温泉街のご当地アイドル、全国区への道!?~地元も夢も諦めない “仮婚約”パートナーシップ~
まとめなな
第1章:さびれた温泉街とご当地アイドル?!
朝が来た、とわかってはいても、窓の外は湿った曇天が広がっていた。湯煙が立ちのぼるはずの温泉街には、ほとんど人気が感じられない。まるで、ここだけ時が止まってしまったようだと、俺――三峰(みつみね)ジンはそう思う。
ガタガタと音を立てているのは、築数十年を軽く超えているこの建物のせいなのか、あるいは今日はただ風が強いだけなのか。いずれにせよ、俺の家であり、家業でもある「三峰旅館」は、さびれたこの温泉街の空気を象徴するかのように古く、少し寂しい。
「おはよう、ジン。今日も朝風呂にいらしたお客様、結局ゼロだったわねえ。宣伝したいんだけど、お金がないからねえ……」
調理場へ向かおうとしていたところ、廊下でばあちゃんと鉢合わせした。ばあちゃんは74歳。背は曲がっているし、髪もずいぶん白くなってきたけれど、誰よりもテキパキと動き回る。三峰旅館の女将を半世紀近く務めている、いわばこの場所の生き字引だ。
「うん、最近は本当に客足が伸びないね……。朝風呂なんて贅沢だと思うんだけどな、俺は。ぬるめに湯温を調整してもらって、疲れをほどくには最高だって自分でも思うくらいさ」
そう言いながら俺は足早に台所へ向かい、朝食の後片付けを進める。今日の宿泊客は、出張で来たサラリーマンが一人だけ。それも昨夜遅くチェックインしてきて、朝早くにチェックアウトしていった。つまり、もうこの旅館にいる泊まり客はゼロだ。観光地らしさの欠片もない。
ふと、外を見遣る。古い石畳の道沿いには土産物屋が並んでいるはずだが、どの店もシャッターが閉まりっぱなしで、通りを歩く人影もない。週末なら、かろうじて地元の人間が行き交う姿を見かける程度だ。それでも以前は、まだ多少観光客の姿があった。けれど数年前に近隣に大きなテーマパークができたせいで、こちらには誰も寄り付かなくなった。
俺が高校に上がった頃から、どんどん街の活気が失われているのがわかる。かつては外湯巡りや足湯のスポットを楽しむ人たちであふれていたという話も、今や昔。現実はシビアだ。
「ジン、今日の手伝いが終わったら学校行くんだろう? ちゃっちゃと片付けてきなさい」
ばあちゃんが声をかけてくれたので、食器を洗い終えると俺は急いで部屋に戻り、制服を着替え始める。高校二年生の俺は、朝の手伝いを済ませてから登校するのが日課だ。ちょうどエプロンを脱ごうとしたとき、ふすまの向こうからじいちゃんの咳き込む声が聞こえる。肺の調子が悪いらしいが、医者に行くお金もままならない状況なのが申し訳ない。
「行ってきます」
小声で家族に告げ、俺は玄関を出る。石畳の道を歩くときに足元を見ると、しっとりとした苔が生えている。観光客には風情があると言われそうだが、今や手入れする人も少なく、危うく滑りそうになることもしょっちゅうだ。
旅館のある通りを抜けると、わずかに商店が並ぶメインストリートへと出る。昔は、朝から湯気の立つ饅頭屋や、地元野菜を並べる八百屋が開店していた。だが今はどうか。野菜はスーパーに流れ、饅頭屋は観光客激減で閉店。シャッター通りになりつつある。
そんな中でも唯一営業しているのは、町の小さなコンビニと、銀行の支店だけ。通学のバスも時刻表の本数が減らされており、ちょうど俺が乗るバスは1日に数回しか来ない。遅刻しないように急がなくてはならないのだが、それでもこの街の風景を見渡さずにはいられない。
(……なんとかできないものかな)
高校二年にもなって、自分の将来も心配だけど、旅館や家族のこれからだって大問題だ。将来は大学へ進学したい気持ちもあるけれど、学費を払えるかどうか。だいたい、ここに残っても仕事がない。旅館を継げばいいじゃないかという声もあるが、これだけお客さんが入らなければ潰れるのは時間の問題かもしれない。
そんなことを考えながら、バスに揺られて小一時間ほどかけて学校へ向かう。学校は温泉街から少し離れた市街地にあり、生徒数はそこそこ多いが、それでも都会とは比べ物にならない。俺もいつかはこの街を出て行くのだろうか。考えるたびに、胸がチクリと痛む。
◇
