海に沈むジグラート19
七海ポルカ
第1話
馬から降りて、重たい荷物をドサッと下ろす。
すぐにおかえりなさい、と声が掛かった。
朝食の準備をしている騎士たちがネーリに気付き、声を掛けてくれるようになったのだ。
駐屯地ではどの時間帯でも誰かしらが外で見張りとして立っているし、深夜以外はそれぞれが役目を持って作業をしているので、誰かはとにかくいてくれるのだ。駐屯地に出入りして絵を描いているネーリのことは、もはや神聖ローマ帝国軍の駐屯地の者全てが知っていた。だから最近はこうして挨拶をしてくれたり、聖堂で手が空いている人が話し相手になってくれたりする。
ネーリは祖父が死んでからは家族を持たなかったから、『おかえりなさい』と誰かが言ってくれる環境に慣れていなかった。初めて言われた時は驚いたけど、二回目には嬉しかったから「ただいま戻りました」と答えた。ネーリは温かく迎えてくれる竜騎兵団の騎士たちに感謝していた。そういう風に彼を迎えてやるよう、話してくれたフェルディナントにも。
「すごい荷物ですね」
「新しい画材を持って来たんです。飛行演習が始まったから、空を飛んでる竜の絵を描きたくて」
パンをこねていた騎士たちが「楽しみだなあ」と笑っている。
「そこに置いておいてください。あとで部屋まで運びますよ」
「ありがとうございます」
「パンが焼けたら朝食です」
竜騎兵は本国ではエリート中のエリートだから、本来ならこういう雑事はしないらしい。
ただ、彼らは騎士になる修行をして、試験を受けて王宮に許可をされると騎士になれるので、それまでは個々の期間の違いはあれどもみんな騎士について従僕としての経験を積んでいるという。だから全員が武具の手入れも出来るし、料理の準備などは出来るのだ。
全ての料理を仕切るのは、一番上手な騎士らしいが、パンなどは全員が焼けるらしい。
竜に跨り、空を駆る彼らは輝いていると思う。
さすがは神聖ローマ帝国の騎士の頂点にある【竜騎兵」だ。
でもそのかれらが鎧も重たいブーツも脱いで、腕まくりをして食事の準備をしたり、掃除をしたりしてる姿もネーリは好きだった。なんだか可愛いのだ。
ここにいる三十人の竜騎兵はフェルディナントが選んだ直属だから、そういう生活に不満を言うような者はひとりもいない。みんな生真面目にそういうことをやるひとばかりだ。
騎士館の外に空の取っ手のついた桶が並べてある。これはあとで裏の川で水を汲んで来るために並べられている。それくらいは手伝える、と思ってネーリは桶を二つ持って、川に水を汲みに行った。二つの桶に水を汲んで戻ろうとすると、小さな土手の上にフェリックスがお行儀よく座ってこちらを見ていた。
「おはよう。ただいま!」
上がって行き、一度桶を下ろしてフェリックスの大きな顔を抱えて挨拶をした。
基本的には竜は人間の呼びかけに鳴いて応えるということはないらしい。喉を鳴らしていたり嘶いているのは生理現象で、攻撃態勢などに入る前に、咆哮を上げたりするのは威嚇行動としてするのだが、あまり声で人とコミュニケーションは取らないようだ。
だから駐屯地も三十頭も竜がいれば賑やかなのかと思いきや、驚くほど静かだ。
だが、フェリックスは時折、あまり他の竜が聞かせない声で「クゥ」ということがあり、フェルディナントもあれは呼びかけに応えてると認めていた。フェリックスが『犬のような竜』と呼ばれる所以である。非常にあれは珍しいのだという。
「今回は離島を回って来たんだよ。市街の方は飛んじゃダメって言われてるなら、君は離島の方も見に行ったことはないのかなぁ。すごく綺麗なんだよー」
「クゥ」
また鳴いた。可愛いなぁ。
「いつか君にも見せてあげたいな」
「クゥ」
明らかに返事をしている。
ネーリはフェルディナントがよく触れてるのを目にする、額のあたりを押さえてやった。
これが竜でいう、「頭を撫でてやる」ということに当てはまるらしい。
ただ、騎竜は愛玩動物ではないので、誤った序列を竜に対して示さないためにも、竜騎兵が自分の竜に可愛いね、などと思って頭を撫でたりすることはまずないそうだ。だから大概の騎竜は人間が頭を撫でに行ったりすると、腹を立てて怒るくらいは誇り高いらしい。
