第13話 怪盗シュヴァリエの標的①

早朝の日差しが差し込む私室で、俺とエミリオは向かい合っていた。銀のティーポットから立ち上る湯気が、朝の静けさに溶けていく。アンティークの家具に磨き上げられた木目が浮かび上がり、窓の外では小鳥のさえずりが聞こえ、庭園の木々が柔らかな影を落としている。


「結局、ジュリアの件は中途半端なままだな」俺は深いため息をつきながら、エミリオの淹れた紅茶に口をつける。上質な茶葉の香りが鼻腔をくすぐる。「賭博組織の一件で時間を取られすぎた」


「ですが、何も収穫がなかったわけではありません」エミリオが言う。その整った横顔に朝日が差し込み、執事らしい冷静な表情を浮かび上がらせている。


朝刊に目を通しながら、俺は頷く。確かにジュリアが何かを探していた事を知れたのは収穫だ。それにブラッドリー親子の件を通じて、この世界の仕組みや人々の暮らしぶりは随分と理解できるようになっていた。貴族社会の厳格な序列、表と裏が交錯する社交界、そして科学と…どうやら魔術は無いようだ。


イメージに近いとすれば今流行のラノベの世界…って所だろうか。俺は所謂異世界転生小説の主人公…って所か?モリアーティなんて家ならひょっとして悪役令嬢とか?まぁそれにしては、アラサー男が令嬢転生ってのは随分とニッチな展開だと言わざるを得ないな。


…っと話が脱線しかけたな。いくつか収穫があったがそれでも、まだまだ手がかりは少ない。あの栞で見た過去視の光景が気になる。本を必死に探すジュリアの姿。『父上の研究室で見たあれと…』という彼女の言葉には、明らかな切迫感が滲んでいた。


「エミリオ」俺は紅茶を置きながら切り出した。手つきが少し荒くなり、受け皿がカチャリと小さな音を立てる。「父…つまりモリアーティ卿の研究室はどこにある?」


「セインティア王立学院です」エミリオは即座に答える。彼の声には、いつもの執事としての抑揚のない響きが戻っていた。「化学科の主任教授として、個人の研究室をお持ちです。近年は王立科学協会の重鎮としても知られ、研究費も潤沢に与えられていると聞きます」


「そうか…」俺は考え込む。窓から差し込む朝日が徐々に強くなり、部屋の影が少しずつ後退していく。「近々そちらも調べる必要があるな」


「そうですね」エミリオは淡々と答えるが、その表情からは僅かな躊躇いが覗いていた。「学院での調査となると、それなりの準備が必要ですね…」


「とりあえず今日もジュリアの事を追うつもりでいるんだが…」と、予定を告げようとした口を一度つぐんだ。新聞の社交欄から政治面へとページをめくると、大きな見出しが目に飛び込んできたのだ。


『怪盗シュヴァリエの新しい予告状!――美術展のティアラを頂きに参上』


「へぇ…怪盗…」俺は興味深げに記事に目を落とす。怪盗は流石に前世でもリアルでお目にかかったことはない。「犯行も、もう三件目なのか」


「はい」エミリオが紅茶を差し出しながら答える。「全て予告状通りの日時に盗まれるそうです。しかも面白いことに、盗んだ品の扱いが独特なようで」


「独特?」


「ええ。時には数日後に元の持ち主のもとへ返され、かと思えば別の貴族に譲られることもあるとか。予告状には、宝石に相応しい持ち主を見極めている宝石の守護騎士シュヴァリエデジュワイヨだと名乗っているそうで…そこから一般的には怪盗シュヴァリエと呼ばれているそうです。」