「おはよー、ジン。今日もバスで来たの? 毎朝大変だね」
教室に到着すると、隣の席の友人・楠木(くすのき)マサトが声をかけてきた。マサトは同じ中学出身で、温泉街から少し離れた住宅街に住んでいる。俺よりも恵まれた環境だけど、気取らないし、俺が旅館の息子だとからかうこともない。気のいい奴だ。
「温泉街からここまで、通うだけでも結構疲れるよ。まあ毎日手伝いがあるから仕方ないけどさ」
腰を下ろしながらそう返事すると、マサトは「お前のばあちゃん、まだまだ元気そうで何よりだよな」と笑う。そうなんだ、ばあちゃんは元気で助かる。だが、いつまで持つのか。俺が引き継ぐときには、もっと過疎化が進んでいるかもしれない。
「そういやジン、聞いた? なんか町おこしの企画で、新しい動きがあるって噂だよ」
いきなりマサトがそんな話をふってきて、俺は思わず背筋を伸ばす。町おこし。温泉街の人たちは、ずっと前から観光客を呼び戻そうと頑張っているはずだが、俺の見える範囲では成果が出ていない。
「新しい動きって、何か具体的にわかったのか?」
「いや、詳しくは知らない。ただ、観光協会とか町長が音頭をとって、夏休みに向けて何かするって。もしかして、でかいイベントでもやるんじゃないのか?」
「ふうん……」
テンションが微妙に上がらないのは、何度も「一大イベント計画!」と言いながら立ち消えになってきた例を知っているからだ。花火大会をやろうにも、スポンサーが見つからず中止。有名芸能人を呼びたくても、そんな予算どこにもない。結局、町民が寄付を募って小さなライブを開催するのがせいぜいだった。
「まあ、あまり期待はするなよ。もし話が本当で、何かが起こったらラッキーくらいに思っておけばいい」
マサトは気楽そうに言う。そうだな、と相槌を打つしかない。授業が始まるチャイムが鳴り、教室のざわめきが落ち着いていく。先生が入ってきて、当たり前の日常が流れる。
◇
放課後。部活に参加せず、俺はすぐに帰りのバスへ乗り込む。せっかくの高校生活、何か部活でもやればいいと言われるが、旅館の仕事を手伝うことを考えると、そうする余裕がない。自分自身、スポーツや文化系活動にも興味が持てないのが正直なところだ。
またしても景色の変わらないバスの車窓を眺めながら、ため息が出る。一度だけでもいいから、都会のネオンや大型ビルに囲まれる生活を体験してみたい。そんなことを考えていると、あっという間にバスは温泉街の入口に到着する。
驚くほど誰も降りない。俺一人のためのバスみたいで、運転手さんも「お疲れさん」と声をかけてくれた。すっかり顔なじみだ。どこまでも過疎化を象徴するかのように静かだが、それが逆に俺を少しだけほっとさせる。旅館までは歩いて5分ほど。早く帰って掃除をしないといけない。
ところが、旅館の玄関がやけに騒がしい。どうしたんだろう? 慌てて扉を開けると、待合スペースらしき場所に華やかな衣装を着た数人の女の子たちがいた。その隣には、町長をはじめとした役場の人達。まったく見慣れない光景だ。
「これは……何かの間違いじゃないのか?」
思わず独り言が口をついて出る。なぜなら、その女の子たちには明らかに“アイドルグループ”を思わせるようなステージ衣装が施されていたからだ。華やかな色合いで、白を基調にしつつもフリルが重なり合ったワンピース風。それぞれ個性あるリボンやアクセサリーを身につけている。
「あ、帰ってきたんだね、ジン」
ばあちゃんが俺に気づき、小走りでやってくる。こんな姿を見るのは久々だ。よほどテンションが上がっているのか、ばあちゃんは少し上気した顔だ。
「どうしたの、ばあちゃん。この人たち、もしかして観光客?」
俺がそう問いかけると、ばあちゃんは嬉しそうに笑ってみせる。そして、にやりとした表情で、「いやいや、町の企画でね、この子たちをしばらくウチに泊めることになったんだよ」と言い出した。
「泊める? え、こんなに大人数を?」
驚きつつ人数をざっと数える。目の前の女の子たちは四人。しかも引率の大人もいるようで、相当な頭数だ。もともと三峰旅館は全部で十数室しかなく、大勢の団体客には少し狭い。だが最近は客足も少ないから部屋に空きはあると言えばある。問題はそんなことではなく、なぜこんな“アイドル”風の子たちがここに?
