第12話 小さな依頼人⑥
夜半過ぎのセイント・ジェームズ通り。倉庫の窓からは黄色い灯りが漏れ、中からは賭け事に興じる人々の声が聞こえていた。
「全員動くな!警察だ!」
ハドソン警部の雷のような声が響き渡る。扉が勢いよく開かれ、制服姿の警官たちが一斉に倉庫内になだれ込んでいく。月明かりに照らされた警官たちのヘルメットが、金属的な光を放っていた。
「抵抗は無駄だ!全員、その場で手を上げろ!」
賭場の客たちが悲鳴を上げ、パニックに陥る。高価な背広に身を包んだ紳士たちが、慌てふためいて逃げ場を探すが、既に全ての出入り口は警官たちによって押さえられていた。
「くそっ!」
長身の男——取立て人の頭領らしき人物が、背後の非常口に向かって走り出す。だが、そこにも既に警官が待ち構えていた。
「動くな!」
男は一瞬躊躇したが、すぐに懐から何かを取り出そうとする。その動きを見逃さず、待ち構えていた警官たちが一斉に飛びかかった。
「おとなしく投降しろ!」
取っ組み合いの末、男は地面に組み伏せられる。金属的な音を立てて手錠がはめられる中、男は歯ぎしりをしていた。
倉庫の片隅、人目につかない場所で、俺とエミリオはその光景を見守っていた。
「計画通りですね」エミリオが小声で告げる。
「ああ」俺は頷く。
警官たちは手際よく現場を制圧していく。賭博の証拠品が次々と押収され、関係者が連行されていく。ハドソン警部は満足げな表情で、部下たちに指示を出していた。
そのとき、警部の視線が一瞬、俺たちの隠れている場所に向けられた。さすがは長年の刑事、暗がりに潜む人影を見逃さない。警部は部下たちに何か指示を出してから、さりげなく倉庫の片隅へと歩みを進めた。
「ブラッドリー氏からの情報提供は、組織の全容解明に大きく貢献しました」月明かりに照らされた警部の表情には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。「協力者として扱いますので、逮捕は見送ります。ただし、これからは表の商売に専念するよう、しっかり言い含めておきましたがね」
警部の声には厳しさの中にも温かみが混じっていた。賭博に手を染めたとはいえ、娘のために更生を誓った父親への情状を考慮したのだろう。
「それと」警部は意味ありげに付け加えた。「貴重な情報を提供してくれた"匿名の協力者"にも、よろしくお伝えください」
その言葉に、俺とエミリオは小さく頷いた。表立って動けない令嬢の立場を考慮してくれての配慮なのだろう。警部は軽く会釈すると、また部下たちの元へと戻っていった。
*
翌日の夕刻、俺たちはブラッドリー家を訪れていた。組織との一件は片付いたものの、これからの生活再建についてはまだ話し合う必要があった。エミリオが用意した返済計画の書類を手に、仕事場へと向かう。
店の看板には、まだ薄暮の光が残っていた。エマが俺たちの姿を見つけ、小さく手を振る。その表情には、昨日までの不安の影が嘘のように消えていた。
「お父さんなら中にいます」エマが丁寧にお辞儀をする。その仕草には、令嬢である"ジュリア様"への敬意と、救い手への感謝が込められているようだった。
仕事場に入ると、ブラッドリー氏は裁断台の前で佇んでいた。今までの借金の総額や、返済の見通しについて話を聞いていく中で、思いもよらない事実が明らかになった。
「エマの学費を使ったと?」
俺の声が、ブラッドリー家の仕事場に響き渡る。優雅な仕立て台の上には、完成間近のドレスが広げられ、その生地が月明かりを反射して淡く光っている。目の前のエミリオの書類には、妥当な分割返済の案と、店の売り上げを考慮した無理のない返済計画が記されている。だが、手持ち資金を確認する過程で発覚したこの事実には、さすがの俺も怒りを抑えられなかった。
