第2章:奇妙な“期間限定婚約”企画

 翌週の月曜日、学校の授業を終えた俺――三峰ジンが旅館へ戻ると、玄関先に妙な熱気が漂っていた。控えめに言って、ただならぬ空気だ。いつもの閑散とした雰囲気とは打って変わって、スーツ姿のおじさんたちが慌ただしく行き来し、客間のほうからは大きめの声が漏れ聞こえてくる。


 「今日はやけに人が多いな……?」


 胸騒ぎを覚えながらロビーに足を踏み入れると、そこでは商工会議所の面々や町長、さらに見慣れたアイドルグループ「スパークル・ステージ」の四人が集まっていた。どうやら、また何か新しい計画を話し合っているらしい。昨日までヒナやメンバーたちは、周辺を回って動画や写真を撮り、SNSで地道に発信を続けていた。朝はライブ配信をすることもあったようで、少しずつだが反応が出始めているらしい。


 「おお、ジンくん、おかえり!」


 町長がこちらに気づいて、にっこりと笑みを浮かべた。その口元には、不敵と言っていいほどの自信が見える。嫌な予感がする……。この人の“思いつき”でロクなことが起きた試しがない。とはいえ、俺は一応敬意を払って頭を下げる。


 「町長、どうも。こんなに大勢で、何を話してるんですか?」


 俺がそう尋ねると、町長は小声で「ちょっとな、衝撃的なアイデアが生まれちゃってね」と顔をほころばせた。横を見ると、商工会議所の人たちがどことなく上機嫌で、アイドルメンバーのうち桜庭ミツキや春川サヤは、呆れたような顔をしている。一ノ瀬ナナは黙りこくっていて、リーダーの水無瀬ヒナはどこか険しい表情だ。


 「衝撃的なアイデア……?」


 「うむ。まあ、全員そろったところで改めて説明しよう。ジンくんの意見も大事だからね」


 そう言って、町長は身振り手振りで会議室代わりになっている客間へと促す。そこにはちゃぶ台の上に書類が並べられ、メモ帳や飲み物が散乱している。ばあちゃんが「まあまあ、お茶でも飲んで落ち着いてくださいねえ」と、お盆を抱えてやって来たところだった。


 「ばあちゃん、ただいま」


 「おかえり、ジン。なんだか今日は大ごとになっちゃってねえ……。でも、みんなやる気があるのはいいことだと思うんだよ」


 ばあちゃんは苦笑いしつつ、お茶を並べ終える。俺も座布団に腰を下ろし、町長の説明を待つ。ヒナは俺に小さく会釈して、すぐに視線を資料へ戻す。先ほどより微妙に不機嫌そうなオーラが漂っているのが気になる。


 「では、手短に話そう。今回の“ご当地アイドル”企画は、SNSを中心に地道に広報してもらっているわけだが、正直なところ、まだ十分なインパクトが足りない。街の名前がバズるには、大きな話題づくりが必要なんだ」


 町長はどこか芝居がかった口調で話を切り出す。すでに商工会の人々はうなずいているし、アイドルサイドとしても納得はしているようだ。しかし、問題はどうやって話題をつくるか、である。


 「そこでだ。私は『結婚』というキーワードに注目した。若者の結婚離れが叫ばれる昨今、地元の若い人同士が結婚して子どもを育てられるような、そんな街づくりを推奨している自治体も多い。つまり、結婚は社会的な話題になりやすいんだよ。しかも地域活性化と絡めるとなると、インパクトは大きいだろう?」


 いきなり“結婚”という単語が飛び出し、俺は開いた口がふさがらない。まさかとは思うが、こいつが一体どう転がってくるのか。ヒナが怪訝な表情をしているのも無理はない。というか、町長はまさか……。