手綱を付けられていても、あくまでも同等に近い認識で協力し合っている、というのが正しい表現を生み出すようだ。
刷り込みと思われる習性から、フェリックスがネーリに異常に懐くので、もうネーリがフェリックスを撫でたり可愛いね、と抱きしめたりすることはフェルディナントは危険はないと判断し注意しなくなったが、他の竜にはくれぐれも同じことはしないよう、それはネーリも注意を受けている。
他の竜の場合後ろから近づいて、首からなるべく遠い胴体部分に触れる、くらいしか出来ない。それを考えるといかにフェリックスがネーリに懐いてるかが、確かによく分かるのだ。
逆にネーリにフェリックスがそういうことを許してるからと言って他の人間が同じようなことをしようとしたら、フェリックスは激怒するはずだ、とフェルディナントが言っていた。
「あの時の竜の子がほんとに君だったのかなあ。今あの時に戻ったら、似てるとこあるかなあってよく見ておいたけど、もううろ覚えで分かんないんだよね。残念だなあ」
ネーリがフェリックスの顔に体重を預けると、彼は首を下げたまま大人しくしてくれた。
「ま、いっか!」
全ては彼が、覚えてくれてる。
「今みんなでパンを作ってるんだよ」
桶を持ち直して、騎士館の方へ戻っていく。
騎士館の前に並んである、水を汲んである方の桶を置く場所に二つ加えて、空いた窓から中の作業を見る。
パンを窯に入れる人、サラダ用の野菜を切るひと、肉を切るひと、湯を沸かす人。
ネーリは駐屯地の朝の忙しそうな作業風景が好きだ。
朝食後は、片付けのあと数時間、飛行演習などの準備に取りかかったり、少し空気が和らぐ。
昼は、前は朝作ったものを使ってそのまま昼食を用意していたが、今は昼食を作ってくれる街の宿が見つかり、そこから毎日料理を運んできて食べるようになった。街にある守備隊本部の側の宿である。ただし昼はそれぞれの仕事をこなしている兵も多いので、朝と夜のようにみんな集まって食べることはない。食堂に食事を用意してあるので、手が空いてる者から好きに食べていいというようになっている。
夜は外食も認められているので、部隊ごとに夕食が必要な人数を提出しておけば、料理担当の者たちがそれに応じた食事を作ってくれるというわけだ。
大人数で食事の支度をしたり食べたりする光景は、ネーリにとって珍しい上に懐かしいので、見てると楽しいのだ。
祖父の船で暮らしていた時は、確かにネーリもこんな風に多くの人と食事をして過ごしていた。船で一番幼く、そして船の主の孫であるネーリには、誰もが優しく親切にしてくれた。みんなと一緒に何もかもやりたい、と思うネーリはいつも彼らといたがったが、誰の膝の上に乗っても、背に乗っても、怒らないでいてくれた。
優しい大きな手が、いつも撫でてくれる。
(懐かしいなあ)
この光景は、あの頃を妙に思い出させるのだ。
(みんな、今頃なにしてるんだろう? あれから十年も経ってるから……)
色んな国から集まっていた。ユリウスがヴェネトに戻ると、彼らはそれぞれの母国へ戻って行ったという。きっとそれぞれの国に戻り、家庭を持ったりしただろう。
(みんな幸せに暮らしてるといいなあ……)
窓枠に顎を預け、そんなことを考えながら幸せな風景を眺めていると、いつの間にかやって来たフェリックスが真似をして隣に顎を預けて並んで覗いていたので、気付いた騎士が感心したように言った。
「本当にネーリ様に懐いてるんだなあ」
他の騎士たちも笑っている。
「ネーリ様はフェリックスが怖くないんですか?」
目を瞬かせて隣のフェリックスを見ると、自分のことが言われてると分かったみたいにフェリックスもネーリの方を向いた。数秒見つめ合って、吹き出す。
「怖くないです。だって、僕一度もまだこの子が怖くなるようなことされてない」
「いや、それでも神聖ローマ帝国でも見慣れてない人は見慣れてませんからね、竜は……。
本国ではとても大切される生き物ですが、やはり一般人には恐れられてはいますよ」
