第三話「赤ちゃんの作り方」
母の実家は古い木造家屋で、私は訪れる度に『妖怪でも出てきそうだ』と思っていました。
母は祖母に対して、そんな古い家は土地ごと売り払って一緒に住もうと何度も提案していたそうですが、祖母は祖父との思い出が残るその家に愛着があったようで、結局最後まで首を縦に振らないまま、その古い家で亡くなりました。
私が中学生の頃の話です。
主を失ったその家は、母にとっても自分が生まれ育った色々と思い出のある場所だったはずです。しかし母はたいていのことを「まあ、いいか」の一言で片づけるあっさりとした性格のためか、祖母の存命中から言っていた通り、土地ごと売ることをさっさと決めてしまいました。
そうなると当然、置いてある家財道具を整理して、それぞれについて回収するか処分するかを判断する必要が出てきます。そしてその整理のための人手として、私も駆り出されることになりました。
「私が見たって要る物か要らない物なのかも分からないし、結局お母さんが全部確認することになるじゃん。だったら私はいなくても良いと思うんだけど」
せっかくの休日を雑用で潰されることへの不満から口を尖らせる私に対し、母はあっけらかんとした様子で言いました。
「どうせ大した物は残ってないはずだし、隠し金庫とか宝石とかそういう見るからに貴重そうな物以外はゴミってことで良いから」
あまりに無頓着な言い様に、私は呆れを隠し切れませんでした。
「安っぽい見た目でも実は大切な思い出の品とか、そういうのもあるかもしれないじゃん」
「大丈夫、大丈夫。思い出の品が消えても思い出は消えないって言うでしょ」
怪しいものだ、と私は思いました。
自信満々で「思い出は消えない」などと嘯いていますが、実際のところ、母は色々と大事なことを忘れがちな人間だからです。これまでの経験から、私はそのことをよく知っていました。
誰かに「あの時のこと覚えてる?」と聞かれるとか、思い出の品を目にするとか、そういったきっかけさえあればかなり昔のことでも詳細に思い出せるようなので、記憶力が悪いというわけではないのでしょう。しかし逆に言えば、そういったきっかけが無い限りは思い出さないことが実に多いのです。
明らかにゴミとしか言いようがない物以外は念の為に確認をとることにしようと、内心で私は方針を決めました。
私が担当することになったのは、二階の物置でした。
扉を開けた途端、埃がわっと舞い上がり、思わず咳き込みます。埃の積もり具合から考えて、祖母の存命中から長らく放置されていたようでした。
マスクを持ってくれば良かった、と後悔しながら、一番手前にあった段ボール箱の蓋を開けます。
中に入っていたのは、古い本でした。幼児向けの絵本から大学受験のための参考書に至るまで、対象年齢がばらばらの本が雑多に詰め込まれています。恐らく、母が一人暮らしを始める際に自室の本棚を持って行こうと考え、そこに入っていた本をろくに整理もせずこの箱に放り込んだのでしょう。
母はたぶん要らないと言うだろうなと思いながら、本を順番に箱から出していきます。すると、一番下から、別のものが出てきました。
絵日記です。可愛らしくデフォルメされた動物が描かれている表紙のデザインは、明らかに子供向けに作られたものであることを示しています。
母が子供の時にどんな日記をつけていたのだろうと興味が湧き、私はそれをぱらぱらとめくりました。
どうやら母はかなりの野生児だったようで、山で虫捕りをしたとか、川で蛙を捕まえたとか、そんなことばかり書かれています。私は微笑ましい気持ちになって読んでいましたが、終盤に差し掛かったところで、ぎょっとして思わず絵日記を取り落としそうになりました。
そこには、こんな言葉が書かれていたのです。
『山で虫とりをしてたら、しらないおじさんがあかちゃんのつくりかたをおしえてくれました』
私は眉をひそめました。
どこかの変態が、当時まだ性に関する知識の無い年頃だったであろう母に対し、卑猥な話を吹き込んだのでしょう。
胸がむかむかしてきました。
