第11話 小さな依頼人⑤
「お母様、お願いがございます」 朝食をとりながら、俺は最も淑女らしい—少なくともエミリオが合格点をくれそうな表情で切り出した。銀食器が触れ合う静かな音が響く中、母の視線が向けられる。
「まあ、珍しいわね」母は優雅にナプキンで口元を押さえながら微笑む。「どんなお願いかしら?」
「最近、慈善活動に興味を持ち始めまして」俺は慎重に言葉を選ぶ。過去視で見たジュリアの記憶を頼りに、彼女らしい話題を選んだ。「特に、貧困層の子供たちの教育支援について…」
母の表情が明るく輝く。「素晴らしいわ!社交界デビューを控えた令嬢として、そういった意識を持つのは大切なことよ」
その反応に、俺は内心でほっと胸を撫で下ろす。エミリオと練った作戦は、上手く的を射たようだ。
「それで、明後日のレディ・アシュトンの茶会に、私も同席させていただけないかと…」
「ええ、もちろんよ」母は嬉しそうに頷く。「ちょうど良い機会だわ。バートン伯爵夫人も教育支援に携わっていらっしゃるの。ご紹介させていただくわ」
*
レディ・アシュトンの豪邸で開かれた茶会。シャンデリアの柔らかな光が高価な食器を照らし、上品な会話が優雅に響く中、俺は華やかな社交の場に身を置いていた。エミリオの特訓の成果か、背筋を伸ばし、カップを持つ角度も、ドレスの裾さばきも、なんとか様になってきている。
「ジュリア、こちらへいらっしゃい」母の声に振り向くと、初老の貴婦人が立っていた。気品のある銀髪を優美に結い上げ、深い紫のドレスに身を包んでいる。「こちらが、先日お話したバートン伯爵夫人よ」
「はじめまして」俺は丁寧にお辞儀をする。「ジュリア・モリアーティと申します」
「まあ、噂通りの可愛らしいお嬢様」伯爵夫人は慈愛に満ちた笑みを浮かべる。「教育支援に興味をお持ちと伺って…」
会話が進む中、俺は時折シュガーポットや茶器に触れては、さりげなく過去の断片を拾い集めていく。社交界の噂話は、往々にして重要な情報源となる。特に、この数週間で増えているという若い貴族たちの派手な出費について。
「ヘンリー様の件、心配ですわ」ある夫人の囁くような声が耳に入る。「まだお若いのに、あんな商会で…」
俺の耳が自然と捉えた会話に、"商会"という言葉が含まれていた。
「ああ、インペリアル・マーケットのことですか?」別の夫人が口を挟む。その声音には明らかな懸念が滲んでいる。「うちの甥も最近、よく出入りしているようで…」
さりげなくテーブルクロスの端に触れる。するとその布地から、別の場所での会話の断片が浮かび上がった。 ——「インペリアル・マーケットは表の顔。裏では…」「ダウンズ地区の、あの建物で…」「取立ての噂も…」——
俺は慈善活動の話題に興じながらも、その情報を着実に記憶に刻んでいく。エミリオの姿が視界の端に映る。彼もまた、執事としての完璧な立ち振る舞いの中で、確実に情報を集めているはずだ。
茶会を終えて馬車に乗り込んだ時、俺たちの間で暗黙の了解が交わされた。標的は絞られた。
*
「衣装の準備は出来ております」
翌日の夕刻、エミリオは俺の私室に一式の男装を持ち込んでいた。ズボンに上着、そして帽子。全て極力目立たない色合いで、しかし上質な仕立ての品々だ。
「エミリオが選んでくれたのか?」
「いいえ」エミリオは真面目な表情で答える。「…お嬢様ご自身でお選びになっていたものです」
その言葉に、俺は目を見開いた。
エミリオは言葉を選びながら続ける。「非常時の為とおっしゃって。もちろん私は大反対だったのですが」
「なるほど」俺は納得する。この少女には、表の顔からは想像もつかない一面があったようだ。「彼女の力を借りることにしよう」
着替えを済ませ、鏡の前に立つ。サイズは…まぁ本人が選んだのだから当然ぴったりだ。エミリオもまた、執事服の代わりに質素な上着姿となっている。
「計画の確認を」エミリオが低い声で切り出す。
「まず、建物の下見は済んでいます」エミリオが手帳を開きながら説明を始める。「表の入り口には常時3名の警備。裏手には使用人用の出入り口が2箇所。日没後、客の出入りが急増します」
「見取り図は?」
エミリオが丁寧に描かれた図面を広げる。「1階は取引所としての体裁を整えた事務所。2階以降が実際の賭場となっているようです。特に注目すべきは…」彼が図面の一角を指す。「この倉庫部分です。夜間、取立て人たちの たまり場になっているとの情報が」
「帳簿はそこか」