「強そうな顔してるもんね。でもフェリックスは好きです。だってなんかよく側に寄って来るんだもん」
ネーリはフェリックスの方に頭を預けている。それも日頃のフェリックスを知ってる騎士たちからは信じられない光景に見えたのだろう、どよめいてから、彼らは笑った。
「フレディは今日は夜警ですか?」
数日ネーリは駐屯地にいなかったので、そう聞いてみた。すると騎士が答えてくれる。
「いえ。団長は戻っておられます。深夜に戻られ今は就寝されています」
しゅうしん……。
ネーリはフェリックスともう一度顔を見合わせた。
「フレディが寝てるの珍しい!」
もちろんフェルディナントも毎日寝ているが、彼は非常に多忙で駐屯地と街の守備隊本部を行ったり来たりしている。その中で、就寝というより、仮眠に近いような生活をしていることも多く、そのことから今の発言が出たのだろう。
騎士たちは笑った。ヴェネトに来てから、落ち着いて眠ることも出来てない上官の状況を、彼らもよく把握していたからだ。
一方ネーリも生活のリズムが安定していない。
思い出したように昼夜問わず絵が描きたくなると街に出て絵を描きに歩き回る。
寝るのがもどかしいほど描き続けたい時もあるし、そうなった時家族のいない彼は、そういった欲望が野放しになってしまう。咎める者がいないので、結局絵に夢中になっている時は数時間の仮眠で済ませてしまうことが多い。
そういうフェルディナントとネーリは、当然互いに寝てる状態に遭遇することも非常に珍しいのだ。フェルディナントが寝ているという言葉は十五歳のネーリの心に魅力的に聞こえたようだ。明らかに目を輝かせた少年に、騎士たちは最初は笑っていたが、ハッ、と誰かが気付いた。
「起こしに行っちゃダメですよ」
優しく少年に釘を刺しておく。
「フレディが起きて来ない時は誰かが起こしに行くんですか?」
「団長が起きて来ないことはありません」
側の騎士が笑いながら応える。
「そうなの? すごいなあフレディ、寝坊したこと無いんだ。……でも、今はそういうのは、無いかもしれないけど、本国だとゆっくり一日休みが取れるみたいなこともありますよね? そういう時は何時に起きなきゃとか考えないで、お昼くらいまでゆっくり寝ることもあるでしょう……?」
「それはありますが」
「そういう時はフレディ誰かが起こしに行くんですか? トロイさん?」
「団長が休日に起きて来ないなら、起こしに行く者はいません。命じられてない限り、上官に対してはそういうものですよ」
「?」
本当は、独身男の場合、女性と過ごしている場合もあるから、休日に叩き起こしに行くことなどは無粋だからしないのだ、と説明したかったが、無垢なネーリの瞳に見返されて、押し黙った一人を、もう一人が肘でどん! と小突いた。
「うっ! と、とにかく軍ではそういうものなのです。ネーリ様。上官が起こせと言えば起こしますし、起こすなと言えば起こしません」
「今日フレディ起こしてくれって言ってませんでしたか?」
「言ってません言ってません! だめですよ、起こしに行っちゃ!」
とんでもない、というように騎士が慌てて首を振っている。
「起こしてほしいって言われてたら、起こしに行ってみたかったね」
隣のフェリックスに話しかけると、「クゥ」と返事をしてくれた。
「着替えて来るね。見て。いっぱい絵具ついちゃったんだ」
色んな色がついてる服の袖をフェリックスに見せた。目を瞬かせている。
可愛いなあ。
「また一緒に朝ご飯たべよう。ちょっと待っててね」
フェリックスの額を押さえてから、ネーリは騎士館の中に入って行った。
二階の自分の部屋に入って、着替え、すぐに外に出ると、廊下の向こうにフェルディナントの私室が目に入った。大半は少年らしい興味だったが……不思議な感覚がして、ネーリは歩いて行く。悪意はなかったけど、どうしてもフェルディナントの寝顔が見てみたくて、そっと慎重に扉を開いた。
――なにか、そうしなければならないような気がしてのことだった。
