第四話「犬山洋子になればいい」
俺には田上っていう幼馴染……というか悪友がいまして、小学校で同じクラスになった時から大学進学であいつが地元を離れるまでの間、ずっといっしょに馬鹿やってたんですよ。
中でも極めつけに馬鹿なことをしたなって思うのが、高校生の時にやった心霊スポット探検です。
うちの町には当時、幽霊が出るって噂の一軒家がありましてね。最後に人が住んでいたのはもう十年も前っていう廃屋なんですが……あ、十年前っていうのは俺達が高校生だった時から数えての話ですから、今からだと三十年くらい前になりますかね。
まあとにかく、その家に住んでいた一家の一人娘が自殺するって事件が昔あったらしくて、その子の霊が出るっていうんですよ。
ありがちって言えば、ありがちな噂ですよね。
で、放課後に田上と駄弁ってた時に何の拍子かその噂の話題になって、いかにも馬鹿なガキの考えそうなことなんですが、じゃあ噂が本当かどうか忍び込んで確かめてやろうぜって、どちらからともなく言い出したんですよ。
俺達は早速その日のうちに、件の廃屋に忍び込むことにしました。当時はノリと勢いで生きてましたからね。思い立ったら即行動だったんですよ。
「いかにもって感じだな」
廃屋の前まで来た時、田上の奴がそんなことを言ったのを覚えています。
元はなんてことない普通の民家だったんでしょうけど、十年も放置されてたわけですからね。庭は雑草が生い茂っていて、壁も薄汚れていました。窓もいくつか割れたりヒビが入ったりしていて、田上の言葉通り、いかにも廃屋って感じでしたね。
「一番乗りは譲ってやるよ」
「おいおい、まさかビビってんのか?」
「は? こんくらいでビビるわけねーし」
「じゃあお前から先に入れよ」
「おいおい、お前の方こそビビってんじゃねーか」
そんな感じでひとしきりふざけあった後で、田上の方が先に玄関のドアに手をかけました。
ドアは、すんなりと開きました。
しかし、ドアを開けた直後、田上は「ん?」と訝しげな声をあげてその場で立ち止まりました。
「お、どうした? さっそく幽霊のお出ましか?」
俺は田上の肩越しに屋内を覗き込みましたが、そこには幽霊などおらず、いかにも普通の民家といった感じの廊下が延びているだけでした。
しかし俺はすぐに、田上が何に違和感を覚えたのかに気づきました。
普通の民家過ぎるのです。
外側は荒れ果てていて、いかにも廃屋といった風情なのに、内側の方は全然それっぽくなかったんですよ。
「なんか、思ってたよりきれいだな。十年誰も住んでないっていうから、もっと埃がすげー積もってるとか蜘蛛の巣だらけとか、そういうの想像してたんだけど」
「まあでも、誰も住んでないってことは外から埃を持ち込むやつもいないし、ゴミも出ないわけだろ? だったらこんなもんなんじゃね?」
「そうなのか?」
「いや、俺も知らねーよ。そんな長いこと人が住んでない家に入るのなんて、これが初めてだし」
そんな会話をしながら、俺達は玄関へと入りました。
土間から廊下に上がるところで、俺は一瞬、躊躇しました。土足のまま上がって良いものかと思ったのです。外側同様に内側も廃屋然としていれば俺も迷いなく土足のまま上がったのでしょうが、予想外にきれいだったせいで躊躇いが生じてしまったんですよ。
かといって、何年も掃除されていない廃屋であることは間違いないわけですから、靴を脱いで上がるのもそれはそれで抵抗がありました。
そういったわけで俺は玄関でまごまごしていたのですが、そんな俺を尻目に、田上の奴はさっさと廊下へと上がっていってしまいました。もちろん、土足のままです。そして、短い廊下の突き当たりにあるドアに手をかけたところで、未だ玄関に立っている俺の方を振り返って呆れたような顔をしました。
「なにぐずぐずしてんだ。さっさと来いよ」
「分かったよ」
田上がずかずかと土足で上がり込んでいるのに俺だけ気を遣ってもしょうがないだろう、と俺は自分を納得させ、土足のまま廊下へと上がりました。
田上の後を追って突き当たりの部屋へと入ろうとしたところで、俺は田上の背中にぶつかりました。ドアから部屋に入ってすぐのところで、あいつが立ち尽くしていたからです。
「いって、なんだよ、こんなとこで立ち止まんなよ」
俺がそう文句を言うと、田上はこちらを振り返りました。
そして、強張った顔で言いました。
「なあ、さすがにこれはおかしくねえか?」
「何がだよ」
俺は反射的にそう答えて、その後で、田上の言葉の意味が分かりました。
その部屋はダイニングキッチンだったのですが、何年も人が住んでいない廃屋のそれにはとても見えなかったのです。
単に埃がそれほど厚く積もってはいないとか、蜘蛛の巣がかかっていないとか、それだけの話ではありません。
テーブルや食器棚にゴミ箱、それに冷蔵庫といった家具、家電がそのまま残っていたのです。しかもよく見ると、冷蔵庫には何枚かのメモがマグネットで留められていました。食器棚にも、コップや茶碗、お皿などが収められているのが分かりました。
一言で言うなら、そこには生活感があったのです。
あたかもほんの少し前まで人がいたかのようで、俺はメアリー・セレスト号の話を思い出してぞくりとしました。
いや、もしかして本当にほんの少し前まで人がいたのではないか?