人気の無い山の中で変態と二人きりとなると、最悪の場合、単に卑猥な話を聞かされただけでは済まなかった可能性もあるのではないか――そんな不安を抱きながら続きを読むと、そこには予想外のことが書かれていました。
『おじさんがおしえてくれたあかちゃんのつくりかた。
1、まず、虫をつかまえます。どんな虫でもいいけど、小さい虫だとすごくやりにくいので、できるだけ大きい虫のほうがいいっておじさんはいってました。
2、虫のせなかに、「虫」っていうじになるようにきずをつけます。
3、虫のせなかにつけた「虫」のじのきずに、ぼくじゅうでバツじるしをつけて、そのみぎうえに「人」というじをかきます。
これをまい日つづけると、虫はちょっとずつあかちゃんになって、10か月と10日わすれずにつづけるとあかちゃんができあがるそうです。
ちゅうい! とちゅうでやめると、さいしょの虫にもどってしまうそうです』
文章の上部にある絵を描くスペースには、カナブンなのか蛍なのかはたまたゴキブリなのかよく分からない虫が描かれています。その背にはバツ印がつけられた『虫』という漢字が書かれており、更にその右上には『人』という漢字もあります。この『赤ちゃんの作り方』を図で表したものなのでしょう。
――なんだ、これは。
私は、困惑しました。
ひとまず、私が恐れていたようなことは幼い頃の母の身には起こらなかったようで、その点では安心しました。
しかしそれはそれとして、どうにも薄気味の悪い話です。子供にこんな出鱈目を吹き込むなんて、変態ではないにしても、まともな人間ではないに違いありません。こんな話を聞いて、母はどうしたのでしょうか。
日記帳の続きを読んでみましたが、翌日以降のページにこの『赤ちゃんの作り方』に関する記述は無く、どうやら母はこの話をすっかり忘れてその後の日々を過ごしたようでした。
私は、ほっと安堵の息を吐きました。
こんな悪趣味な話は、忘れるに越したことはありません。この絵日記は、母には見せない方が良いでしょう。
私は絵日記が母の目につかないよう、不要そうな古びた絵本の一つに挟みました。
それからしばらく、私はこの絵日記のことを忘れていました。
思い出したのは、友人から『弟が飼っている外国産カブトムシの世話をしなくてなってしまい困っている』という話を聞いた時のことです。
なんでも、友人の弟は雌雄のペアで売られていたカブトムシをペットショップで買ってきたそうなのですが、オスの方が先に死んでしまい、角が無く見栄えのしないメスだけになってしまうと途端に世話をする気を失ってしまったらしいのです。そして友人がいくら叱っても聞く耳持たずなので、やむなく彼女自身が世話をしているとのことでした。
「私べつにカブトムシなんて好きじゃないし、っていうか、どっちかっていうと虫は嫌いだし、本当は世話なんてしたくないんだよねー。でも弟に任せてたら絶対干からびるまでほったらかしにするだろうし、それはそれで後味悪いじゃん? それに外国産のカブトムシは外に逃がすのも駄目らしいから、他にどうしようもなくてさ。誰か引き取ってくれる虫好きの人とか見つかると良いんだけど」
友人がそう嘆くのを聞いた時、自分でも不思議なことですが、私はこう思ったのです。
外国産のカブトムシなら大きいだろうし、背中に字を書くのもやりやすそうだ――と。
そして、半ば無意識のうちにこう答えていたのです。
「だったら、私が引き取ろうか?」
私のこの反応は友人にとって完全に予想外だったようで、彼女は「え?」と言って目を丸くしました。
後から聞いたところによると、もし引き取る人がいるとすれば同種のカブトムシのオスを飼っていて繁殖のためにメスを必要としている昆虫愛好家くらいだろうと考え、ネットのそういう人が集まるサイトで相談しようと思っていたのだそうです。
「いや、もらってくれるなら私としてはありがたいけど、あんたが虫好きだったなんて意外だわ」
私はべつに虫好きなどではなく、この時には既に『なぜ自分は引き取るなどと言ってしまったのだろう?』と思っていましたが、ありがたいと言われてしまっては今更引っ込みもつきません。