「そちらが、三峰ジンくんですね?」
声をかけてきたのは町長だ。温泉街の町長は俺も顔を知っているが、町長自身がわざわざ旅館に来るのは久々だ。そういえば昨年の選挙で再当選してから、町おこしのためにいろいろと動いてはいたらしい。だが、こうして具体的にアイドルを連れてくるなんて、初耳だ。
「はい、三峰ジンです。それで、これは一体……?」
「実はね、今回“ご当地アイドル”を結成してもらって、この温泉街を盛り上げようという企画がようやく実現しそうなんだよ。グループ名は『スパークル・ステージ』! この四人でデビューしてもらう予定だ」
「スパークル……ステージ?」
なんともピンと来ない名前だが、アイドルのグループ名をつけた、ということはわかる。それにしても、なぜこんな辺鄙な場所で? しかし町長の表情は満足げで、続けてこう言った。
「彼女たちは一時的にこの温泉街に滞在して、PR活動をしてくれるんだ。温泉の泉質や自然、伝統行事なんかも体験して、SNSやライブを通して発信してくれる。まあ、自治体としては最後の賭けだよ。少しでも若いお客さんに興味を持ってもらいたいからね」
なるほど。今ではSNSでバズることが観光誘致に有効だとも聞く。ご当地ゆるキャラみたいなノリで、ご当地アイドルを売り出す魂胆か。
「あ、どうも。私、リーダーの水無瀬(みなせ)ヒナです。今日からしばらくお世話になります」
目の前で深々と頭を下げたのは、一際目立つ少女。ストレートな黒髪に、瞳はぱっちりと大きい。白をベースにした衣装の端々に、少しだけピンク色のラインが入っていて、彼女だけが特別仕様なのだろうか。背はそれほど高くないが、姿勢が良く、どことなく芯の強そうな雰囲気がある。
「俺は三峰ジン。こっちこそ、お世話になるって言うか……旅館の方はあまり快適じゃないかもしれないけど、よろしく……」
正直、こんなオーラのある子がウチに泊まると想像すると、気恥ずかしい。ばあちゃんは「女の子たちの力で、この温泉街が賑やかになるかもしれないねぇ」とやたら嬉しそうだ。
「本来ならもっと大きな旅館に泊めたかったんだけど、閉館したところが多くてね。それに、三峰旅館さんには顔なじみが多いから、お願いしやすかったというわけさ」
町長がさらっとフォローする。そうか、廃業した旅館やホテルはすでに建物も取り壊されているところが多い。うちはかろうじて続けている数少ない旅館というわけだ。
「とりあえず、彼女たちを部屋へ案内してくれないかな。あとで少し打ち合わせをしたい。地元の学校や商店街にも協力を仰ぎたいしね」
「は、はい、わかりました」
町長や役場の人たちが居間に集まり、何やら賑やかに会話を始める。俺はリーダーの水無瀬ヒナを含めた四人のアイドルを、空き部屋に案内することになった。二部屋に分かれて泊まってもらう予定だ。
◇
畳の部屋に通すと、ヒナたちは「わぁ、すごく和風!」と一通りはしゃいでいたが、すぐに「冷房は大丈夫かな」「Wi-Fiは?」などと現実的な質問を投げかけてくる。ちょっと苦笑してしまう。
「ええと、冷房はちゃんと動くと思うけど、何かあれば言って。Wi-Fiは……ロビー辺りは飛んでるけど、部屋の中はちょっと電波が弱いかも」
「そっか。でもロビーがあるだけいいか。配信することもあるかもしれないし、工夫すればどうにかなるかな」
そう言ったのは、ポニーテールが似合う別のメンバー・桜庭(さくらば)ミツキ。隣でスマホをいじりながら「とにかく発信しなきゃね」とつぶやいているのは、ふわふわ系の春川(はるかわ)サヤ。もう一人のメンバー、黒髪ロングの一ノ瀬(いちのせ)ナナは言葉少なに窓の外を眺めている。見た感じ大人しそうだが、何を考えているのか読めない表情だ。
いずれにせよ、みんな若いし、アイドルとして頑張っていこうという意気込みを感じる。俺も協力できるなら協力したい気持ちはある。だけど、たかが高校生の俺に何ができるかはわからない。