実はここは廃屋ではなく今も人が住んでいる家で、住人はたまたま俺達が来る少し前に外出したのではないか?
俺は急に、そんな不安を感じました。
「なあ、噂の場所って、本当にここで合ってるのか? 間違って、今も誰か住んでる家に入っちまったってことはないか?」
俺は、田上にそう尋ねました。
もしそうなら、まずいと思いました。たとえ廃屋でも通報されたら不法侵入にはなるでしょうが、実際にはわざわざ通報するような人がいるとも思えません。
しかし、もし今も誰かが住んでいるというのであれば、話は全く違ってきます。住人に見つかったらまず間違いなく通報されますし、下手をすると不法侵入だけではなく窃盗未遂の疑いだってかけられるかもしれません。
俺の言葉に田上は少し狼狽えたようでしたが、すぐに強気の姿勢へと転じました。
「馬鹿、そんなわけねーだろ。玄関には鍵もかかってなかったし、それに外から見た時、割れてる窓とかあったじゃねーか。鍵はかけ忘れってこともあるかもしれねーけど、さすがに今も人が住んでたら窓をあんな風に割れたままにはしとかねーよ」
「いや、でもこの部屋、何年も人が住んでないようには見えないって」
俺はなおも食い下がりましたが、田上は自分が先に『おかしくねえか?』と言ったことを棚に上げ、俺を鼻で笑いました。
「じゃあ勝手に住み着いてるホームレスとかだろ。だったらこっちが通報される心配はねーって。お前、ビビりすぎなんだよ。それより、これ見ろよ」
そう言って田上は、テーブルの上に置いてあった白い封筒を取り上げました。表には、『遺書』と書かれています。田上が封筒を裏返すと、そちらには『犬山洋子』という名前が記されていました。
「噂の自殺したっていうこの家の娘か? こんな名前だったっけ?」
田上はこちらを見てそう問いかけてきましたが、噂では自殺した娘の名前までは出ていなかったので、俺が知るはずもありません。
「いや、知らねーよ。それより、そんな昔の遺書がそのままここに残ってるわけないだろ。親か警察が回収するに決まってるじゃん。それに見た感じ、紙も新しすぎるし」
俺が思ったままを率直に述べると、田上はあっさりと同意しました。
「まあ、そうだよな。誰か俺らより先に肝試しに来た奴らが、悪戯で置いてったのかもな」
そう言いながら田上は、躊躇なく封筒から便箋を取り出して読み始めました。俺はそんな田上の行動に半ば呆れつつも、俺自身も気にならないと言ったら嘘になるので、田上の背中越しに覗き込んでいっしょにそれを読みました。
その遺書によれば、犬山洋子の母親は離婚して以来、自分の人生がうまくいかないことを娘のせいにしてつらく当たるようになり、家庭環境は最悪だったようです。しかも彼女の不幸はそれだけに留まらず、学校でも女子グループのリーダーに目をつけられていじめられるようになったとのことでした。
そういうわけで人生にもう何の希望も持てなくなったので自ら命を絶つことにした――と、そのようなことが遺書には記されていました。
「ひでー話だな」
まあ、これに書いてあるのが本当のことならだけど――と、俺が続けて言おうとした時のことです。
背後から、ガタン、と何か硬い物が倒れるような音が聞こえてきました。
遺書に集中していた時に不意を突かれたということもあって、俺と田上は揃ってビクッとしました。
「何だ、今の音?」
「この家の中から聞こえてきたよな?」
俺達は顔を見合わせた後、音の出所を探るべく、恐る恐る廊下へと戻りました。
俺達が真っ先に入ったダイニングキッチンへと繋がるドアは廊下の突き当たりにあったと言いましたが、廊下には他にも左右に一つずつドアがありました。
「どっちだと思う?」
俺がそう尋ねると、田上は「しっ」と言って、右手の人差し指を口の前で立てました。
言われた通り黙ると、俺にも田上が何に反応したのか分かりました。ぎぃっ、ぎぃっ、という音が、微かに聞こえてくるのです。耳を澄ませてよく聞くと、その音は左側のドアの方から聞こえてくるようでした。