 「それで、具体的にどうしようというんですか? アイドルが結婚するってわけにもいかないでしょう」


 商工会のベテランらしき男性が口を挟む。町長は待ってましたと言わんばかりにうなずいてから、書類を取り上げた。


 「そこでこの案だ。『地元旅館の若旦那の息子と、アイドルのリーダーが期間限定で婚約』という形で、実際に“仮の婚約発表”を行う。そして、結婚披露宴とはいかないまでも、“お披露目イベント”のようなものを開いて、観光客を呼び込む。マスコミも呼ぶ。どうだ? 話題になるだろう」


 轟音が頭の中に鳴り響くような衝撃を覚えた。まさかすぎる。俺とヒナが婚約? しかも期間限定? 何を言っているんだ、この町長は。周囲を見渡すと、メンバーたちは一様に驚きの表情で固まっている。ヒナの顔は青ざめて見える。


 「ちょ、ちょっと待ってください、町長。それ、本気で言ってるんですか?」


 思わず俺は大声を出してしまう。すると、町長は「もちろん本気だとも!」と胸を張る。まるで大発明をしたかのような顔つきだが、俺には理解が追いつかない。


 「アイドルの婚約って、普通はタブーなんじゃないですか? ファンを裏切ることにもなりそうだし、そもそも彼女たちはまだデビューしたばかりで、しかもご当地アイドルなんですよ?」


 「そこは“期間限定”なんだから大丈夫だよ。実際に結婚するわけじゃない。ただ、『実は地元の旅館の息子さんと真剣交際しているんです』という設定にすれば、一気に話題が膨らむ。さらに、温泉旅館という古き良き風情をアピールできる。若いカップルにも温泉旅行に来てもらえるかもしれないし、マスコミが取り上げてくれる可能性も高い」


 町長が熱弁をふるう。商工会の何人かも「確かに面白いかもしれないなあ」と肯定的な意見を漏らし始める。本当に大丈夫か、これ。ヒナが必死の形相で手を挙げた。


 「あ、あのっ! ちょっと……私たち、アイドルとしてやっていく上で、恋愛スキャンダルは大きなリスクです。それに、メンバー同士の関係性だってありますし、事務所……というほどじゃなくても、関係者にも許可を取らないと」


 頷きながら「そうだよね」と相槌を打つ。ごもっともだ。ところが、町長は「ご安心を、そこはもう“話を通して”ある」と自信満々に言い放つ。

 「アイドル側のマネージャーさんにも、まあ、条件付きで了承を得ているんだよ。まだ正式サインはしてないけど、面白そうって言ってくれてね。メンバーの若さやフレッシュ感を活かして、バズりを狙いたいそうだ。もちろん、反発もあるだろうが、そういう物議こそが注目を集めるんだ」


 なんという強引さ。ヒナは絶句している。横でミツキが「まさかこんな方向に話が行くとは……」とため息をつき、サヤは「うわー、めちゃくちゃ大変そう」と苦笑い。ナナは少し心配そうにヒナを見つめている。


 「ジンくん、君の家である三峰旅館にとってもビッグチャンスだ。いきなり観光客がドドッと増えて、しかもメディア露出が増える可能性がある。旅館が大繁盛となれば、街自体にも波及効果があるだろう?」


 たしかに、うちの旅館としては渡りに船かもしれない。最近は客の入りが激減していて、存続の危機とも言える状況だ。もしメディアで紹介されれば、一定数の客は来てくれるかもしれない。それが一時的なブームだとしても、まったくゼロよりはましだ。


 しかし、婚約というのは人生を左右する重大なイベントだ。それを“期間限定”だろうが“仮”だろうが、軽々しく扱っていいものか? 俺自身、まだ17歳の高校生だし、ヒナだって同年代か少し上かわからないが、未成年なのは間違いない。


 「でも、その……さすがに一大決心というか、簡単にOKは出せませんよ。ヒナたちも嫌がってるじゃないですか」


 そう言う俺に対して、町長は目を細めてこちらを見据える。妙な圧力を感じた。続いてばあちゃんの姿が視界に入ると、彼女はどこか申し訳なさそうな顔をしている。じいちゃんが長引く療養中で、お金もままならない状況。少しでも旅館の収入が増えれば助かる……そんな思いが伝わってくる。