「三峰くん……でいいんだよね? ごめん、同い年くらいだと思うけど、なんて呼べばいいかな」
ヒナが急に話しかけてきた。確かに俺は高二だけど、彼女も同じ年か、それとも一つ上か下か、わからない。アイドルとして活動している年齢なんてばらつきがあるものだろう。
「ジンでいいよ。俺、ただの旅館の息子だし。特に敬語とかいらないって」
「そう? じゃあお言葉に甘えて、ジン……くん、よろしくね。わたしたち、今日からここで合宿みたいになるけど、迷惑かけちゃったらごめん」
そう言いながらヒナは、少し恥ずかしそうに目を伏せる。その仕草が、テレビとかで見るアイドルの可愛らしさそのもので、俺は思わず胸がどきりとする。
「大丈夫だよ。俺たちも、少しでもこの温泉街が盛り上がるなら助けたいし。わからないことあったら何でも聞いて」
「ありがとう。みんなで力を合わせて頑張るから」
ヒナはにこっと微笑んだ。なんという破壊力だ。俺はこんな子が身近にいるなんて想像もしなかった。さびれた温泉街とまばゆいアイドル――まるで水と油のような組み合わせだが、もしかしたら奇跡が起きるかもしれないと思ってしまう。
◇
アイドルたちを案内し終わり、俺はロビーに戻る。そこでは町長や商工会議所の人たちが資料を広げ、ばあちゃんと何やら話し込んでいた。
「要は、彼女たちが地元の紹介をライブでやってくれたり、動画配信でPRしてくれたりするんですね?」
ばあちゃんが確認する。町長は大きく頷き、「そうそう。で、可能な限り大きなイベントを打って話題を集めたい。この温泉街のPR大使みたいな役割を担ってもらうことになるから、彼女たちには精一杯協力してもらわないとね」と続ける。
旅館はたしかに拠点としては最適かもしれないが、連日メディアが押し寄せるようなことになったら、対応しきれるのだろうか。不安が先立つが、ばあちゃんは「大丈夫、大丈夫」と笑っている。俺も横で聞きつつ、心の中でいろいろシミュレーションを巡らせる。
「うちの旅館、そんなに大きくないし、古いからご不便をかけないか心配ですよ。布団の上げ下げやら、食事の準備やら、何でも手伝いますけど」
思わず口を挟むと、町長は「そこはまあ、ご当地アイドルの子たちもこれを機に古き良き温泉街の魅力を体験してもらうってことで。苦労も含めてね」と冗談ぽく言ってくる。正直、冗談で済む問題じゃないが、当人に悪意はなさそうだ。
「ジンやおばあちゃんがフォローしてくれたら大丈夫でしょ。前に民泊プランなんかもやっていたくらいだからね」
商工会の一人が口を挟む。昔、外国人観光客を呼び込もうという試みでホームステイみたいなことをやったことがあるが、そのときは一時的に成果は出た。でも続かなかった。それでも「あのときも三峰旅館さんの対応は素晴らしかった」と評判になった経緯があるので、周囲も期待しているようだ。
こうして、俺たちにとっては急な話だったが、一応は合意しているらしい。町長と役場の面々は、アイドルたちに観光スポットを案内する段取りを決め、いずれは“イベント”を開催するという。具体的にはまだ調整中だが、日程や予算の話も進んでいるらしい。
「よし、それじゃあ落ち着いたところで今日は解散としよう。みんな、お疲れさん」
町長がそう締めくくり、スタッフが荷物をまとめ始める。町長自身も「あんまり遅くならないうちに帰るよ。今日は下見みたいなものだしね」と言って、旅館を後にした。結局、ばあちゃんは何やら頭を下げながら見送っている。俺の方は正直、不安が募るばかりだ。
◇
夕食の時間が近づき、俺は若女将――というほどではないが、ばあちゃんのサポート役として、アイドルたちの部屋へ布団や浴衣を運んだり、洗面道具を用意したりと忙しく動いていた。何せ人手不足だから仕方ない。
「あの、ここのお風呂って温泉なんだよね?」
春川サヤがちょっと興味津々な様子で尋ねてくる。彼女はふわふわとしたボブヘアで、少し天然っぽい。だが、その笑顔には不思議な魅力がある。
