永遠に残らないものと

B太郎(青空色)

第1話

とても穏やかな目覚めだったような、覚えがします。

公園を通り抜ける風のように、目の前を子供たちが走り抜けました。微笑ましいことに、朝から元気に鬼ごっこをしているようです。

子供たちの楽しそうな笑い声を聞いていると、気分が明るくなってきました。あの未来溢れるハツラツとしたエネルギーを、分け与えてもらったような気になります。

歩き出そうとして、ふと思いました。

私は、どうして公園に居るのでしょう。何をしに外へ出たのでしょうか。どこかへ、急いで向かっていたような、全く落ち着いて歩いていたような気もします。

立ち尽くしていると、上空から照り付ける日差しがとても熱く感じました。意識まで溶けていくようです。辺り一帯から、子供の甲高い声が聞こえてきます。きゃっきゃっと無邪気なはしゃぎ声が、四方八方から耳に突き刺さり、頭まで痛くなってきました。

「……ん。久美ちゃん」

傍にあるベンチから、年老いた声がしました。夢うつつな頭に染み込むような、聞きなれた声です。高齢のお爺さんと目が合い、その知性の感じる瞳と、気品のある微笑みに、思い出しました。

「英くん、久しぶりね!」

幼馴染みの顔は、私の記憶にあるより一等老けていました。口に出すのは可哀想なのでやめますが。いつまでも理性を感じさせる穏やかな目つきは、賢い英くんのままなのです。

「お出かけ?」

そうでした、急いで出勤しなくては、午前十時からの始業に間に合いません。英くんは私の遅刻を見越したように、苦笑しました。

「今日は土曜日だよ」

あら、私は早とちりしてしまったようです。この歳になってうっかりしていたことを、恥ずかしく思いました。

「まぁせっかくだから、カフェにでも行かない?」

「二人で? ふふ、英くんの可愛らしいお嫁さんに刺されてしまうわ」

英くんは、困ったように眉を下げて言います。

「彼女はもう許してくれるよ。この歳だからね、僕らの胸は高血圧でしか高鳴らないさ」

そういえば、もうそんな歳になったのでした。英くんはとっくに定年して、趣味で始めた塾経営も畳んだと聞いた気がします。

二人並んで歩いていると、まるで昔に戻ったかのようでした。セーラー服を着て、学ラン姿の英くんの隣を歩いているかのようです。

校門を通った先には、大きな桜の木が一本立っていました。卒業式の日、ちょうど満開の桜の下、友人たちと写真を撮っていました。ずっと友達でいようと約束した、愛おしい友人たちとの、懐かしい日々が頭を過ります。

昔から変わらない春の薄い青空を見上げると、すっかり年老いた目に、太陽は眩しすぎました。頭がくらりとして、平衡感覚まで失ってしまったようでした。

立ち止まったとき、英くんに手を取ってもらいました。

「もうすぐ着くよ」

昔よりしわしわで、せがれている声でしたが、変わらないトーンに安心します。同い年なのに、いつも私より落ち着いていて、年上の兄のような人でした。

からんと音を立てて扉が開いて、英くんが紳士らしく私を先に通してくれます。

カフェの中は静かで、落ち着いた雰囲気でした。ほんのわずかな時間なのに、すぐに疲れてしまった身体を、心地のいいソファーで休ませます。店内に差し込んでいる柔らかく薄い日差しと、肌触りのいいソファーに、眠くなってしまいそうでした。

「僕はアイスコーヒーにしよう。久美ちゃんは何頼む?」

小腹がすいたので、甘いケーキが食べたいです。英くんは小学生のころからコーヒー好きでした。当時は、あんなに苦いものを飲めることへ素直に感心しましたが、きっと見栄を張っていたのでしょう。本当に好きになったのはいつからなのでしょうか。永遠の謎です。