こうして好きでもないカブトムシを飼うことになってしまった私は、どのみちこのカブトムシの世話をしなくてはいけない以上、これはもう例の『赤ちゃんの作り方』を試すのに使わないことには元が取れないと考えました。
今なら分かりますが、使わないと元が取れないだの使えば元が取れるだのというのも、客観的に見ればおかしな話です。
常識的に考えて、あんな方法を試したところで虫が人間の赤ちゃんに変わるはずもありません。毎日バツ印と人の字を書かなくてはいけない分、余計な労力が増えるだけです。
そして仮に、もし万が一、そんなはずもありませんが、あの方法が本物で赤ちゃんを作るのに成功したとして、それで私にいったい何の得があると言うのでしょう。厄介事の種にしかならないことは容易に想像できます。
成功しようがすまいがどのみちマイナスしかないのであれば、元が取れるも何もあったものではありません。
しかしどういうわけか、この時の私はそんな風に考えることができませんでした。ただ、『試さなくてはもったいない』としか考えられなかったのです。
友人からカブトムシを受け取ると、私は早速その日のうちに、そのカブトムシの背に『虫』という字の引っかき傷をつけました。
カブトムシは当然のことながら私の手から逃れようと暴れますし、力が弱すぎるとカブトムシの硬い外殻には傷がつかず、かといってあまり力を入れて傷が深くなりすぎてしまうとカブトムシが死んでしまう恐れがあったので、この作業はかなり大変でした。終わった時には汗だくになっていたのを覚えています。
虫の字が完成した後、早速その字の上から墨汁でバツ印をつけ、更にその右上に『人』という字を同じく墨汁で書きました。
カブトムシにバツ印と人の字を書く作業は、それからも毎日続けました。
最初のうちは、何の変化も見られませんでした。
それはそうだろう、虫が本当に人間の赤ちゃんになるはずなんてない――と、私は思いました。
そう思っていながら、どういうわけかバツ印と人の字を書く日課はやめませんでした。
そうして、一ヶ月が過ぎた頃でしょうか。
いつものようにバツ印と人の字を書き終えた私は、ふと違和感を覚えてカブトムシをじっくりと観察しました。何かが、いつもと違うような気がしたのです。
そして、気がつきました。
背につけられた『虫』の字の周囲だけ、質感が少し違っているのです。背の他の部分はカブトムシらしい硬い質感なのですが、そこだけ柔らかそうに見えます。
質感が違っている領域は狭く、そのほとんどが墨汁でつけられたバツ印の下であるため分かりづらかったのですが、かろうじて墨汁がついていない部分を見るに、そこは色も人肌のような色に変化しているようでした。
その日初めてそのような変化が起こったのか、それとも変化した領域が狭すぎたから気がつかなかっただけで、変化自体はそれ以前から始まっていたのかは分かりません。
いずれにせよ、この時の私が抱いた感情を正直に記すなら、それは『興奮』でした。
すごい、この『赤ちゃんの作り方』は本物なのかもしれない。
そう思ったのです。
そして翌日以後は、それまでは惰性でこなしていた日課に対して真剣な心持ちで取り組むようになりました。
日を追うごとに人肌のような色と質感の領域は広がっていき、一月後には背中全体が人間の赤ん坊のそれへと変わっていました。上から見ると、縮小した人間の胴体に虫の脚と頭部がついている状態です。
試しに背中に触ってみると、まさに赤ん坊の肌に触れた時のような、しっとりとした柔らかい感触がありました。しかも、真ん中には、正中線に沿って皮膚の下に硬いものがあります。背骨です。表面だけでなく、中身も人間になりつつあるのです。
私の興奮は、否が応にも高まりました。
ところが、そこで変化は止まってしまいました。一週間が経ち、二週間が過ぎても、胴体以外は虫のままなのです。
なぜだ。いったい何がいけなかったというのだ。私はちゃんと言われた通り、一日も欠かすことなく、バツ印と人の字を書き続けてきたというのに!
もしかして、気づかないうちにどこかで失敗してしまっていたのか? 書き順とか、バツ印が虫の字のこの部分には重なってなくてはいけないとか、そういうルールが実はあって、そこから外れてしまっていた日があったのか?