 「……それに、うちのばあちゃんやじいちゃんも、このままじゃ旅館を続けていくのが難しいって頭を抱えてますしね」


 俺の言葉にヒナは顔を上げる。その瞳には戸惑いの色が宿っている。先ほどまで反対していたものの、彼女もまた、町を盛り上げることを目標にこの地に来たわけだ。

 すると、商工会の一人が「ならば、ここは若い者同士、一肌脱いでくれんかね。あくまで“企画”だからさ。いっそ演劇の延長と思ったらどうだ?」と横から口を挟む。アイドルが演技するのも珍しくはない。さらに別の人が「期間限定で話題をさらい、その後“若い二人は別々の道を歩むことにしました”って形で円満解消すればいいだけ」と付け足す。


 ヒナは唇をぎゅっと結んだ。アイドルとしてのリスクは大きいが、ここで断ったら、この温泉街の人たちの期待を裏切ることになるかもしれない。しかも、事務所(的な存在)からは概ね了承を得ている。周りはイケイケムードだ。

 俺はどうだ? もしこの話を蹴ってしまったら、ばあちゃんたちに「なんであんなチャンスを逃したんだ」と言われかねない。実際、町長も「こんな企画めったにないぞ」と強くプッシュしてくるし、数少ない再建策なのだろう。


 「……ううん」


 ヒナは何度かため息をついたあと、覚悟を決めたように口を開く。


 「本当はやりたくないですよ。でも、私たちは町を盛り上げるためにここに来ました。多少無茶な企画でも、もし町の人が望むなら……私も真剣に考えます。ただ、条件があります。私たちのイメージを不当に傷つけるようなやり方は絶対にしないでください。あと、メンバーそれぞれが納得できる形でないと駄目です」


 リーダーらしい発言に、メンバーのミツキやサヤもうなずく。ナナも小さく頷いている。町長は「もちろんさ!」と朗らかに答えるが、その計画の詳細はまだよくわからない。

 一方、俺はまだ決心できていない。だが、背中を押されたような気分だ。ヒナがここまで腹をくくるなら、俺も覚悟を決めるべきかもしれない。


 「ジンくん、どうだろう?」


 不意に町長がこちらに話を振る。視線が一斉に集まる。気まずさと緊張で胸が痛むが、俺は深呼吸してから答えた。


 「……わかりました。俺も、この温泉街をなんとかしたいという思いはあるし、ばあちゃんやじいちゃんのためにも、少しでも旅館にお客さんが戻ってきてくれるなら協力します。やるなら、とことんやりますよ」


 そう返事すると、場が一気に盛り上がり始める。町長や商工会の面々は「よし!」「これで一歩前進だな!」と口々に声を上げ、ばあちゃんはホッとしたような笑顔を見せる。対してヒナは、「……仕方ないわね」とどこか呆れたようにつぶやいたが、それ以上は何も言わなかった。



 その日の夕食後。町長たちは一旦帰り、旅館には再び穏やかな時間が戻った……かに思えたが、ヒナだけはどうにも落ち着かない様子だ。夜、廊下を歩いていると、ふと中庭に面した広縁で彼女の姿を見かけた。


 「ヒナ……どうしたの?」


 声をかけると、彼女は少し驚いたようにこちらを見る。どうやら気配には気づいていなかったようだ。

 「ううん、ちょっと頭を冷やしてるだけ。ごめんね、こんな勝手な話、ジンを巻き込んじゃって」


 彼女の瞳には自責の色が混じっている。思わず俺は首を振る。


 「いや、ヒナのせいじゃないよ。もともと町長が突拍子もないことを言い出したんだから。でも、ヒナが承諾してくれたから俺も踏ん切りがついたし、本当に嫌だったらいつでも断っていいんだよ。町長には悪いけど」