「ええ、もちろん温泉だよ。源泉かけ流しではないけど、ちゃんと湯質はいいはず。よかったら入ってみて。夜遅くまで入浴できるから」
「やったー! 温泉って久しぶり。合宿気分だね、これは」
そう言って喜ぶサヤ。その横で、ポニーテールのミツキは「明日の朝イチに入りたいな。SNSにも上げる」と言ってすでにスマホを手に何やらプランを練っている。そこに、少し離れたところで聞いていたヒナが小声で加わってきた。
「三峰くん、じゃなくてジン。私たち、明日はまずどこに行けばいいのかな? 町の案内って、もう決まってるの?」
まだリーダーとしても戸惑いが大きいのか、ヒナはしっかり地元の人間である俺に確認を取りたい様子だ。俺も嬉しい反面、「一応、町長たちが用意するって言ってたけど、細かいことは聞いてない」としか答えられない。
「そうなんだ。じゃあ明日はフリーで見て回ることになるのかな。街の様子を自分たちでリサーチしておこうかな。どんな名物があるかとか」
「名物、か……。温泉饅頭とか地酒とか、いろいろあったはずだけどね。今や閉店しちゃってる店も多いから……」
俺がそう言うと、ヒナは気まずそうにうつむく。まだ実感がわかないのだろう。だけど、さびれた温泉街が抱えているのはそういう厳しい現実だ。新しいものを取り入れようにも金がない。観光客が来ないから収益もない。その悪循環で、すべてが空回りしている。
「そっか。でも、私はこういう場所に憧れてたんだ。小さい頃、両親に連れられて行った温泉旅館がすごくあったかくて、楽しくて。……だから、ちょっとでも力になれたらいいな」
ヒナはふっと微笑んだ。その顔は、アイドルとしての営業スマイルではなく、本当にやる気と優しさにあふれているように見える。知らず知らずのうちに、俺は胸が温かくなるのを感じた。
「……そう言ってもらえるなら、ありがたいよ。俺もできることは手伝うからさ」
「うん。よろしくね、ジン」
◇
夕食の時間になり、俺は台所でばあちゃんと一緒に料理を運んだり、簡単な盛り付けを手伝ったりしていた。うちの旅館は和食が中心で、地元の食材を使った素朴な料理が売りだ。とは言っても、最近は人手も減っているし、豪華なコースを出す余裕もない。もともとは温泉街にある旅館としてそれなりの格式があったはずなのだが、今はもう生き残りが精一杯だ。
「ジン、あの子たち、若いわりにちゃんとしてるねえ。さっき夕飯運んだらすごく喜んでくれたよ」
ばあちゃんは、まるで娘や孫に振る舞うかのように張り切っている。アイドルなんて派手で浮ついた存在だと思っていたが、実際に会うと案外しっかりしているものだと感じたようだ。
「まあ、今は到着したばかりで疲れてるんだろうし、ゆっくり休んでもらわないとな。でも、何でまたうちに泊まるんだろう。町長の計らいってことだけど……」
「そりゃあ、旅館といえば温泉だし、昔からの雰囲気を味わえるってんでしょ。それにジン、うちだって少しは稼ぎにならないと困るじゃない。宿泊費が出るのかどうか知らないけど、役場がなんとかしてくれれば、当面の光熱費ぐらいにはなるんじゃないの?」
「……そうだね」
ばあちゃんの言うとおり、このアイドル合宿(?)が少しでも旅館の経営を助けてくれるなら、それはありがたい。だけど、それがどこまで続くのか。すぐに終わってしまいはしないかという不安もある。
アイドルたちは部屋で食事を楽しんでいるらしく、ときおり廊下を通ると、女子のきゃっきゃとした声が聞こえてくる。こういう明るい声が響くなんて、いつ以来だろう。家族以外では本当に久しぶりだ。心が少し浮き立つ。
◇
夜。旅館の営業時間も一段落して、俺は自室に戻った。二階の角部屋で、窓を開けると山の稜線が見える。この街は夜になると看板の灯りすら少ないから、山の向こうからぽっかりと月が浮かぶ様が、神秘的に見えるときもある。昔はそれを風情だと思っていたし、今も少しはそう思う部分もある。
