第五話「「今度は落とさないでね」」
あれは、私が小学六年生の時のことでした。秋の遠足で、近所の山に登ったんです。
登山っていうほど大げさなものじゃありませんよ。なんといっても小学生ですからね。
その地方では紅葉の名所として知られている山で車道も整備されていたので、道程の大半はバスでした。
名所として知られているのはあくまでもその地方の人間にとってであって、全国的に名が知られるほどの場所ではありません。それでも、下に広がる林が紅く色づいている様を山の上から見下ろすと、小学生ながら絶景とはこういうもののことを言うのだろうなと思わされたものでした。
山の頂上は広場のようになっていて、その一部は崖に面していました。そこには、崖から転落する人が出ないよう柵が設置されていたのですが、その柵はやけに高いものでした。
柵って、腰から胸くらいまでの高さのことが多いですよね? だけどその柵は、大人の頭よりも高い位置まで伸びていたんです。
その柵のすぐ傍に、友人の佳菜子が立っていることに私は気がつきました。こちらに背を向けて、崖の下を見下ろしています。
私がそちらへと向かいながら声をかけると、佳菜子はこちらに背を向けたままでこう聞いてきました。
「ここ、なんでこんなに高い柵があるか知ってる?」
「人が落ちたら危ないからじゃないの?」
それ以外に何があるのか、と思いながら私はそう答えました。すると佳菜子は、こう返してきたのです。
「そうだね。でも、こんなに高い柵になったのにはちゃんと理由があるんだよ」
「理由?」
そう尋ねながら、私は違和感を覚えていました。この会話の間中、佳菜子はずっと背を向けたままで、近づいて来る私の方をいっこうに見ようとしないのです。
「前にね、ここから落ちて死んだ人がいたの」
そこで佳菜子が、唐突に振り向きました。
そして、こう言ったのです。
「今度は、落とさないでね」
その顔には、何の表情も浮かんでいませんでした。
私は一瞬呆気にとられ、そして次の瞬間、吹き出しました。つられるように、佳菜子も笑い出します。
「どう? 『まさか私が突き落としたあの子の生まれ変わり!?』ってドキッとした?」
「いや、私にそんな心当たり無いから!」
その年の夏休み、他の友人二人と共に佳菜子の家に泊まった時、夜中に部屋の電気を消して順番に怪談を話すというのをやりました。『今度は落とさないでね』というのは、その時に佳菜子が語った怪談に出てくる台詞だったのです。
有名な怪談なので、知っている方も多いかもしれませんね。
かつて邪魔な子供を崖から突き落として殺したことのある親が、後に生まれてきた子供を崖の近くに連れて行った時、その子供がくるりと振り返って『今度は落とさないでね』と言ってくるという話です。
佳菜子はその怪談の真似をして、私にドッキリを仕掛けようとしたというわけです。
その次の日曜日のことです。
私は、再び同じ山に来ていました。今度は学校の行事ではなく、家族といっしょでした。私から紅葉の話を聞いた弟の颯太が自分も見たいと言い出し、父母も乗り気になったため、家族揃って来ることにしたのです。
しかし言い出しっぺの颯太は途中のバスで寝てしまい、結局、バスを降りてからは父が背負って登ることになりました。颯太は当時まだ五歳で体重も軽かったとはいえ、さすがに背負って登るのは疲れたのでしょう。父は頂上の広場に着いて早々、ベンチに座り込んでしまいました。
ベンチは広場の中央付近にあり、あまり景色はよくありません。そのため私は、父をそこに残して、あの高い柵がある崖の方へと向かいました。そこからの景色が一番良いことに、遠足の時に気づいていたからです。
崖の上から紅葉を見下ろしていると、母がこちらに向かって歩いてくるのが視界の端に映りました。
そこで私は、小さな悪戯心を起こしました。母の足音がすぐ後ろまで迫った時に、唐突に振り向いて言ったのです。
「今度は、落とさないでね」
その時の母の顔は、一生忘れられそうにありません。その顔からは血の気が引き、全ての表情が抜け落ちていました。それは、あの時の佳菜子のような、意図的に作られた無表情とはまったくの別物でした。
その能面のような顔で、母はかすれ声で呟きました。
「ゆうた……?」
私は、本能的にこの流れを断ち切らないとまずいと思い、わざと明るい声を出しました?
「え、何か言った?」
母は私の声を耳にしてハッとしたような表情になり、一瞬の後、何事も無かったかのように微笑んで言いました。
「気をつけてねって言ったの」
「えー平気だよー、こんな高い柵があるんだし」
私は笑いながらそう答えましたが、うまく笑顔を作れていたかは分かりません。
……あれから、数年が経ちました。
しかし私は、“ゆうた”というのがいったい誰なのか、母との間に何があったのか、未だに聞くことができずにいます。
気にならないと言ったら、嘘になります。それどころか、この数年の間、ずっとこの疑問が頭の片隅を占拠していると言っても良いくらいです。
それでも、あの時の母の顔……あの能面のような顔を思い出すと、どうしても尋ねることができないのです。
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