 「……それが、簡単にはいかないのよ。私、ここに来るまでの過程でもいろいろ支援してもらってるし、メンバーやスタッフだって私をリーダーとして見てるから。やるって言ったらやらなきゃ、皆を裏切ることになる」


 リーダーとしての責任感を背負うヒナ。高校生の身分でここまで思いつめるなんて、相当プレッシャーだろう。

 「アイドルが恋愛禁止かどうかはグループによって違うけど、少なくともデビュー直後に婚約なんて……普通は有り得ないし、ファンの人たちから叩かれる可能性だってある。でも、やると決めた以上、私は中途半端にしたくない」


 スッと夜風がカーテンを揺らし、外の木々がざわめく音が聞こえる。ヒナの横顔はどこか寂しげだ。彼女はしばらく黙っていたが、やがて笑みを浮かべようとした。


 「でもね、ジンが受け入れてくれたのは嬉しかった。絶対嫌だって言われたらどうしようって思ってたから」


 「俺も正直、まだ戸惑ってるけど……。この温泉街をよくしたい気持ちはあるし、ばあちゃんやじいちゃんのために少しでも稼がないといけないと思ってる」


 自分で言っておきながら、婚約という人生最大級のイベントをこんな形で利用していいのかという迷いは消えない。だが、ヒナや町のみんなが少しでも前を向いてくれるなら、と自分に言い聞かせる。

 「なんだか私たち、変なところで意気投合しちゃったね」


 ヒナはそうつぶやき、苦笑する。まったくその通りだ。普通はもっとロマンチックな流れとか、互いに好き同士になったとか、そういう経緯を踏んだうえで婚約するのが自然だろう。でも、今はそんな理想を語れる状況じゃない。


 「……ありがとう、ヒナ。とりあえず、二人でうまくやっていこう。こういうの、嫌かもしれないけど……」


 「ううん、こちらこそよろしくね、ジン」


 小さく手を振り合い、俺たちはそれぞれの部屋へ戻る。背中合わせになる形で広縁を離れるとき、彼女のかすかな笑顔が脳裏に焼きついた。まさか婚約することになる相手が、こうして同じ旅館の廊下にいるなんて……と考えると、背筋がゾクッとする。

 まだ何も始まっていない。だけど、予兆めいたものが確かに俺の胸をざわつかせている。



 翌日からは、町長や商工会のメンバーが本格的に企画を動かし始めた。もともと観光客向けのPRイベントを計画していた日程に合わせて、“婚約発表会見”をぶつけることになったのだ。来週末、町が所有するコミュニティホールにて、メディアを数社呼んで催すという。


 放課後、俺は早めに学校を出て、旅館に戻る。そこでは町長や商工会議所の連中がまた来ていて、今度は「衣装の用意が必要だ」「指輪はどうする?」などと妙に具体的な話をしている。一方、ヒナたちアイドルはメンバー全員が何やら作戦会議をしているようだ。リーダーのヒナは相変わらず複雑そうな顔だが、ミツキやサヤ、ナナは「やるなら徹底的に面白くしちゃおう!」と割り切った様子にも見える。


 「ヒナ、進捗はどう?」


 俺がヒナに声をかけると、少し疲れた表情でこちらを向いた。


 「うん、一応ね。メンバーには話をして、協力してもらうことにしたの。サヤが言うには、今回の企画をきっかけに配信のアクセス数が伸びるかもしれないから、むしろプラスに捉えようって。ナナも“設定なら仕方ない”って言ってくれて……」


 「そうか。皆、優しいんだな」


 「うん。でも、絶対に反発するファンもいるから、私たちもその対策を考えなきゃいけない。中途半端な説明だと逆効果になるからね。そこは事務所と連携して慎重に進めるつもり」


 リーダーとしての責任感を垣間見るたびに、ヒナのすごさを感じる。アイドル活動って大変なんだなと思うし、そんな大変な立場なのに自分の気持ちを奮い立たせ、メンバーをまとめようとしている姿勢には頭が下がる。