元々半開きになっていたそのドアを押し開けてみると、そこは洗面所でした。
洗面所に入ると、ぎぃっ、ぎぃっ、という音は右の方から聞こえてくるようです。
何も考えずそちらに目を向けた俺達は、凍りつきました。
そこには浴室があったのですが、洗面所と浴室を隔てる引き戸は開け放たれていたため、浴室の中が丸見えになっていました。
その浴室内で、制服姿の少女が首を吊っていたのです。
見上げるような高い位置ではなく、少女の顔と俺の顔がちょうど同じくらいの高さにあったのですが、その顔は赤黒くうっ血して目は飛び出さんばかりになり、口からは舌がだらんと垂れ下がっていました。
少女は浴室内で洗濯物を乾燥させるためのものと思しき棒から吊り下げられていて、その体が揺れる度に棒が軋み、ぎぃっ、ぎぃっ、という音をたてていました。
俺は恐怖のあまり声を出すことすらできず、ただ硬直して口をぱくぱくとさせていました。
しかし田上が悲鳴をあげて洗面所を飛び出したことで硬直が解け、田上の後を追って俺もその場から逃げ出すことができました。
俺達はそのまま交番へと駆け込み、しどろもどろになりながらも、廃屋で少女が首を吊っていることを警官に報告しました。
ところが、俺達が警官を伴ってあの廃屋へと戻ると、そこにあの少女の死体は無かったのです。
それだけではありません。
まるで今も人が住んでいるかのように見えた廃屋は、僅かな時間のうちにすっかり様変わりしていました。
厚く埃が積もり、テーブルや冷蔵庫は消え失せ、まさに何年も人が住んでいない廃屋に相応しい荒れ様となっていたのです。そればかりか、部屋の間取りまで変わってしまったようでした。
警官には『怖い怖いと思ってたせいで幻覚でも見たんだろう』と呆れられ、それから廃墟への不法侵入を厳しく叱責されました。
幸いにして不法侵入の件はそれほど大事にはされずに済んだのですが、俺と田上は自分達が見たものが幻覚だという意見に納得できませんでした。あの後、それぞれが何を見たのかについて話したのですが、俺と田上が見たものは全く同じだったからです。
いくら何でも、二人の人間が全く同じ幻覚を見るとは考えられません。
そうなると、やはりあれは自殺したというあの家の娘の霊だったのだろう――俺達はそう考え、それを確かめるべく件の自殺について調べることにしました。
ところが、俺達はそこでまた困惑することになったのです。
あの家で自殺した女性の写真は、古い雑誌に載っていました。
しかしどう見てもそれは、俺達が見た首吊り死体とは別人なのです。
生きていた時に撮った写真と首吊り死体では顔が別人の様に見えてしまうこともあるだろう、と思うかもしれません。
しかし、違っていたのは顔だけではありませんでした。
まず、年齢です。中学か高校かまでは分かりませんでしたが、俺達が見た首吊り死体は制服を着ていました。しかしあの家で自殺した女性は、音大生だったらしいのです。その上、自殺の動機も『幼少期から人生をかけて打ち込んできたピアノが事故による怪我のせいで弾けなくなったことに絶望したから』という、あの遺書に書かれていたのとは全く違うものでした。
しかも彼女の名前は、『犬山洋子』ではなかったのです。
あの家で自殺した女性の霊でないのなら、俺達が見たのはいったい誰だったのか――結局、その答えを出すことができないまま日々は過ぎ、俺達は高校を卒業して、田上は遠方の大学へと進学していきました。
田上が地元を離れてからもしばらくは連絡を取り合ったりもしていたのですが、時が経つにつれて次第に疎遠になっていきました。
そんな風にして、小学生の時から続いてきたあいつとの腐れ縁も途切れることになったのです。
田上と久々に会ったのは、昨年、あいつの親父さんが亡くなった時です。
田上の実家は小さな定食屋をやっていて、俺もその店にはよく顔を出していたので、田上本人とは疎遠になった後も、あいつの親父さんやお袋さんとはそれなりに交流がありました。