けれど、同級生が週末に遊びに行くようなショッピングモールや映画館なんてここにはないし、若い人が集まる繁華街も遠い。その閉塞感は高校生の俺にはやっぱりしんどいときがある。
布団に入り、明日の予定をぼんやり考える。アイドルたちは観光スポットを巡って情報収集するというが、案内を頼まれたらどうしよう。別に俺は公的なガイドじゃないし、学校もあるからずっと付き合うのは無理だ。でも、できる範囲で手伝いたいとも思う。
(あの子たちが本気でこの温泉街を盛り上げようとしてくれてるのなら……)
特にリーダーの水無瀬ヒナの瞳には、ただの形だけのやる気じゃなくて、本当に何かをしたいって気持ちが宿っていた。それを裏切るようなことはしたくない。かといって、俺にはそんな大した力がない。少なくとも温泉街に詳しいことと、旅館の息子という立場くらいしか取り柄がない。だが、今はそれでもいいのかもしれない。
悶々とした気持ちを抱えつつ、俺はいつの間にか浅い眠りに落ちていった。
◇
翌朝。いつものように早起きして風呂の準備をし、旅館の掃除を手伝っていると、浴衣姿のメンバー数人が「朝風呂に入ってもいいですか?」と尋ねてきた。俺は「あ、どうぞ」と案内する。
風呂場からはしゃぎ声が少し漏れ聞こえる。彼女たちにとっては、合宿の一環とはいえ、楽しい旅行気分もあるのだろう。一方、俺は彼女たちが朝風呂でリフレッシュしている間に、布団の片づけをしたり、朝食の準備をしている。ごく普通の旅館の朝だ。
その後、朝食を終えた彼女たちは、メイクや撮影の準備を始めていた。どうやら今日は午前中から街の外観を撮って、SNSに上げるらしい。
「ジンくん、もし学校が休みだったら案内してほしかったけど……今日は平日だよね?」
「うん、ごめん。俺も午後には帰ってこられるけど、朝はちょっと無理かな」
「そっか。大丈夫、ちゃんと地図は用意してもらったし、みんなと一緒なら迷わないよ」
ヒナはそう言って、カメラや小物が入ったリュックをしょっている。それほど大きくない体に、あれこれ詰め込むのは重そうだけど、彼女は「アイドルとして実績を作るんだ」みたいな気迫を漂わせていた。
「まあ、何かあったら連絡して。俺、携帯はいつでも見られるから」
「うん。ありがとう、ジン」
ヒナが微笑むと、それに続くように他のメンバーも手を振ってくれる。俺は制服姿で、なんとなく気恥ずかしい気分だ。まるで芸能事務所の人たちを見送るマネージャーのような心境で、旅館の戸口に立っていた。
◇
バスの時間が迫ってきたので、急いで旅館を出る。石畳の道には、朝の冷たい空気が漂っている。昨日までと変わらず、人影は少ない。
だけど、違うのは、少し先の道で、カメラを手に笑顔を振りまいている数人の姿が見えるということ。ヒナたちの姿だ。「わー、レトロでいいね」という声が微かに聞こえる。スマホを掲げる様子も見えた。彼女たちは確かに、この温泉街にある古い看板や路地を“味わい”として捉えてくれているのかもしれない。俺も心のどこかで、小さく期待を抱く。
旅館の若旦那の息子として生まれ育った場所――その魅力を取り戻すことはできるのだろうか。こんなに小さなアイドルグループの活動が、どんなインパクトをもたらすのか想像もつかない。けれど、動き出した歯車はもう止まらない。やるならやるで、巻き込まれるしかないんだろう。
そう、どこかで腹をくくったまま、俺はバス停へ向かって歩く。ヒナたちが、俺たちの、この温泉街の、そして自分自身の未来を、どう変えてくれるのか――まだわからない。でも、その一端を見届ける義務が俺にはあるような気がしていた。
バスは時間どおりにやってきて、俺は乗り込む。少しだけ気持ちが軽くなったのは、たぶん、一人じゃないと感じられたからだ。アイドルという外の風が吹き込み、新しい何かが始まる予感がしている。
それが、まさか“婚約騒動”へと発展していくとは、まだ誰も想像していなかった。
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