私は焦燥感と苛立ちから頭を掻きむしりました。その頃には、私の頭の中は『早くこの虫を赤ちゃんにしたい』という思いでいっぱいになっていました。
虫の変化が止まってしまった理由は分かりませんでしたが、それでも私は休むことなくバツ印と人の字を書き続けました。
あの『赤ちゃんの作り方』には途中でやめると最初の虫に戻ってしまうと書いてあったのだから、そうなっていない以上、まだ挽回可能なはずという希望にすがっていたのです。
それから何日間、その日課を続けたでしょうか。もはや内心では諦め半分となり、バツ印と人の字を書く日課もほとんど惰性で行うルーチンとなっていたある日、私は泣き声を聞きました。
鳴き声ではなく、泣き声です。オギャア、オギャアという赤ん坊の声が聞こえてきたのです。
声は外からではなく、明らかに私のいる部屋の中から聞こてきていました。
私は、室内を見回しました。
自室にテレビはありませんし、パソコンの電源もオフになっています。スマホも見てみましたが、動画などが再生されていたりはしませんでした。
そこまで確認し終えたところで、私は虫籠に目を遣りました。あのカブトムシの入っている虫籠です。
まさかと思いながらも、虫籠に耳を近づけます。
私の予感は、当たりました。オギャア、オギャアという泣き声を発していたのは、件のカブトムシだったのです。
しかし、カブトムシの体のうち人間に変化している部分は、やはり胴体だけでした。頭部も三対ある脚も相変わらずカブトムシのままです。人間の赤ん坊のような声で泣いているからといって、口が人間のようになったりは――そこまで考えたところで、私は気がつきました。
カブトムシは基本的に、腹這いの姿勢でいます。もし人間が腹這いの姿勢でいた場合、顔はどちらを向くでしょうか。言うまでもなく、下です。
しかし私はこれまで、カブトムシを上側からしか観察していませんでした。
私は虫籠の蓋を開けて手を突っ込むと、むんずとカブトムシを掴みました。そしてそのまま虫籠から取り出し、裏返しました。
そこには、顔がありました。
人間の顔、赤ん坊の顔です。
人間の目が、鼻が、口がありました。その口から、オギャア、オギャアという声が発せられていました。
声は泣き声なのに表情は泣き顔にはなっておらず、無表情のまま、ただ声だけで泣いていました。声だけで泣きながら、じっとこちらを見つめていました。その目が私自身の目と合った時、私は、それが誰かに似ていると思いました。
そして、気がつきました。
私です。この赤ん坊の顔は、他ならぬ私自身に似ているのです。赤ん坊の頃の私の顔は、あるいは私が赤ん坊を産むことがあればその顔はこんな風なのではないかと、そう思えるような顔でした。
そのことを意識した瞬間、唐突に怖ろしくなりました。
いえ、憑き物が落ちたとか、正気を取り戻したと言った方が良いかもしれません。普通に考えれば、もっと早く、少なくとも虫の胴体が人間のそれへと変化した時点でそう感じておくべきだったのですから。
正気を取り戻した私は、赤ん坊の胴体と顔がついた虫の存在に耐えられませんでした。
私は声にならない悲鳴をあげ、手に掴んでいたそれを、床へと叩きつけました。
虫はその程度では死なず、仰向けにひっくり返った状態でもがいています。まさに虫そのものの動作でもがいているのに、虫の脚を生やしたその腹は人間の赤ん坊のそれで、人間の顔、私そっくりの顔でこちらを見ているのです。相変わらずの無表情のまま、じっと見つめてくるのです。
私は動くことも、虫から目を逸らすことすらもできず、ただその場に硬直していました。
やがて、仰向けの体勢でもがいていた虫は、体をひっくり返すことに成功しました。そのまま這って、部屋の出口の方へ逃げようとします。
虫が逃げてしまう。もし誰かが逃げたこの虫を見つけてしまったら、私がやったことがバレてしまう。
その時の私は、そう思いました。
駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ、私がこんなことをしていたと、虫から赤ちゃんを作っていたと知られるのは駄目だ。
そんな焦燥で、頭がいっぱいになりました。その焦燥が、私の体の硬直を解きました。