そういうわけで葬式には俺も参列したのですが、そこで久しぶりに田上と顔を合わせることになったのです。
俺の顔を見た田上は随分と懐かしがり、『溜まってた有給使ってしばらくはこっちにいるつもりだから、今度いっしょに飲もうぜ』と誘われました。
その言葉通り二人で飲みに行ったのは、その週の土曜のことです。
「お袋一人こっちに残しとくのは心配だからさ、俺の家に呼んでいっしょに暮らそうと思ってるんだよ。あの店だって、親父無しじゃ、どのみちもう続けられないしな」
田上がそんなことを言うので、俺は「奥さんは良いって言ってるのか?」と尋ねました。あいつが結婚した頃には、俺達はもう疎遠になっていましたが、結婚したこと自体はあいつの親父さんから聞いていましたからね。
「いや、俺この前、離婚したんだよ。そうだ、良い機会だし、ちょっと愚痴を聞いてくれるか? 本当、ひでー話なんだぜ」
そんな風にして田上が語ったところによれば、離婚の原因は彼の元妻の不倫だそうです。相手は妻子持ちの男で、いわゆるダブル不倫というやつですね。
なんでも、田上の元妻はあいつと出会う前からその男と不倫関係にあり、結婚後もその関係を続けていたのだそうです。
しかしその不倫は、結婚してから一年も経たないうちに田上の知るところとなった、とのことでした。
「ん? それだと“この前”離婚したっていうのはおかしくないか? だってお前が結婚したのって確か社会人になってからわりとすぐだったはずだから、もう十年以上前の話だろ?」
俺がそう言うと、田上は自嘲的な笑みをその顔に浮かべました。
「その時はさ、許したんだよ。あいつが泣いて謝って、もう不倫相手とは絶対に会わないと誓うって言うから、それを信じたんだ。その次の年には娘も生まれたし、出だしで躓きかけたけど、なんだかんだで円満な家庭を作れたなと俺は思ってたんだが。ま、結果的に言うと、そんな風に思ってた俺が馬鹿だったよ。あいつは最初にバレた後も、その妻子持ちの男とこっそり会ってたんだ。ヨウコもどうせ、俺じゃなくてその不倫相手との間にできた子供なんだろうさ」
突如出てきたその名前に、俺はあの恐怖体験の記憶を刺激されました。
「ちょっと待て、お前の娘、ヨウコって名前なのか。それ、どういう字を書くんだ?」
「太平洋とか大西洋の洋に、子は子供の子だよ。それがどうかしたのか?」
俺は背筋を寒気がはしるのを感じましたが、表面上は平静を装いました。
「変なこと聞くけど、別れた奥さんの旧姓って、まさか犬山じゃないよな?」
「よく知ってるな。親父かお袋から聞いたのか?」
俺は迷った後、恐る恐る尋ねました。
「……あのさ、高校の時、いっしょに心霊スポットに行ったのは覚えてるよな?」
「そりゃ覚えてるけど、急に何の話だ?」
「じゃあ、あの時に見つけた遺書に書いてあった名前って、覚えてるか?」
田上は数秒間沈黙した後、答えました。
「いや、そんな細かいとこまでは覚えてねーわ。ガキの頃の話だしな」
本当にそうなのか?
本当は、犬山洋子の名前もずっと覚えていたんじゃないか?
本当は、奥さんがもう不倫はしないと誓った時、その言葉を疑っていたんじゃないか?
だから娘が生まれた時、『もし妻がまだ自分を裏切っていた場合は、この赤ん坊が将来、犬山洋子になればいい』と思ってその名前を付けたんじゃないか?
俺はそう聞こうとして……結局、聞くことはできませんでした。
もし、『ああ、その通りだよ』と言われてしまったら、その言葉を受け止められる自信が無かったからです。
田上の娘の顔……ですか?
いや、あなたの考えてることは分かりますよ。俺達があの廃屋で見た少女と同じ顔なんじゃないかって、それが気になってるんでしょう?
でも申し訳ありませんが、写真を見たことすらありません。
見せてやるって言われても、絶対にごめんですけどね。
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