約者という設定に過ぎないとわかっていても、こうして近くで暮らしていると意識してしまうのだ。


 (……同じ敷地内に、ヒナがいるんだよな)

 この先、俺たちがどれだけの時間を一緒に過ごすのか、想像がつかない。少なくとも、町おこし企画が続く限り、彼女たちは旅館に滞在する。生活リズムの違いが生んだ小さな衝突も、ファンからの冷やかな視線も、全部ひっくるめて受け止めなければならないのだ。



 翌朝は、朝早くから旅館の周りを掃除するばあちゃんを手伝っていた。するとヒナがジャージ姿で現れ、「おはよう、ジン。まだ眠そうだね?」と茶化してくる。実際、昨夜はなんだか落ち着かずに睡眠不足気味なのだが、それは口には出さない。

 「おはよう、ヒナ。今日は撮影があるんだろ? あんまり無理するなよ」

 「うん、わかってる。……でも、やっぱりちょっと緊張するよ。私とジンが並んで“婚約者ムーブ”するわけだから」

 ヒナは苦笑いしながら箒を動かして落ち葉を集め始めた。メンバーたちが起きてくるまで、こうして少しのんびりとした時間を過ごすのも悪くない。


 やがて、朝食の時間が来るころにはサヤ、ミツキ、ナナが揃い、ばあちゃんが炊きたてのご飯と味噌汁、干物を用意してくれる。メンバーは「こんな朝食、久しぶり!」とはしゃいでいるが、ヒナは撮影のことを気にしているのか箸が進まない様子だ。

 「ヒナ、ちゃんと食べないと動けなくなるぞ」

 そう注意すると、彼女は少しだけおかずを口にして、「ありがとう、何とか大丈夫。……頑張って食べる」と言う。



 午前中、町長と写真撮影のスタッフが旅館へやってきた。軽い挨拶を済ませたあと、さっそく「じゃあ、婚約者同士の仲良し写真を撮りましょうか」と言い出す。ヒナは真っ赤な顔をして俺の隣に立ち、ぎこちなく腕を組もうとするが、どうにも硬さが抜けない。カメラマンからは「もっと自然に笑ってください!」と盛んに指示が飛ぶ。

 同居生活の流れで、一緒に家事をしているところや、観光スポットを散歩しているところなど、様々なシーンを切り取るらしい。実際はまだ小競り合いもあるし、互いのペースが合わず戸惑うことも多いのだが、写真の中だけは仲睦まじい“新婚”ムードを演じなければならない。


 「ヒナ、もうちょっとこっち来て。肩が離れてる」

 「ご、ごめん……」

 俺が声をかけると、彼女は恥ずかしそうに身を寄せてくる。肩が触れるだけで心臓がドキドキする。実際、こんなに近くで一緒に写るのは初めてだし、しかも周囲にスタッフや町長、メンバーまで見守られていて落ち着かない。

 「わー、ヒナたち、いい感じいい感じ!」

 サヤがスマホ片手に茶化すように言う。ミツキは「もっと顔くっつけちゃえー!」と声を上げ、ナナは少し離れたところで控えめに笑っている。数日前までの静かな旅館からは想像もつかないドタバタぶりだ。


 そんな撮影を終え、カメラマンが撤収していったころには、俺とヒナはどっと疲れを感じていた。メンバーが面白がってはしゃいでくれるぶん救われた気もするが、改めて“婚約者”を演じる難しさを痛感した。

 「ふう……すごいエネルギー使うね、これ」

 ヒナがロビーの椅子に腰を下ろしながら言う。俺も横に座り、「ホントにな……お互い、お疲れさま」と応じる。本人同士ですら、“期間限定”のぎこちない関係なのに、周囲から「仲良しをアピールして!」と煽られるのだから大変だ。



 夜になり、メンバーは部屋でSNS配信の準備をしたり、翌日以降のスケジュールを確認したりと忙しく動き回っている。俺は旅館の雑用を片付けてから自室に戻ったが、どうにも今日の出来事が頭から離れない。

 (ヒナがそばにいることに慣れるのは、まだ先になりそうだ……)

 同じ建物に住むというだけで、こんなにも気持ちが落ち着かないのかと、自分でも呆れる。婚約者を装うために外出や撮影を共にする場面が増えれば、ますます戸惑うだろう。

 だが、不思議と「嫌だ」という感情は湧かなかった。確かに気まずさはあるし、好奇の目で見られるプレッシャーも大きい。でも、ヒナが困ったときには助けてあげたいし、彼女が微笑む姿を見ると胸がじんわりと温かくなる。それを“恋心”と呼んでいいのかは、まだわからない。


 布団に潜り込むと、隣の部屋からかすかに聞こえる笑い声に耳を澄ます。メンバー同士、何やら楽しそうに話しているようだ。

 (ああ、みんな若い女の子なんだよな……同居なんて人生で初めてだし、色々大丈夫か?)

 俺は一人、暗がりの中でそんなことを考えながら、いつの間にか浅い眠りに落ちていく。



 こうして「スパークル・ステージ」の長期滞在が始まった。

 同じ旅館の中で、俺とヒナは別々の部屋に暮らしているだけなのに、毎日顔を合わせるし、一緒に買い物へ行けば必ず周囲から“婚約者”として見られる。小さな衝突や困惑があっても、表面上は「仲良しカップル」を演じなければならない場面が多い。

 しかし、その日々の繰り返しが、じわじわと俺たちの距離を変えていくのだろうか。今はまだ、ぎこちない雰囲気と好奇の視線に戸惑い続けるばかりだ。それでも、彼女たちの笑い声が旅館に響くときだけは、なぜだか胸が温かくなる。もしかしたら、この同居生活の中で、本当に“大切なもの”を見つけられるのかもしれない。

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