第六話「猫のようかい」

 以前に怖い体験や不思議な体験のエピソードを募集した時に連絡をくれた、Aさんという男性から聞いた話です。


「確か、半年くらい前のことだったかと思います。仕事帰りに駅から自宅までの道を歩いている時に、猫の鳴き声が聞こえてきたんですよ。その鳴き声が……どう言ったら良いんでしょう、なんかこう、すごく哀れを誘う感じだったんです」


 Aさんの話は、そんな風にして始まりました。


「ほら、昔のアニメなんかだと、『可愛がってください』って書かれた段ボール箱に入れられた仔猫が捨てられてて、それを主人公が拾うシーンとかありますよね? ああいうシーンに出てくる仔猫みたいな『にー、にー』って感じの鳴き声です。それで思わず、鳴き声のする方に目を向けてしまったんですよ」


 そこにいたのは、全身くまなく泥まみれの猫でした。少なくとも、その時のAさんにはそう見えたのだそうです。


「雨上がりに地面がぬかるんでる所で遊んだとか、車が跳ね上げた泥水がかかったとかそういうレベルじゃなくて、もう本当に表面全部が泥って感じでした。泥沼に一度完全に沈んでしまって、そこからなんとか這い上がってきた直後、みたいな」


 その猫があまりにも哀れっぽく鳴くので、Aさんは自宅に連れ帰ることにしたのだそうです。


 これがAさんの言うような昔のアニメであれば、猫を不憫に思って自宅に連れ帰った主人公の少年または少女は親から怒られ、「元いた場所に戻してきなさい」と言われるところですね。

 しかしAさんは既に三十代のいい大人で、尚且つ両親は既に他界しており、一軒家に一人で暮らしていました。だから拾った猫を連れ帰ったところで、叱責したり文句を言ったりするような人は誰もいはしません。

 それで、誰にも気兼ねする必要無く猫を連れ帰ることができたというわけです。


 帰宅するとすぐに、Aさんは猫を風呂場へと連れて行きました。こんな全身泥まみれのままでは可哀想だし、家主としても家を泥で汚されては困ると思ったからです。


 Aさんがシャワーでぬるま湯をかけると、猫は悲鳴としか言いようが鳴き声をあげ、激しく抵抗してシャワーから逃れようとしました。

 ああ、水を嫌がる猫っているよな、でもさすがにここまで泥だらけだとそのままってわけにもいかないしな――などと呑気に考えていたAさんでしたが、次第に違和感を覚え始めました。


 猫が、どんどん小さくなっていったんですよ。


 最初は、表面に相当分厚く泥が付着していたせいで、それが流れ落ちた分、縮んで見えるだけかと思ったのだそうです。

 けれど、やがて、それにしてはいくらなんでも縮みすぎだということに気がつきました。


 猫は悲鳴をあげながら、どんどんどんどん、小さくなっていく。まるで、猫をかたどった泥人形に水をかけているかのように。


 さすがにこれはおかしいと思ったAさんは、慌ててシャワーを止めました。しかしその時には既に手遅れで、猫の最後の一塊はか細い断末魔と共にどろどろと崩れていき、そのまま泥水となって風呂場の排水口へと吸い込まれていったそうです。


 あとには、猫を硫酸か何かで溶かしてしまったかのような後味の悪さだけが残った――と、Aさんは言っていました。


「まあ、本物の猫が単なるシャワーのお湯で溶けて流れてしまうはずもありませんから、何か妖怪のたぐいだったってことなんでしょうねぇ。妖怪にしては随分と儚いというか、弱々しくはありますが」


 話を聞き終えた私がそう感想を述べると、Aさんは「妖怪、ですか。そうだったら、まだ良いんですが……」とどこか煮えきらない様子で言います。


「何か他に思い当たるものでもあるんですか?」


 私が首を傾げながらそう聞いてみると、Aさんは「思い当たるというほど、はっきりしたものではないんですが」と断った上で、こう続けました。


「あれには、本物の猫の魂が宿っていたように感じたんですよ。だから私、思うんです。もしかしたらあれは、そういうことができる誰かが、本物の猫から魂を引っ剥がして泥人形に移したものなんじゃないかって」


 そこまで語った後で、Aさんは「まあ、全部ただの私の勘ですけどね」と自信なさげに付け加えました。


「いや、大変興味深いご意見ですよ。しかしもしそうなら、その誰か、あるいは何かは、いったいなぜそんなことをしたのだろうという点が気になりますね。それについても、もし何か推測できることがあるのであればお伺いしたいのですが」


 私がそう言うと、Aさんはぶんぶんと首を左右に振りました。


「いえ、今言った通り本当にさっきのはただの勘というか、むしろ妄想ですし、もしその妄想が当たっていたのだとしても、そんな酷いことする人がいったい何を考えてるのかなんて私には見当もつきませんよ。何か目的があるのか、それとも単なる遊びなのか……。もし何か目的があってのことなのだとしたら、何を企んでいて次は何をするつもりなんだろうって考えると怖いですし、逆に何の目的も無いただの遊びでそんなことをしているんだとしたら、それはそれでぞっとしますけどね」


 そう言って、Aさんはぶるりと身を震わせました。



 それから三ヶ月ほど後の話です。

 私は別の怪談の取材で、以前にAさんと会った町を再び訪れました。


 その日は、朝から本当に散々でしてね。取材対象になるはずだった相手は、事前に約束を取り付けた時にはむしろ自分の体験を聞いて欲しくてたまらないという様子だったのに、いざ訪問するとまるで別人のように打って変わった態度で私を門前払いしたんですよ。


 それで、気落ちして帰ろうとしたら、今度はゲリラ豪雨に見舞われたんです。

 傘を持っていなかった私は慌てて近くの喫茶店に逃げ込んだんですけど、どうもそこは店主と顔馴染みの地元客しか来ないような店らしくて、一見いちげんの客である私は店内にいた全員から異物を見るような目で見られて、非常に居心地の悪い思いをするはめになりました。

 おまけに、その店で出されたコーヒーはまるで泥水でも飲まされているかのような酷い味でしたね。


 そんな踏んだり蹴ったりな目にあった私は、雨がやむのを待ってからとぼとぼと駅へ向かったのですが、その途中で妙なものを見つけたんです。

 道路上にね、泥の筋がのびてたんですよ。誰かが泥まみれのものを引きずりながら歩いていったみたいに、それはずっと続いていました。


 気になったのでその泥の筋をたどっていくと、それはどうやら近くのマンションに向かっているようで、しかしマンションのエントランスにたどり着くことなくその数メートル手前で途切れていました。


 もっとも、ただ単に途切れていたというわけではありません。そこには、道路上に大きく広がった水溜りならぬ泥溜りがあったんです。

 泥溜りは完全に平面に広がっているというわけではなくて、元はもっと立体的な形状をしていた泥の塊が雨のせいで濡れて崩れ落ち周囲に広がったみたいに、中心部の方が高くなっていました。


 それを目にした時、私は以前にAさんから聞いた泥の猫の話を思い出した。


 でも、その泥溜りは、どう見ても猫にしては体積が大きすぎたんです。

 

 これは……そう、ちょうど人間一人分くらいなのではないか。

 そう気づいて、私はぞっとしました。


 猫は、練習だったのかもしれません。

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