「可能性が高いですね。ただし…」エミリオの表情が硬くなる。「かなり危険です。もし見つかれば——」
「大丈夫だ」俺は帽子を被りながら告げる。「お前を信じている」
エミリオが僅かに目を見開きつつ、苦虫を嚙み潰しながらも評価されたという喜びが混ぜこぜになりなんとも言えない表情を作りながら答える。
「…全力を尽くしましょう」
*
夜の街は昼間とは違う顔を見せていた。裏路地に潜む俺たちの姿は、もはや令嬢と執事のそれではない。俺は男装の装いで、エミリオは執事服を別の上着に着替えていた。
建物の裏手から、男たちの怒号が聞こえてくる。
「おい!約束の期限は今日までだろう!」
息を潜めて様子を窺うと、男たちに囲まれた壮年の男性の姿が見えた。月明かりに照らされた彼の表情には、深い疲労が刻まれている。
「も、もう少しだけ…!」
「ああ?てめぇ、前回も同じこと…」
俺は路地の物陰から、取立ての現場を見守る。エミリオが緊張した面持ちで俺の横に控えている。取立て人の手にある帳面が、月明かりに照らされて光ったのが目に入った。なるほど、今日はついているようだ。
「エミリオ」俺は小声で告げる。「例の作戦を」
「心得ました」エミリオの声が冷たく響く。
まもなく建物の表側から、酔っ払いの喧嘩めいた怒声が響き渡る。取立て中の男たちが咄嗟に振り向く。
「なんだ?」 「見てくる!」
男たちが表に向かって走り去る。絶妙なタイミングの陽動だった。酔っ払い二役を一人で演じきるエミリオの力…侮れないな。
さてさて…残されたのは帳面を持った男一人。
「あの…お兄さん」
背後から、俺の出せる精一杯の可愛らしい少女の声で男に声をかける。男が振り向きかけた瞬間、帳面を持つ手が僅かに緩んだ。その一瞬の隙を逃さない。
俺は素早く首筋を狙う。この少女の体でも、正確な急所を押さえれば十分な効果がある。指先に伝わる感触と共に、男の体から力が抜けていく。
「っ…」
短い呻き声を漏らし、男がおもちゃのように崩れ落ちる。俺は手から零れた帳面に素早く手を伸ばし、革装の表紙を掴む。
取り残された壮年の男が、目の前で起こった出来事を理解できず呆然と立ち尽くしていた。恐らく取立ての対象だったのだろう。月の光が、彼の疲れ切った表情を照らし出していた。
「君は…」疑惑と困惑の入り混じった声。
「家に帰れ」おっと、令嬢らしからぬ低い声が出てしまったが…まぁこのシーンには最適だろうと言葉を続ける。「もうすぐ全て終わる」
男が困惑した表情を浮かべる前に、俺は帳面を胸に抱え、来た時と同じ路地の闇へと姿を消した。
予定通り三本先の路地で、建物の影に隠れるようにしてエミリオと合流する。街灯の光が届かない場所で、彼は既に俺を待っていた。
「無事でしたか?」エミリオの声には珍しく緊張が解けたような安堵が混じっている。
「ああ。お前の陽動のおかげだ」
「いいえ…できる限りをしたまでです」
月明かりの下、俺は革装の帳面を開く。ページをめくる音だけが静かな夜に響く。整然と並んだ文字の行が、月の光に照らされて浮かび上がる。
「帳面は、取立ての記録で間違いなさそうだ」俺は丁寧にページを確認していく。「日付、金額、そして…」
その瞬間、帳面の革表紙に触れた指先から、鮮明な映像が浮かび上がった。
——薄暗いランプの明かりだけが灯る事務所。深夜、机に向かう男が几帳面な字で記録をつけている。「今月の収益は予定以上だ」と呟く声に、ペンを走らせる音が重なる。
男は新しいページを開く。「次回の開催は今日の深夜…セイント・ジェームズ通りの裏倉庫で」メモを取る手が素早く動く。「上流階級の客を何人か誘えそうだ。今回は大きな魚が釣れる…」
彼の背後の壁には、街の地図が貼られていた。商店街、住宅地、そして社交界の区画まで、細かく区分けされている。赤い画鋲がいくつも刺さり、そこに被害者たちの名前が記されている。ブラッドリーを含む多くの被害者たちの情報が、まるで事業計画書のように整然と並んでいた——
「…これだ」俺は息を呑む。「今日の深夜、セイント・ジェームズ通りの裏倉庫。次の賭博場の開催場所だ」
「!…まだ間に合いますね」エミリオの声には確信が滲んでいた。
「ああ」俺は帳面を閉じる。月明かりが金具を照らし、今度は希望の光のように輝いて見えた。「これだけの情報があれば、ハドソン警部も動けるはずだ。」
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