 「ちなみにジンは、家族にはもう話したの?」


 「ばあちゃんには昨日の夜、改めて聞かれたよ。“本当にいいのかい?”って。まあ、俺も悩んだけど、きっぱりやるって言った。ばあちゃんは“いざとなったら自分が謝るから遠慮しないで”って言ってくれたけど、謝らなくていいようにしたいよな」


 「そっか……。おばあちゃん、優しいね」


 ヒナはそう言って微笑む。実際、ばあちゃんは俺にとって母親代わりであり、精神的支柱でもある。俺は彼女を安心させるためにも、この企画を成功させたいと思い始めていた。



 数日後の放課後、町長から「結納の打ち合わせをしよう」と呼び出しがあり、俺とヒナは商工会議所の会議室へ足を運んだ。もっとこぢんまりした話かと思いきや、やたらと本格的だ。どうやらマスコミにも“結納”という形でネタを提供したいらしい。


 「期間限定婚約なんだから、結納は大げさすぎませんか?」

 ヒナが直球で疑問を投げかけるが、町長は「“風習を大切にする温泉街ならではの結納式”というフォーマットがウケるんだよ! ここまでやれば、地元紙だけでなく、ワイドショーも興味を持つかもしれない」と自信満々。観光協会の女性スタッフも「昔ながらの婚礼行事を再現するってことで、写真映えもいいですしね」と笑顔だ。


 「で、当日は記者会見も兼ねて、ハッピーな雰囲気を演出したい。ジンくんとヒナちゃんが並んで写真撮影に応じてくれれば、完璧だよ。あ、指輪はこれを使ってくれないか?」


 そう言って取り出されたのは、小さな箱。中には、控えめなデザインだけれど上品なシルバーリングが収められている。どこから調達してきたのだろうか。

 「わざわざ指輪まで……本格的ですね」


 俺がたじろいでいると、商工会のおじさんがニヤリと笑う。「地元のジュエリー職人に急遽依頼してな。これも“地域の力”だよ。もっと豪華なのを用意したかったが、時間がなかったから最低限のものだ」

 ヒナはその指輪を見て、複雑そうにまばたきする。実際にはただの小道具かもしれないが、婚約指輪なんて、女の子にとっては大きな意味をもつアイテムだろう。俺も見ているだけで胸がどきりとする。これをヒナの指にはめるシーンが公開されるのか、と。


 「はあ……期間限定とはいえ、こうまで準備されると逃げられないですね」


 ヒナが嘆息する。町長は「逃げなくていいんだよ、頼むから最後まで走り抜けてくれ!」と大声で笑う。まるで劇場型イベントだ。でも、この演劇の主役を演じるのは俺とヒナ。ちゃんと応えなくてはならない。



 そして迎えた週末。俺たちは“婚約発表会見”を控えていた。場所は商工会が管理するコミュニティホールの一角で、ひな壇や花が飾られ、“祝・ご当地カップル誕生!?”などという垂れ幕まで用意されている。そのセンスに突っ込みたい気持ちをこらえつつ、俺は舞台裏で待機していた。


 「はあ……ここまで大掛かりにするなんて、想像してなかったよ」


 控室で思わず本音がこぼれる。鏡に映る自分は、普段とは違う紋付袴(っぽい衣装)を着せられ、髪もすっきり整えられている。結婚式というよりは成人式に近いような感じだが、要するに“和装で婚約イベント”の演出だ。

 「ジン、似合ってるじゃん。こういうのは勢いが大事よ、勢いが」


 ミツキが軽く冗談まじりに慰めてくれる。彼女は少し悪戯っぽい笑顔を浮かべながらも、「本当に大丈夫なの?」と心配そうな声をかけてきた。サヤは興味津々にステージセットを覗いて、「すごーい、意外に人がいるよー」と感想を漏らしている。地元メディアだけでなく、県外からもいくつか記者が来ているらしい。ナナは落ち着かない手つきでスマホをいじっているが、やっぱり緊張しているようだ。