「それはまた何と言うか…」俺は言葉を選びながら続けようとした。


そのとき、部屋をノックする音が響いた。静かな私室に、慌ただしげな足音が近づいてくる。


俺の言葉が宙に浮く。その瞬間、執務室の扉が静かにノックされた。「ジュリア」と母の焦ったような声が聞こえ、エミリオが素早くドアを開けた。


朝の陽が差し込む廊下に、母の姿が浮かび上がる。普段は完璧に整えられた装いにも、今朝は僅かな乱れが見える。その表情には、明らかな動揺の色が浮かんでいた。


「お母様、どうなさったのです?」


「えぇとジュリア…その…」母の声が珍しく言葉を詰まらせる。上流貴族の夫人として完璧な立ち振る舞いを誇る彼女が、こんな様子を見せることは珍しい。「お客様がいらしてるんだけれど…」


「お客様?」俺は首を傾げる。朝一番からの来客は確かに異例だ。


「えぇ、ハドソン警部から紹介されたとの事で…」母は言葉を選ぶように間を置き、「グランフォード卿がお見えになっているのよ」と続けた。その声には、明らかな緊張が滲んでいる。


「グランフォード卿…?」


まだこの世界の全てを把握できているわけではない俺に、エミリオが小声で素早く説明を加える。彼の声は、誰にも聞かれないよう慎重に抑えられていた。


「セインティア王国外務省の高官で、近年その影響力を急速に高めている方です。貴族としての家柄も古く、特に芸術品の目利きとしても知られています」エミリオの声には普段の冷静さが欠けている。「社交界では誰もが一目置く存在でして、こちらから謁見を求めても容易には会えないような方なのです」


「おいおいあの人はどんな人脈を持ってるんだ…」思わず本音が漏れる。ハドソン警部の紹介とはいえ、こんな大物が朝一番に訪れるとは。


しかし…過去視で見た記憶を辿る限り、ジュリアは以前にも高位の貴族から依頼を受けていたはずだ。なのに母とエミリオの様子は、明らかに普段と違う。二人とも、どこか深刻な懸念を抱えているように見える。


訝しげな俺の視線に気づいたのだろう。エミリオは渋い顔をしながら、言葉を選ぶように口を開く。「…もれ聞こえてくる話では、卿は少し…気難しい方と…」


その言葉の先には、もっと深刻な何かが隠されているような気配があった。だが、エミリオはそれ以上を語ろうとはしない。


あぁなるほど。だからお母様もエミリオも心配しているのか。上流貴族特有の気難しさとやらを警戒しているわけだ。


「みなまで言わなくてもいい。大体想像はついた」と告げると、エミリオは「…はい」と言葉を濁した。その警告の意味を理解しつつ、俺は淑女らしく背筋を伸ばす。


これでも探偵時代、大人の扱いには十分すぎるほど慣れているのだ。政財界の大物から暴力団の幹部まで、年齢や地位に関係なく、見かけは立派でも中身は腐りきった連中と何度もやり取りしてきた。表向きは慈善家を装いながら、裏では違法な臓器売買に手を染めていた病院長。高級スーツに身を包み、優雅な物腰で依頼を持ち掛けてきたと思ったら、実は保険金詐欺を企んでいた実業家。取引所の重役という肩書を利用して、投資家から巨額の資金を騙し取っていた詐欺師。


そいつらの共通点は、皆一様に若造の探偵を見下してかかってきたことだ。だが結局は、その傲慢さにつけ込んで証拠を掴み、一人残らず警察送りにしてやった。ここは時代も場所も違えど、結局人間の本質は変わらない。上から目線で若い女性を軽んじようとする貴族だろうと、まあ似たようなものだろう。


だからこそ、相手の虚栄心を利用しながら必要な情報を引き出す。そんな駆け引きには、もう随分と慣れていた。


母の方を向き、最も淑女らしい――少なくともエミリオが納得しそうな笑顔を浮かべて告げる。「グランフォード卿をお通ししてください」


その声には、本来のジュリアが持っていたであろう凛とした響きを込めた。だが、母とエミリオの表情に浮かぶ懸念の色は、まだ完全には消えていなかった。

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