第2話

 初めて人を殺めた時は、事故だった。

 教会の屋根裏部屋で絵を描いていると深夜、下の通りに人影を見た。

 不穏な空気だったので、心配になって見に行ったのだ。それ以前にも街の至る所で、日中でも警邏隊の人間が騒ぎを起こすのを見ていたから、怒号と共に誰かを追いかけていく姿に心配になった。すると、女性が通路で倒れ、蹴られているのが見えた。

 予期した通り制服姿だったから、助けも呼べず、自分で制止するしかなかった。彼らは三人いて、当然、制止に激怒して襲い掛かって来た。相手は抜刀して来たのでなんとか気を失わせようと戦ったが、一人は成功したが一人は、壁に当たった打ちどころが悪くて、死んでしまったのである。

 一人は逃げ出したので、それからまだ動けるようだった女性を教会に連れて行って、手当をしてもらったのだが、後日別のところで絵を描いていると、教会の神父が撲殺されたという報せを聞いた。

 自分が助けを求めた教会の神父で、騒ぎを聞きつけた人間の話では、生き残った二人が自分を血眼になって探し回っていたという。最初から殺し目的ではなかったようだが、娼婦を運び込んだ奴がいるはずだと暴力を与えながら尋問した末、神父は亡くなってしまったのだという。

 ネーリは嫌な予感がし、娼館を回って、娼婦を探した。彼女の身にも危険が及ぶのではないかと思ったのだ。悪い予感は的中し、数日後、ネーリは彼女に再会した。水路に浮かんだ水死体が、彼女だったのだ。

 この二つの死が、現実に起きたことなら。一体どうすれば良かったのかと、ネーリは離島を回り、身を隠しながら考えた。

 最初の襲撃を、見てみぬふりをすればよかったのか、彼女はあれ以上暴行を受けていたらきっと死んでしまっていた。

 警邏隊が暴行をしているのだから、彼らのもとに助けを求めに行っても無駄だ。

 制服を着て彼らは行為に手を染めている。

 教会に助けを求めたことは、心底後悔した。神父は無関係で、善意でネーリに協力し、彼女を助けてくれた。

 ……彼の死は自分が招いたことなのだ。それだけは確かだった。

 独りで悩み、考えて……それでも一番最初の襲撃を、見てみぬふりは出来なかったと結論は出した。ただし、今のヴェネトでは、悪と戦うなら、他人を絶対巻き込んではダメなのだ。

 ネーリはあれから、彼の所属したヴェネツィア聖教会の慈善活動にはどんな形であれ協力することを心掛けている。絵を売りたかったのも、一番最初はそれが理由だった。彼を失った教会に、少しでも金を寄付したかったからだ。

『ジィナイース・テラ』の名で競売に掛けたら、すぐに城から警告が来た。そもそもネーリは、城にいる兄が自分の名を使っていることを、知らなかったのだ。

 王太子の名を使うなど、不敬であると言われて、その時はさすがに、怒りを覚えた。

 王太子の名前じゃない。僕の名前だと使者に伝えたが、聞き入れられなかった。

 顔を見たこともない兄の人生に関わろうなんて思ってないし、もう過ぎ去った過去はどうでも良かった。ネーリが最初にジィナイース・テラの名で絵を描いていたことに、他意など無かった。自分の名前を描いただけだったのだ。

 しかし数度そういうことがあったので、ネーリは自分の名前を諦めた。王妃と争ってまで、守る名前ではないと思ったのだ。重要なのは絵を売り、金を得て、自分が巻き込んでしまった神父の為に、何か償いをすることだったから。

 名前を奪うなら奪えばいいと思って『ネーリ・バルネチア』の名で売ったが結果は変わらなかった。

城の者は――王妃は、ネーリの絵が世に出ることを強く警戒しているようなのだ。


 償いが出来なかったので、せめてもの想いで、ネーリは、あの警邏隊の二人の行方を探した。さすがに神父への暴行死は問題視され処分されて除名されたらしいが、その後の行方も全く分からなくなったのだ。家を見つけ、何か手がかりはないか探していると、近所の人間から警邏隊の男の家に、どこからか多額の金が送られて来たという話を聞いた。

 家族が「息子が多額の金を送ってくれた」と自慢していたという。敬虔なヴェネツィア聖教会信者の情報提供者は、神父を手にかけた人間がなぜ罰も受けず家族を幸せにすることが出来るのか、と強い不信を持ってネーリに話してくれたのである。

 ネーリは画家として貴族の家に入り込んで、二人の居場所を突き止めた。彼らを貴族が家に匿っていたのである。

 後に、その時匿ってやったことで、自分の汚れ仕事をやらせるための私兵にしていたということが分かったが、ネーリは二人の所在を確認すると、ある夜、仮面で顔を隠し、闇の夜道でそれぞれを殺した。

 本当は、それで、ヴェネトを去るつもりだった。

 そこでやるべきことを終わらせて、やめるべきだったことも全て受け入れて、大陸の方に行くつもりだった。そこで何とか画家として金を作り、遠くから、自分の人生に巻き込んで死なせてしまったあの神父の為に、贖罪は続けて行こうとしていた。

 留まったのは、多分心の弱さだ。

 結局住む所も持たず、夜のヴェネツィアを徘徊してると、再び同じような場面に、呆気なく遭遇した。

 もう二度と誰も殺めない。そんな誓いは、無意味だった。それは、誰が苦しんでいようと無視する、と同じ言葉だったから。


『ジィナイース。

 お前の国だ。

 お前が彼らを守ってやるんだぞ』


 見て見ぬふりはしないと心に決めた。

 全ての敵や、悪を討つことは出来ないけど、自分の目で見たものは絶対に無視をしない。

 そのかわり全て、たった一人でやること。

 姿顔は、決して見られないこと。見られた場合、敵は全て殺めなければならない。


 ――でも時々、自分が何のために戦っているのか、分からなくなることがある。


 血のついた手を海で洗い流している時、悪人を成敗してやったなどと誇る気持ちは少しもない。自分の血を洗い流さなければならない、ヴェネトの海に憐れみと感謝を覚えた。


【ジィナイース】……。


 もう長い間聞かなくなったあの優しい声は、きっとこんな自分になることを望んでいなかったのだろうなと思った。

 きっともう二度と、あの声は自分を呼ばないだろう。

【彼女】を自分は、深く失望させた。


(でも貴方の為に何かをしたかったのは、嘘じゃない)


 見返りを求めたわけじゃないのだ。

 勲章も、王宮の暮らしも、いらなかった。

 彼らと家族になりたいと思ったこともない。


 ――幸せなヴェネトが見たい


 祖父のユリウスが愛した、平和で美しい、穏やかな王都。

 そうであってくれれば、

 そう戻ってくれれば。

 その時は。



(……喜んで僕はこの国から消えるよ)



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