いつの間に頼んでいたのか、ケーキが届きました。小さな長方形の、おしゃれなチョコケーキです。フォークを手に取って、一口食べると、程よい甘さが広がりました。

表面にかけられている蕩けるようなチョコレートソースと、調和のとれたビターのしっとりしたスポンジ部分が、口の中を転がります。

「ケーキ、おいしい?」

「えぇ、とても」

コーヒーもよほど美味しいみたいで、英くんはもう半分以上飲み終えています。老眼鏡をかけて、耳にイヤホンをつけながら本を読んでいる英くんの姿を見ていると、懐かしい記憶が溢れてきました。

昔はもっと無口で、教室の隅でずっと本を読んでいる方でした。

根暗、無口だと友達一人できなかった英君でしたが、高校生になってから様変わりしました。いつの間にか、知的で大人っぽい格好良さの象徴として、人気が出始めていました。

よくいえば落ち着いていた言動と、もちまえの賢さが噛み合わさったのでしょう。

「くーちゃん……本当に、英樹くんのこと気になってないの?」

鏡花ちゃんの不安そうな、上目遣いの表情が浮かびます。小動物のように、可愛らしくて、人見知りの激しい子でした。

最初は、彼女に話しかけても、声が酷く震えていて、まともな言葉も返ってきませんでした。まるで英くんと話しているかのように盛り上がらない会話が、面白かったのです。

何度も話しかけているうちに、打ち解けることができました。

「嘘だったら許さないからね。絶対だよ。安井金比羅宮で縁切りしたあとに、藁人形で呪っちゃうからね」

小動物とは無縁だった中身には驚いたものです。冗談なのか本気なのか区別がつきませんでしたが、そんな彼女がとても可愛らしく見えたままでした。

恋に本気だった鏡花ちゃんは、重度の人見知りにもかかわらず、英くんに話しかけに行っていました。そう都合よく、性格が変わることはありません。

放課後、鏡花ちゃんは、帰ろうとしている英くんの傍に近寄ったはいいものの、無言のまま、しかめっ面で圧をかけていました。

「……え?」

口元を引きつらせて、困惑する英くんの姿は、いつ思い出しても面白いものです。おかしく思うのと一緒に、ぼんやりとした思いが胸に絡みつきました。もやもやしたのです。

なんだか、寂しいと。そう感じました。

私は、本当は英くんのことが好きだったのでしょうか。

英くんは戸惑いながら鏡花ちゃんを見つめています。その視線が、ふと下に落とされました。鏡花ちゃんの手が、傍目から分かるほどにガタガタ震えていたのです。

英くんは鏡花ちゃんへ、見たこともないような優しい眼差しを向けます。

「今日、美化委員の集まりだっけ」

鏡花ちゃんは口をはくりと開け、真っ赤な顔で頷きました。

「久美ちゃんは――」

「先に帰るよ」

二人の姿を目の当たりにして、初めて、悲しさが胸を締め付けました。

目の前の光景はとても愛おしく、遠くにありました。これから先も、私は、彼らとずっと一緒に居るのだと当たり前に感じていました。胸の苦しみが、違うのだと言っていました。