「申し訳ございません…」ブラッドリー氏が、うなだれながら答える。「一度返済できれば、全て取り戻せると思ったんです…」
瞬間、ジュリアらしい物腰も、令嬢としての振る舞いも、全て吹き飛んだ。
「馬鹿野郎!」俺は怒鳴っていた。「子供の未来を賭けるってどういうことだ!てめえの尊厳はそれでいいかもしれねえが、娘の人生まで台無しにする権利はねえだろ!」
エミリオが愕然とした表情を浮かべている。エマは目を丸くして、突然豹変した"お嬢様"を見つめていた。
俺の怒鳴り声が仕事場に響き渡る。月明かりに照らされた仕立て台の上で、高価な生地が不吉に光っている。
「申し訳ございません…一度大きく勝てば…」
「計算もできねえくせに何考えてやがんだ!」
その怒声に、ブラッドリー氏が顔を上げる。エミリオが思わず一歩後ずさり、エマは小さく悲鳴を上げた。
「賭場の胴元はな、確実に儲かる確率でしか賭けを受け付けねえんだよ!おまえが勝つと思ってる時も、実は負ける確率の方が圧倒的に高いんだ!胴元は全部計算済みでやってんだよ!」俺は更に声を荒げる。
「初めは少し勝たせる。次も勝てると思わせる。そうやって大金をつぎ込ませて、最後は全部巻き上げる。それがあいつらのビジネスなんだ!金を取り戻そうとすればするほど、深みにはまっていく。おまえみたいな素人なんざ、最後は金も家族も全部吸い尽くされて、捨てられるんだ!」
「それは…」
「エマの学費は年間でいくらだ?」怒りに任せて畳みかける。「月々の返済額は?利息は?ちゃんと計算したのか?てめえの店の売り上げじゃ、何年かかっても返せねえ額だってことくらい分かるだろうが!」
ブラッドリー氏が答えられず、口ごもる。エミリオの顔が青ざめ、エマは震えながら壁際に寄り添っていた。
「やっぱりな。計算もせずに賭け始めやがって。こんなことを続けてりゃ、店も家も全部失う。娘の未来まで消えちまうんだぞ!おまえはそれでもいいのかよ!」
一つ一つ現実を突きつけるたびに、ブラッドリー氏の顔が土気色になっていく。
「お嬢…様?」エミリオが小さな声で呼びかける。
その声に我に返り、俺は深いため息をつく。令嬢の立場で来ているはずなのに、すっかり素が出てしまった。
「申し訳ありません」慌てて声を作り直す。「でも、本当にお考えいただきたいのです。エマさんの未来を…」
「お父さん…」
小さな声が響く。エマが一歩前に出て、震える声で言った。
「ジュリア様の言う通りです。私…私もお父さんのことが心配だった。夜、お酒を飲んで帰ってきて、怖かったの…」
エマの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。幼い顔には不安と悲しみが浮かんでいたが、それでも前を向こうとする強さが垣間見えた。
「お父さん」エマは泣きながらも、必死に父親を見つめる。「お願い…もうお賭け事はしないって約束して。私、お小遣いも使わないから…」
その純粋な言葉に、ブラッドリー氏は打ちのめされたように深くうなだれた。
「エマ…」彼の声は掠れ、肩が小刻みに震えていた。「約束する…もう二度と、こんな馬鹿なことはしない。お前に心配をかけて、本当にごめんな…」
エミリオが静かに咳払いをする。「では、これからの返済計画について…」
その言葉を合図に、場の空気が少しずつ和らいでいく。月明かりに照らされた仕事場で、失われかけた親子の絆を取り戻すための話し合いが始まろうとしていた。
(まったく…)俺は内心で溜め息をつく。(令嬢の仮面が外れちまったな…)
エミリオの視線が痛い。後で説教されるのは間違いないだろう。だがそれも、この結果を見れば受け入れられそうだ。父娘の間に流れる静かな涙が、それを物語っていた。
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