私は手近にあった雑誌をひっつかむと、わけの分からない叫びをあげながら、部屋の出口へと向けて這う虫の上に振り下ろしました。
虫が、一際大きな声で泣きました。赤ん坊を鈍器で殴りつけたらこんな声で泣くのではないかと思われるような、恐ろしい声でした。人間を叩き潰したかのように真っ赤な血が飛び散り、床を汚しました。
私は涙目になって、何度も何度も、虫がどうなったかを確かめることすらせず、ひたすらに雑誌を虫の上に振り下ろし続けました。
どのくらい時間が経ったでしょうか。
腕が疲れて動かせなくなり、手から雑誌が滑り落ちてしまったところで、ようやく私はそこにあったものを見ました。
それは、ただのカブトムシの死骸でした。その胴体は硬質感のある外殻に覆われ、柔らかそうな人間の肌などどこにもついてはいません。
床は飛び散った液体で汚れていましたが、それは虫を潰した時に出るあの透明な体液でした。さっきは確かに、人間の血のような赤い液体に見えたのに。
途中でやめたから、元の虫に戻ったんだ。
最初はそう思いましたが、すぐに考え直しました。
きっとこの虫は最初から最後までずっとただのカブトムシで、ただ私が幻を見ていただけだったのです。そうに決まっています。
虫が人間の赤ちゃんになるなんて、そんなことあるはずがないのです。
私は自分自身に、そう言い聞かせました。
それからしばらくは、虫を見るだけであの日のことを思い出し、冷や汗が流れて動悸が止まらなくなる日々が続きました。
また、『そういえば、私があげたあのカブトムシどうなった?』と件の友人に聞かれたらどうしようと内心びくびくしてもいました。
しかし結局、その友人がカブトムシの話を持ち出すことは一度としてありませんでした。考えてみれば、友人としても弟が放置しているので仕方なく世話をしていただけでべつに愛着があったわけではないのですから、厄介払いさえできてしまえば後のことはどうでも良いという気持ちだったのかもしれません。
そうして月日が流れ、また夏が巡ってきました。
夏といえば虫が多く出てくる季節ですが、その頃にはもう、前年の出来事はただの悪い夢だったのではないかという気がしてきていました。冷静になって考えてみれば、虫が人間になるはずなどないのですから。
しかしそれでもやはり虫が多いところに行くことには抵抗感があり、夏休みに遊びに行くならキャンプ場と海水浴場のどちらが良いかと友人から聞かれた時には、即座に後者を選びました。
海水浴の当日、水着に着替えて出てきた私を見て、友人はにやりとしました。
「お、今年はずいぶんと大胆じゃーん?」
前年はスクール水着しか持っていなかったせいで散々からかわれたので、この年は初めてセパレートタイプの水着に挑戦してみたのです。しかしいざ着てみると、どうにも恥ずかしくてたまりませんでした。
「うるさいなー、もう」
私は腹を立てたふりをし、なおもからかってくる友人をおいてさっさと歩き出しました。ところがその途端、背後から「え……?」と驚いたような声が投げかけられました。
「なに?」
首だけで振り返ると、友人は青い顔をしています。いったいどうしたのかと私が不安に思っていると、友人はすぐ傍まで近寄ってきて、周囲の人に聞こえないよう気をつかったのであろう声量でささやきました。
「あの……さ、変なこと聞いてごめんだけど、虐待とかされてないよね……?」
「いや、ないけど……。何で急に?」
まったく心当たりがありませんでした。うちは母子家庭で父は元々いませんし、母はまあ、色々と変な人ではありますが、少なくとも虐待だのネグレクトだのをされた覚えはありません。
「その、背中に刃物でつけたみたいな傷跡があって……」
「いつついたのか分からないけど、切り傷くらい自然につくこともあるでしょ」
水着を着たら見える位置に傷があるのは嫌だなぁと内心で思いつつも、友人があまりに険しい顔をしているので、私はあえて軽い口調でそう言いました。
しかし、友人は私のその言葉に対して、険しい表情を崩さないまま、ふるふると首を左右に振りました。
「違うよ、絶対に自然についた傷とかじゃない。だって、これ、字になってるもん」
「字?」
「うん。『虫』っていう字」
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