後に、ネーリが「光の道」と呼ぶ、強い予感に背を押されるようにして歩み出す、その感覚がこの時も実はあった。正しいことをしているという直感。
ただ、ある時『それは傲慢な思い込みだからやめろ』と人に窘められて、その直感を感じるたびに、意識して否定しようとするようになったけど。
この時は【シビュラの塔】に行った時と同じように、何の迷いもなくその扉を開いてしまっていた。
外はまだ薄暗く、部屋も暗いままだった。
そっと歩いて行くと、フェルディナントは眠っていた。
いかにも彼らしい、ほとんどベッドに入った時と変わらないような感じで、深く寝入っている。ネーリは暑いと毛布を蹴って足を出したり、眠れないとよく眠れるポジションを探して寝返りをどんどん打つ自由な寝方をするので、律儀で礼儀正しいフェルディナントらしい大人しい寝姿に、少し笑みが浮かんだ。
彼は眠りが浅いと下の騎士たちは言っていたが、今は深く寝ているらしかった。
夢を見ているのかなあ……。
ネーリはそっと側にしゃがみ込んだ。
膝をついて、彼を起こさないように、ベッドの端に腕を組んでその上に顔を預けた。
この若き神聖ローマ帝国軍の青年将校は端正な顔立ちをしてる。今はその稀な天青石の瞳は眠っているけれど、眠っていても彼の非凡さは伝わってくる。
……彼は【エルスタル】の王族だ。もう国は無くても、その血が身体に流れてる。
失われたりはしない。
フェルディナントの容姿や、才能の非凡さを知るたびに、彼の両親たちは、どんなに彼を愛しただろうと思うのだ。
(フレディも家族の夢を見るのかな……)
あまり感情は見れないけれど、ネーリの目には、眠るフェルディナントは穏やかな眠りに見えた。毛布の端に、寝台に軽く置かれたその手が見えたから、ネーリは静かに、指先から手を重ねてみる。
彼が起きたら謝ればいいやと思ったが、フェルディナントは神の手に守られてるかのように目を覚まさなかった。
人にも物にも、時々ある。
神に守られているようだ、と思うような人や、物や、景色……。
身を寄せているミラーコリ教会や、
あの干潟から見る、ヴェネツィアの景色。
ネーリはそういうものに触れることが好きだった。
そういう人や、物に触れると、心が安らぐ。
共に守りの中にあることを感じられるからかもしれない。
彼の祖父がそういう人だったから、安心するのだ。
ラファエルやフェルディナントからは時折、そういう気配がする。強い力に守られているような気が。
(おじいちゃんが側にいてくれた時、僕は幸せだった)
今も幸せだと思うことはたくさんある。だから、祖父の庇護を失って自分が不幸になったのか、今、自分が悪しき運命の中にいるのか、いい運命の中にいるのか、判断がつかない。
悪しき運命の中にいても、フェルディナントはあの教会にやって来てくれたし、ラファエルとは再会出来た。これは自分が神に守られているからではなく、彼らの持つ、強い守りの力なのかもしれない。
だとしたら彼らといれば、自分も幸せになれるのだろうか。
必ず潰してやると言った、女の憎悪の表情を思い出す。
(あの人はどうして、あんなに憎んでいるんだろう?)
王妃になるべくしてなった女性。子が出来なくても、妹の産んだ子供を手にした。健やかに育ち、王太子となり、戴冠はすぐそこまで来ている。
(それなのに、何に対してあんなに怒ってるんだろう)
泣きたいのは、子供を手放した母親の方じゃないのかな、と思う。
別に自分を尊重してほしいとは言わないけど、ネーリの身体には、彼女にとって恩のある女性の血が流れているとは少しも思わないのだろうか。それとも『ローマの城で生きるなら許す』というよく分からないあの言葉が、王妃セルピナなりの妹への、恩の表れなのだろうか?
最後の温情が、画家を死ぬまで生涯幽閉することなんて。
(……あの人はそれくらい、冷たい世界にいるのかな)
それを幸せと思えと、言える世界。
警邏隊が街の人間を虐待する姿を思い出して、ネーリは目を瞑った。
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