 一方、肝心のヒナは、別の部屋で着付けを受けている。彼女は振袖姿で登場すると聞いているが、実際どんな姿なのか想像もつかない。この婚約イベントが茶番だとしても、俺は胸の奥がそわそわして仕方がない。


 「さあ、そろそろ開演だよ。ヒナ、準備はいい? ……おお、きれいだなあ!」


 スタッフの声が聞こえたと同時に、部屋のふすまが開き、ヒナが姿を現す。その瞬間、思わず息を呑んだ。白地に淡い桜色の柄があしらわれた振袖が、彼女の黒髪と映えて眩しい。アイドル衣装とはまた違う、和風の品格が感じられる。メンバーのミツキやサヤ、ナナも「わあ……!」と感嘆の声をあげている。


 「……どうかな? 似合わないかもだけど」


 ヒナは恥ずかしそうにうつむいた。いや、全然似合ってる。むしろ美しすぎるくらいだ。俺は目のやり場に困り、「すごく……きれいだよ」としか言えない。

 そんなやり取りをスタッフたちが微笑ましそうに見つめている。カメラもすでに回っているようで、今回のイベント自体を動画にまとめて、公式YouTubeや各種SNSで発信するつもりらしい。俺たちはこれからステージで“婚約発表”を演じるのだ。


 「んじゃ、二人とも行ってらっしゃーい。派手にやってきてね!」

 ミツキが悪ノリして手を振る。サヤとナナも拍手で送り出してくれた。まるで本当の結婚式前の光景だが、これはあくまでも“企画”だということを忘れてはいけない。俺はヒナと並んで廊下を歩きながら、胸の高鳴りを抑えられずにいた。



 ステージへ続く扉を開けると、そこには想像以上の観客が詰めかけていた。地元住民や関係者だけでなく、他の地域から観光のついでに来たという見物人もいる。さらにメディアのカメラがあちこちに設置され、フラッシュがチカチカと光る。ホールに響くざわめきのなか、俺たちはスポットライトを浴びて壇上へ進んだ。


 「ええ、本日はお忙しいなか、お集まりいただきありがとうございます!」


 司会を務めるのは商工会の若手職員の女性。手慣れた口調で開会宣言をすると、観客から拍手がわき起こる。続いて町長がマイクを取り、「本日は本当にめでたい日でして、我が町の温泉街を盛り上げるために奔走してくれている“スパークル・ステージ”のリーダー・水無瀬ヒナさんと、地元旅館の息子である三峰ジンくんが、婚約を結ぶことになりました!」と高らかに宣言した。


 会場は一瞬、静寂。その後、「ええっ!?」という驚きの声と拍手・ざわめきが混じり合う。どうやら、事前に告知はされていたものの、実際に見てみると相当にインパクトがあるらしい。若い二人が和装で並んでいる様子は、確かにフォトジェニックかもしれない。


 「皆さまにはご存じのとおり、彼女たちは“ご当地アイドル”として結成されたばかり。まだ全国的な知名度こそ高くはありませんが、すでにSNSを中心に支持を得始めております。そして、こちらの三峰ジンくんは、温泉街で老舗『三峰旅館』を営む家に生まれ、地元をこよなく愛する高校生。二人はお互いを思いやる関係となり、今回、この町を挙げてお祝いする運びとなりました!」


 町長が大げさなジェスチャーを交えつつ話す。もちろん、真実は「町長の企画が暴走してやむを得ず」といったところだが、会場の人々にそんな内情を知らせるわけにはいかない。俺とヒナはただ、おとなしくうなずいている。


 「では、新郎――もとい、ジンくん! 一言ご挨拶をどうぞ」


 突然マイクを向けられ、俺は焦る。事前に何かコメントを考えておくべきだったか……。いや、一応町長からは「インタビューがあるよ」と言われていたが、ここまで派手とは思っていなかった。覚悟を決めてマイクを受け取り、咳払いをする。