もしも彼女ができたのなら、私は以前のように英くんと一緒に居られなくなるのです。

もしも、鏡花ちゃんに彼氏ができたのなら、私と一緒に帰ることなんてできないのです。

卒業式の日、桜の木の下で、友人たちと永遠の約束をしました。また、いつでも会えると信じていたのに、高校が離れてから、遊ぶ機会がパッタリ消えてしまいました。

たとえば遠く離れていても心は繋がっているとしても、共に過ごした過去は消えないにしても、今の私の傍には居ないのです。

それが、急に寂しくなりました。大好きな人たちとずっと一緒に居たいのに、それは儚い願いなのだと知ってしまい、どうしようもない孤独が、胸に風穴を空けたみたいです。

過去の友達との思い出は胸にしまって、みんな前に進んでいくのです。いつまでも、みんなと仲良くしていたいと感じてしまう私は、取り残されてしまうのでしょう。

「久美ちゃん」

ふとした呼びかけに、顔を上げます。一輪の花がよく似合う、あの美しい微笑みが脳裏にちらつきます。そこに居たのは、年老いた英くんでした。

「僕、お昼ご飯も頼むよ。ここのサンドイッチは美味しいからね。半分に分けて食べないかい?」

店内の時計を見ると、十二時を過ぎていました。ぼんやりしていたみたいです。目の前にある空っぽのお皿に、チョコレートのようなものがついていました。

私は、チョコケーキを食べていたのでしょうか? きっと、美味しかったのでしょうに。忘れてしまう朧げな記憶、曖昧な時間感覚が、嫌に思いました。

「焼き加減がちょうどいい具合にパリッとしていて、美味しいんだよ。久美ちゃんは、なにか気になるものはある?」

机に置いてあった老眼鏡をかけて、差し出されたメニュー表に目を通します。美味しそうなサンドイッチ、ハンバーガー、パスタ、次々に写真が目に入ります。色とりどり、とても美味しそうなのは分かるのですが、何が何やら、頭に入ってきません。

「それじゃあ、私も同じのにしようかしら」

英くんが若い店員さんに注文を済ませてくれました。

「なにか、昔のことでも思い出してたの? なにやら楽しそうな顔をしていたけど」

そうです、彼に呼ばれた気がしたのです。一つ思い出せば、次々に記憶が蘇りました。

昔の記憶だけは、まだ覚えています。

「英くんが、初めて鏡花ちゃんに声をかけられた日があったじゃない」

「ふふ、声はかけられなかったけどね」

英くんが懐かしそうに笑っています。二人はお似合いだとは思っていましたが、最後まで連れ添うことになるとは思いませんでした。鏡花ちゃんは元気にしているでしょうか。

久しぶりに会いたい気持ちはありますが、鏡花ちゃんがここに来てしまっては、いくつになっても怒られてしまいそうです。

「私、あのとき寂しかったの。何でかは思い出せないんだけれどね。……二人とも、私の傍から離れてしまう気がして」

「それは、今初めて知ったなぁ」

英くんはまだ満杯のアイスコーヒーを飲んで、にっかりと笑いました。

「鏡花には口が裂けても言えないけどさ、僕も寂しかったんだよ。あの日は、失恋した日でもあったからね。ほら、あいつがさ――」

「久美ちゃん」

振り返ると、いつでも明るい笑顔の彼が居ました。

「一緒に帰らない? おれ今日友達が部活でさ、一人なんだ。駅の方向同じだよね」

涙袋で細められた優しい目を、暖かく感じました。薄暗い霧が嘘のように晴れて、ただ素直に感じました。この人と一緒に帰りたいと、自然に頬が緩みました。

振り返ると、英くんが私を観ていました。その隣にいる鏡花ちゃんが、ぐっと拳を握り、こくりと頷きました。可愛らしいエールに、勇気のあった行動に、励まされました。

今、私の傍には背中を押してくれる友達がいるのです。いつか、離れ離れになって、お互いのことを忘れてしまうのだとしても、今だけ、傍に居る人だけは忘れたくないのです。大切にしたいのです。後悔したくないのです。鏡花ちゃんのように、一歩踏み出したいのです。

「私も、大原くんと一緒に帰りたいって思ってたんだ」

さっきまでの寂しさを嘘みたいに吹き飛ばしてくれた彼は、私にとって、どれほど素敵でかけがえのない人なのでしょう。衝動的に気持ちを伝えれば、大原くんは目を丸くした後に、ふわりと笑いました。

