第二話「生き物係」
小学校の五年生から六年生に上がる直前の春休み、私は親の仕事の都合で田舎の町へと引っ越すことになりました。当然、学校も転校することになります。
私にとっては初めての転校で、もともと不安は大きかったのですが、転校先の学校では一学年に一クラスしかないと聞いてますます不安になりました。
そんな少人数での近密な学校生活を五年間送ってきた人達のところに、最終学年になっていきなりよそ者が入り込むのです。既に人間関係が固まってしまっていてどこのグループにも入れてもらえず、孤独な学生生活を送ることになったとしてもおかしくありません。
それだけで済めばまだ良いのですが、方言の違いなどでからかわれ、そのうちいじめの標的になる可能性すらあります。
少なくとも、当時の私はそう考えました。
しかし、結論から言うと、これは杞憂でした。新しい学校のクラスメイト達はみんな私を暖かく迎え入れてくれたのです。私はそれまで、どこに行ったところでどうせ二、三人くらいは嫌な奴がいるに違いないと思っていたのですが、転校後はそんな自分の捻くれたものの見方を深く反省しました。
さて、そのクラスには四年生の時から飼い続けているのだというハムスターが三匹いて、それぞれ「シラタマ」「ダイフク」「カノコ」という名前がつけられていました。
このハムスター達の世話をするのは生き物係の役目で、動物好きだった私はこの生き物係に立候補することにしました。クラスメイト達が転校生に気を使ってくれたのかは分かりませんが、私はすんなりと二人分ある係の枠の片方に収まることができました。もう一人の係は金田君といういつもにこにこしている皆に優しい男子で、彼ともすぐに仲良くなれました。
ハムスターは愛らしく、生き物係の活動は楽しいものでしたが、七月の初めのある日、登校するとシラタマが動かなくなっていました。
「残念だけど、もう寿命だったのかもしれないね」
金田君は悲しそうにそう言いました。
彼の言うことは、もっともです。
ハムスターの寿命は二~三年ほど。四年生の始めから飼っているのであれば、そろそろ寿命がきたとしてもおかしくありません。
実際、三匹のうち、シラタマとダイフクの二匹は私が転校してきた当初からあまり元気がない様子で、餌を与えるとのそのそとやって来て食べはするものの、回し車を回すといったような活発な動きを見せたことはありませんでした。
死体にも怪我や病気などの痕跡は見当たらず、やはり寿命だったのだろうということで、クラスのみんなでシラタマを校庭の片隅に埋めてお墓を作りました。
みんな、とても悲しそうでした。
十月になると、今度はダイフクが死にました。シラタマと同じく夜のうちに息絶えたようで、朝一番に来た私が給水器の水を交換しようとして見た時には、もう冷たくなっていました。死因はやはり老衰だったようで、この時もクラスみんなで泣きながらお墓を作りました。
こうして、残るハムスターはカノコ一匹だけとなりました。
この子は少し変わっていて、「ハムスターってこんなに鳴くものだっけ?」と思うくらいやたらと鳴く上に、隙あらば脱走しようとするので、私はいつも手を焼かされていました。
しかし手のかかる子ほど可愛いという言葉もあるように、私にとって一番愛着があったのも、このカノコでした。
シラタマとダイフクが死んでしまってからというもの、カノコは一人ぼっちのケージには耐えられないとでも言うかのように、以前にも増して脱走を試みるようになりました。
しかしそんなカノコも、十二月に入ってきたあたりから、だんだんと元気がなくなってきました。
相変わらず脱走を試みはするのですが、以前のような機敏さはなく、運動神経の鈍い私でも簡単に脱走を阻止できてしまいます。生き物係になったばかりの頃はしょっちゅう逃がしてしまっては金田君に捕まえてもらっていたことを思い出し、私は寂しい気持ちになりました。
カノコにもその日が迫っていることは、小学生の私の目にも明らかでした。
冬休みも間近に迫ったある日のことです。私は放課後になっても、なかなか下校する決意ができずにいました。