 「ええっと……三峰ジンです。まさかこんな風にステージに立つ日が来るとは思っていませんでした。正直、まだ戸惑っていますが、僕はこの温泉街が大好きです。家族がこの旅館をずっと守ってきてくれたからこそ、今の僕があると思っています。だからこそ、温泉街が盛り上がるなら、何でも協力したいと思ったんです。ヒナさん――水無瀬ヒナさんは、そんな僕の気持ちを理解してくれて、一緒に頑張ってくれることになりました。短い間かもしれませんが、皆さん、どうか温かく見守ってください」


 緊張で手汗がにじむが、思ったよりすらすら言葉が出た。会場の拍手が聞こえ、少しだけ肩の荷が下りる。続いてヒナにマイクが渡されると、会場の視線が一気に集まった。


 「ご紹介にあずかりました、水無瀬ヒナです。今は“スパークル・ステージ”というご当地アイドルグループで活動しています。今回、いろんな方のご縁があって、こうして婚約という形をとらせていただきました。最初は正直不安でした。でも、ジンくんや彼のご家族、町の方々の熱意を感じて、私も力になりたいと思ったんです。これからもっと町の良さを発信して、皆さんに知ってもらえたら嬉しいです。どうかよろしくお願いします」


 最後に深々と頭を下げるヒナ。その所作は、アイドルとして舞台慣れしているとはいえ、やはり大役を担う緊張感が伝わってくる。だが、その瞳にはしっかりと意志が感じられた。観客からは「頑張れー!」という声援が上がり、盛大な拍手が続く。


 すると司会が「それでは、婚約指輪の交換を……」とまさかの展開を告げる。俺はぎょっとするが、すぐにスタッフが小さな指輪の箱を持ってきた。リハーサルで一度確認したとはいえ、本番となると覚悟が違う。

 ヒナも少し頬を赤らめ、「……練習どおり、ね」と小声でささやく。俺はコクリと頷き、指輪の箱を受け取る。会場からは「おお~」と歓声が上がり、カメラのフラッシュが一段と激しくなる。


 (あくまで“企画”……あくまで“企画”……)


 自分に言い聞かせつつ、ヒナの左手をそっと持ち上げる。やわらかな指先に触れると、心臓がバクバクする。こんなの、いくら期間限定の茶番とはいえ、かなり刺激が強い。

 俺は震える指で指輪を差し込み、ヒナは小さく息を呑む。会場からは歓声と拍手が巻き起こる。こうして、俺とヒナは“仮の婚約者”として世間にお披露目されたわけだ。


 「では、最後に二人で手を取り合って、記念撮影を!」


 司会の言葉に従い、俺はヒナの隣でそっと手を重ねる。フラッシュが目を刺すように瞬き、その眩しさの向こうでヒナが笑顔を作るのがわかった。俺もぎこちなく笑ってみせる。

 こうして、町ぐるみの奇妙な婚約企画は幕を開けた。街の片隅で荒れ果てかけていた温泉街が、今、全国へ向けて話題を発信しようとしている。俺とヒナはカメラに向かってポーズを取りながら、ただただお互いを見つめ合い、これから起こるであろう大きな波に呑まれないよう祈るばかりだった。



 発表会見が終了すると、数人の記者がインタビューに押し寄せてきた。こぢんまりしたイベントと思いきや、意外にも県外の地方局が来ていたらしく、「お二人は学校も同じなんですか?」「出会いはいつごろ?」などと矢継ぎ早に質問をぶつけてくる。俺もヒナも事前に打ち合わせた“設定”を崩さないように、気を使いながら答えた。


 「実は、最近まで互いをよく知らなかったんですが、温泉街で協力するうちに距離が縮まって……」

 「お互い、まだ高校生ではありますが、いろいろ将来を見据えていきたいんです」


 白々しいかもしれないが、これも演出だと思えば割り切れる。ヒナはアイドル的な慣れで、うまく笑顔をキープしながら当たり障りのない受け答えをしている。俺などまだまだ素人で、冷や汗が止まらないが、ヒナが隣にいてくれるおかげでなんとか踏ん張れた。