「そーなの? 嬉しい」

だらしなく笑い合っていると、お互いの気持ちが通じているような気がしました。高鳴ったように胸が弾みます。――私は、彼のことを好きなのです。

「今となっては、なんにも言うことなんてないけどね。久美ちゃんとずっと幼馴染で居れて嬉しいし、鏡花との日々は本当に幸せだったから」

本当に、たくさん笑い合える日々でした。英樹くんも、愛おしそうに笑っています。目が横線みたいに細められて、目尻に見える幸せそうな笑い皺から、どれほど鏡花ちゃんを想っているのか伝わってきました。

そのうち届いたサンドイッチを食べて、フレッシュな野菜とカリカリのベーコンを味わいながら、幸せを噛み締めました。

忘れること、失っていくことは今でも恐ろしいです。もう英樹くんと何故カフェに居るのかもハッキリと思い出せませんが、今ある幸せを感じることだけはできるのです。

「そろそろ、帰ろうか」

窓の外は日が暮れて、オレンジ色になっていました。

今日は英樹くんと楽しくお喋りをしていた気がします。レシートには覚えのない注文が並んでいました。英くんにお金を取り出してもらって、会計を済ませてもらいました。

一緒に夕暮れ時の街を歩いていると、自然と足が弾んできました。彼に会いたいのです。

「今日は楽しかったよ。大原さん、また今度ね」

「また会いましょうね」

英くんに送ってもらって、家の扉を開けました。

「ただいま」

「おかえりなさい」

何気ない日常の挨拶を交わして、リビングに入ります。歳を重ねて、料理している娘の姿が、とても感慨深く感じました。いくら歳を重ねようと、世界中の誰よりも可愛い子です。

「葵、お父さんは?」

娘の手がピタリと止まりました。

「もう、何年も前に死んでるよ」

急に告げられた事実に、驚きました。信じられません。しかし、娘は嘘偽りのない凪いだ目で、じっと私を見つめていました。

「お母さん、お父さんの最期を忘れたんだ。……私のことは、さ。いつ忘れちゃうの?」

ふっと息が詰まりました。私が葵を忘れるなんてこと、信じられません。

「忘れるわけないじゃない」と、口に出すことができませんでした。溢れ出している感情に、思考に言葉がついて出ないのです。私は、英くんとも楽しく話せていたのでしょうか。

フォークで、小皿によそられている豚バラ炒めを口にいれます。ゆっくり噛むと、肉のうまみと野菜のほろ苦い美味しさを感じました。

「美味しいね」

「……そうだね」

娘は、静かに泣いているようでした。どうすればいいのか分からないのです。何があったのかも覚えていないのです。私の曖昧な頭のせいだったと思います。

記憶も時間もあやふやです。私が思う通りの言葉を、きっと、うまく出せていないのでしょう。それでも、自然と口から出てきました。

「もし、私が葵のことを思い出せなくなっても、忘れたわけじゃないよ。今までたくさん楽しいことがあって、幸せな日々があったのに……思い出せなくなるのは寂しいわ。でも、記憶を失っても、私自身を失うわけじゃないと思うの。私は思い出せないかもしれない、覚えてるようにも見えないかもしれないけど、ずっと、可愛い貴方のことが大好きだよ」

「……なにそれ。坂木さんと何か話したの?」

「ふふ。覚えてないけれど、楽しくて懐かしかった気がするの」

葵が零した笑顔の隣で、彼が同じように笑っている気がしました。記憶よりもずっと老けた顔で、でも、誰よりも美しい笑顔に変わりないのです。

これから失っていくものはたくさんあるのでしょう。今までにあった幸せが、全く思い出せなくなるかもしれません。それでも、たとえ思い出せなくなってしまっても、幸せな日々は決して消えないのだと信じています。

やがて、娘が私を思い出せなくなって、誰の記憶からも私の存在が消えたとしても、きっと不幸にはなりません。消えたと言われるほど細やかにでも、永遠に残り続けるものを……信じていたのです。きっと、最後まで残る大切なものを。

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永遠に残らないものと B太郎(青空色) @Soraironn

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