その日は、それまでにも増してカノコの元気がないように見えたのです。あたかも命の灯火が燃え尽きかけているかのようでした。
カノコに残された日々がもう長くないことであろうことについては、私は既に覚悟ができていました。
確かに人間視点では、二、三年というのは短すぎる一生かもしれません。しかしハムスターにとっては、天寿を全うしての大往生です。母にも「あんたがいつまでも悲しんで泣いていたら、シラタマ達も安心して天国に行けないよ」と言われていました。
ただそれでも、私には一つだけ気にかかっている点がありました。
シラタマやダイフクの時とは違い、今やケージにはカノコ一匹だけしか残っていません。カノコには、看取ってくれる仲間はいないのです。
もし私がここで帰宅してしまったら、カノコは誰にも看取られることなく寂しい最期を迎えることになってしまうのではないか。どうにもそんな気がしてしまって、私は教室を去る踏ん切りがなかなかつけられずにいました。
「カノコが心配なのは分かるけど、あんまり遅くなると家族も心配すると思うし、もう帰った方が良いと思うよ」
私につきあって教室に残ってくれていた金田君が、いつまでもケージの前から離れようとしない私を見かねたように、そう声をかけてきました。
彼の言うことももっともです。
十二月ということもあって、既に窓の外は暗くなり始めていました。いつになるか分からないカノコの最期を看取るために、いつまでも教室に残り続けるわけにはいかないことは、私にも理解できました。それに、今日がカノコにとって最後の日になると決まったわけでもありません。
そんな私の気持ちを読み取ったかのように、金田君は続けてこう言いました。
「大丈夫、明日にはカノコもきっと元気になってるって」
その言葉が気休めにすぎないことは、金田君自身が誰よりも分かっていたでしょう。もちろん、私にも分かりました。ただ、それでも踏ん切りをつけるきっかけにはなりました。
「うん、そうだよね。……じゃあ、バイバイ、カノコ。また明日」
そう言ってケージの前から立ち去ろうとした時です。よたよたと歩いていたカノコが、突然、ぱたりとケージの床に伏すように倒れました。そのまま、動く気配がありません。
「カノコ!?」
私は慌ててケージの蓋を開けると、様子を確かめようと動かなくなったカノコをケージの床から拾い上げました。
その途端、カノコは、ぱっと起き上がると、私の腕をつたって脱走しようとしました。
私は一瞬焦りましたが、年老いたカノコの動きは鈍く、すぐに捕まえることができました。これが元気だった頃のカノコであれば、きっと私はそのまま取り逃がしてしまい、また金田君に捕まえてもらうはめになっていたことでしょう。
私はカノコをそのままケージに戻そうとしたのですが、カノコは力は弱々しいながらも私の手から逃れようと暴れ、ついには私の指に噛みついてきました。
噛む力もまた大したことはなく、指先に薄く血が滲む程度だったため、痛みのあまりカノコを取り落としてしまうといったことはありませんでした。ただ、カノコがいくら手のかかる子とはいっても、それまで私に噛みつくようなことはなかったため、驚くと同時に少し悲しい気持ちになりました。
しかし次の瞬間、そんな気持ちなど吹き飛ぶようなことが起こりました。
「嫌だ、俺はまだ死にたくない! 刈谷や黒原みたいにこのまま死ぬのは嫌だ!」
手の中のカノコが、そう叫んだのです。
私は周囲を見回しました。誰かが悪ふざけで言ったことが、カノコの叫びのように聞こえたのではないかと思ったのです。
しかし教室内に残っているのは私と金田君の二人だけで、その金田君は廊下へと通じる出入り口の前で私を待っているため、すぐ近くから聞こえてきたさっきの声の出どころとは考えられません。
それ以上に、金田君を含め、このクラスに悪ふざけでさっきみたいなことを言う人がいるとは思えませんでした。刈谷と黒原というのはどちらもクラスメイトの名前ですが、二人とも元気に生きています。