 やがて、記者たちがマイクを引っ込めて退散していく。ステージ裏に戻り、俺はどっと疲れが押し寄せた。


 「ヒナ、大丈夫か……?」


 「ふう……何とかね。思ったより記者さんたちの勢いがすごくて、息つく暇もなかった。ジンもお疲れさま」


 振袖姿のヒナは頬に汗を浮かべていた。アイドルとはいえ、こんな急ごしらえの企画で記者対応までさせられるなんて、しんどいに決まっている。彼女が崩れ落ちてもおかしくないと感じるほどだが、しっかりとリーダーの役割を果たしているところに感心してしまう。


 「それにしても、今日はお客さんが多かったね。正直、驚いたよ。町の人だけでこんなに集まるのかって思ってたけど……外の人もかなり来てたんだな」


 「うん、まあ宣伝もしたし、地域のネット掲示板とかでも話題になってたみたい。それに“アイドル婚約”なんてインパクトあるから、興味本位で来た人も多いんだろうね」


 ヒナは振袖の袖を押さえながら、ほっと息をつく。メンバーたちも合流して「やったね、盛況だったじゃん!」と声をかけてくれる。サヤが「めっちゃ写真撮られてたよー! 拡散されるの楽しみ!」と無邪気にはしゃぎ、ミツキは「ヒナ、振袖姿すごく似合ってたよ。結婚式はこんな感じになるんだね~」などと冷やかす。ナナは控えめながらも「見惚れちゃった」とほほ笑んでいる。


 「な、なんか恥ずかしいな……」


 思わず目を逸らす俺。メンバーたちはすっかり打ち解けていて、婚約イベントを面白がっているようだが、俺とヒナにとってはなかなか気が抜けない。

 だが、こうして無事に第一歩を踏み出したという事実は大きい。今後、メディアの反応やネットの声によっては、さらに大きなうねりが起こるかもしれない。もしかしたら本当に、この温泉街が一躍脚光を浴びる日が来るのだろうか。


 会見場の片隅で、町長や商工会の人たちがにやにやと満足げに笑っているのが見える。俺は複雑な気持ちを抱えながらも、ここまで来た以上は最後までやり通さなければと、心の中で覚悟を新たにした。


 ヒナがそっと俺のそばにやってきて、気遣わしげに声をかける。


 「ジン、今日は本当にお疲れ様。大変だったね。……でも、あの指輪のシーン、少し恥ずかしかったけど、いい感じだったと思うよ」


 「そ、そう? 俺は緊張しすぎて顔がこわばってなかったかな……」


 「大丈夫、ちゃんと優しい表情してたよ。私も一瞬、ドキッとしちゃったくらい」


 そう言ってはにかむヒナを見て、俺は心臓が跳ねるのを感じる。もしこれが本物の婚約だったら、どれほど幸せな瞬間だろう。だが、今はあくまで“期間限定”の契約に過ぎない。

 「えっと、ありがとう。……じゃあ、これからもよろしくな、“婚約者”」


 冗談めかしてそう言うと、ヒナは頬を赤らめたまま微笑んだ。

 「うん、よろしく、“婚約者”さん」



 こうして俺たちの奇妙な婚約ストーリーが幕を開けた。アイドルと温泉旅館の息子、まるで接点のなかった二人が、町の都合で結ばれた形。これが本当に成功へ繋がるのか、まだ誰もわからない。

 しかし、この発表会を境に、街やネット上でちょっとした騒ぎが巻き起こるのは間違いなかった。俺とヒナが想像するよりはるかに大きな渦が、やがてこの温泉街を、そして二人の関係を巻き込んでいくことになる――そんな予感に胸をざわつかせながら、俺たちは次のステップに足を踏み出そうとしていた。

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