さっきのは何かの聞き間違いだったのではないか。私がそう思いかけた時、カノコが再び泣き叫びました。
「謝るから、これからはみんなと仲良くするから、もう許してくれよ。もう戻してくれよぉ! なんで誰も俺の話を聞いてくれないんだ。なんで誰も気づいてくれないんだよ。俺が、本物の金田公照なんだよ!」
私は、カノコが何を言っているのか理解できませんでした。
公照というのは、金田君の名前です。
カノコが、金田君? 金田君は、ちゃんとそこにいるのに。
呆然とする私の手の中で泣き叫ぶカノコの声は次第に弱々しくなっていき、やがてすすり泣きのようになりました。
「嫌だ、まだ死にたくない。俺、まだ死にたくないよ。頼むから人間に戻してくれよ、誰か助けて。助けて、母ちゃん……」
そして、そこで声は途絶えました。同時に、手の中にあるカノコの体から力が脱け、くにゃりとなりました。その胸はもう上下しておらず、見開かれたままの目は虚ろで、私はカノコが既に生き物から只のモノになってしまったことを悟りました。
しかし私の頭の中は、悲しみよりも困惑と混乱でいっぱいでした。
前述の通り、私は既にカノコの死自体は覚悟していました。しかし実際に目にしたそれは、思い描いていた安らかな最期とはあまりにも違いすぎました。
自分の頭だけでは処理しきれなくなり、「ねえ、さっきの聞いた?」と聞きながら背後の金田君を振り返ったところで、私はぎょっとしました。教室の出入り口付近にいたはずの彼が、いつの間にか私のすぐ後ろに立っていたからです。
思わず後退ろうとした私の肩に、金田君は、ぽんと手を置きました。強い力で掴まれたというわけでもないのに、なぜか私は、それだけでその場から一歩も動けなくなりました。
「聞いたって、何を? ハムスターは、喋らないよ?」
金田君はいつものようににこにこしながら、そう言いました。
「でも……」
「ハムスターはね――」
私が反駁しかけたのを途中で遮り、聞き分けの悪い子を教え諭すかのように、彼はもう一度言いました。
「――喋らないんだよ」
その間も、金田君はずっと笑顔でした。笑顔のまま、細めた奥の目でじぃっと私を見ていたのです。
私は、涙目になってガクガクと頷くことしかできませんでした。
翌日、またクラス全員でお墓を作りました。みんな、カノコの死を悲しんでいるように見えました。刈谷君も、黒原君も、そして、昨日カノコが死んだ時はあんなに笑顔だった金田君も。
こうしてクラスで飼っていたハムスターは全ていなくなり、生き物係としての私の役目も終わりを迎えました。
それから三ヶ月後、私は何事もなく小学校を卒業しました。中学は地元の学校に行くしかありませんでしたが、高校では自宅からぎりぎり通える距離にある私立校を受験しました。小学校の同窓生達とは、もうできるだけ関わりたくなかったのです。
大学進学を機に地元を離れた私はそのまま遠方の地で就職し、やがて結婚して子供も生まれました。しかしその結婚生活も長くは続かず、私は一人で子供を育てることになりました。
今もあの町に住んでいる両親はそんな私を心配して、実家に戻ってこないかと頻りに言ってきます。正直なところ私にも、両親の手助けが得られるのであればそうしたいという気持ちが無いわけではありません。
しかし、実家の母との電話中、話の流れで私は聞いてしまったのです。
金田君が、母校の教師になっているということを。
彼が担任を務めるクラスは児童全員の仲が良く、いじめの気配すらないと保護者の間でも評判だそうです。「我が校にいじめはありません」というのは実際には存在するいじめを隠蔽している学校の常套句ですが、あの小学校に限って言えば、きっと本当にいじめなど全く無く、児童全員の仲が良いクラスを実現しているのでしょう。
けれど、母親に助けを求めて泣きながら私の手の中で息絶えたカノコの最期を思い出すと、私は、自分の子供は絶対にあの小学校には通わせたくないと思うのです。
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