第10話 小さな依頼人④

エミリオと共に屋敷に戻った俺は、私室で深いため息をついた。窓の外では月明かりが庭園の木々を照らし、夜風に揺られた葉が銀色に輝いている。先ほどまでの緊張から解放され、この少女の体に疲れが押し寄せてくる。立ち続けていた足が僅かに震え、ドレスの裾が床に触れる音が静かに響いた。


「温かい紅茶をお持ちしましょうか」エミリオの声は冷静で、いつもの如く感情を押し殺したような響きを帯びている。


「ああ、頼む」


エミリオは無表情のまま、淡々と給仕台へ向かう。銀の器具が触れ合う音と、茶葉の香りが静かな部屋に広がっていく。紅茶を淹れる所作は完璧で、その動きには無駄が一切ない。その音色のリズムに耳を傾けながら、俺は今夜見聞きした情報を整理していた。


「やはり、あれは違法な賭博場だな」優雅な装飾が施された紅茶カップを受け取りながら俺は言う。香り立つ湯気が立ち上る。「公営カジノなら、あんな取立て方はしないし、エマの聞いた『警察を呼んだらどうなるか、分かってるよな』というのもそうだ」


「警察に頼れば…」エミリオの言葉には、解決策を探る試みが込められていた。だが、その声は途中で途切れる。彼も既に答えを理解しているようだった。


「警察に通報すれば、確かに賭場は摘発される。だが同時に、ブラッドリー氏も逮捕されることになる」俺は紅茶に映る自分の姿—ジュリアの姿を見つめながら続ける。「彼の身から出た錆ではあるが…わかっていてみすみす女の子を泣かせる必要もない」


「それに…」エミリオが真剣な面持ちで付け加える。その整った眉が僅かに寄せられる。「下手に警察が介入すれば取り立て屋たちの報復も考えられます」


「ああ…エマを危険に晒す可能性もある」


深い静寂が部屋を包む。暖炉の炎が揺らめき、壁に揺れる影を作る。エミリオがゆっくりと、まるで言葉を選ぶように口を開く。「では、どうされます?」


「潰す」俺ははっきりと告げた。ドレス姿の少女が、そんな言葉を発するという違和感を覚えながらも、声に迷いはなかった。「報復の余地をなくす程度に潰す。警察にも下手に介入させるのではなく、根こそぎ叩かせる」


エミリオの表情が驚きに染まる。普段は冷静な執事の面構えが、一瞬崩れるのが見えた。


「ですが…」エミリオが心配そうに声を潜める。月明かりに照らされた彼の横顔には、明らかな懸念が浮かんでいる。「それは…かなり危険なのでは?」


「危険だろうな」疲れているからだろうか、お嬢様らしくは無い仕草をしながらも答える。「だからこそ、慎重かつ大胆に物事を進める必要がある。賭場の場所の特定、組織の構造を把握、それから証拠を集めて、一気に潰す」俺はエミリオの瞳をまっすぐ見つめる。「勿論、協力してくれるよな」


エミリオは暫し黙考の後、深いため息をつく。「…承知いたしました…お手伝いさせていただきます」その表情には、諦めと少しの熱意が交錯していた。



翌朝、警察署に向かう馬車の中で、俺はジュリアらしい振る舞いを確認していた。エミリオの厳しい指導の成果か、少しずつ体が覚えてきている。


「ハドソン警部、おはようございます」 応接室に通されると、警部は驚いたような表情を浮かべた。 「これは珍しい。ジュリア嬢から直接ご相談とは」


「ええ」俺は淑女らしく微笑む。「最近、興味深い噂を耳にしまして」


警部の表情が僅かに引き締まる。社交界の令嬢が持ち込む"趣味"の相談は、往々にして重要な情報源になることを、彼は知っているのだろう。その視線には、期待と警戒が混ざっていた。


「お名前は差し控えさせていただきますが…」俺は慎重に言葉を選ぶ。椅子に深く腰掛け、スカートの皺を丁寧に整えながら続ける。「ある紳士の賭博癖について相談を受けましてね。その方、どうやら違法な賭場に出入りされているようなのです」


「違法な賭場、ですか」 警部が身を乗り出してきた。分厚い机の上に置かれた書類の山が、その動きで僅かに崩れる。


「実は我々も最近、そういった情報を追っているところでして」警部の声には、普段の穏やかさが消えていた。


「まあ」俺は巧まずして驚いたような声を上げる。淑女としての所作を意識しながら、軽く扇子で口元を隠す。「ひょっとして…ダウンズ地区周辺の…?」


「ご存じなのですか!?」 警部の声が一気に真剣味を帯びる。椅子から半分立ち上がるような勢いで、分厚い手のひらを机に着く。「確かにあの辺りで違法な賭博組織が暗躍しているという情報は掴んでいるのです。しかし、なかなか決定的な証拠が…」


その口調には、長年の捜査で積み重なった焦りが滲んでいた。


「決定的な証拠、と仰いますと」俺は考え込むような仕草を見せる。視線を宙に漂わせ、まるで思い出すように首を傾げる。「例えば…もし賭場の具体的な場所や、取立ての証拠、賭博帳簿のようなものがあれば…?」


「あれば即刻動きます」 警部の声が低く、しかし力強く響く。机の上のコーヒーカップが、その声に共鳴するように小さく震えた。


「必ず摘発します。それだけは保証させていただきます。我々も、あの組織には相当の恨みがありましてな…」警部の拳が強く握られる。その表情には、単なる職務を超えた、強い使命感が浮かんでいた。だが、すぐに深いため息をつく。


「ですが…」警部は肩を落とし、窓の外を見やる。「問題は、そういった証拠を合法的に入手する方法が見つからないことです。こんなことを申し上げるのは心苦しいのですが、我々警察には様々な制約がありまして…」


「なるほど」俺は頷く。警部の言葉の端々から、違法賭博組織の摘発には具体的な証拠が必要なこと、そしてそれを入手する正当な手段に警察が苦心していることが読み取れた。しかし同時に、確かな証拠さえあれば、警察は躊躇なく動くという確信も得られた。


警部の言葉には偽りがない。彼の瞳に宿る正義感は、決して演技ではなかった。今必要なのは、警察が動ける "きっかけ" を作ることだ。


警察を後にした俺は、人気の少ない路地裏へと足を向けた。そこには、別ルートで情報を集めていたエミリオが、影のように佇んでいた。あたりには誰もおらず、二人の会話が漏れる心配はなさそうだ。


「どうだった?」


「はい」エミリオは周囲を一瞥してから、声を潜めて報告を始める。「社交界の情報によると、最近ダウンズ地区で新興の賭博組織が暗躍しているとのこと。特に気になるのは…」


エミリオは言葉を選ぶように一瞬の間を置き、更に声を落とす。「ある伯爵家の息子が、そこで莫大な借金を作ったという噂です。ブラッドリー氏と同じように、取立てに困り果てているとか」


「組織の規模は?」俺は壁に寄り掛かるようにして、さりげなく周囲を確認する。


「かなり大きいようです」エミリオは燕尾服の胸ポケットから、几帳面に折られたメモを取り出す。「複数の賭場を運営し、上流階級の客も多いとか。特に最近は、商人から貴族まで幅広い階層から客を集めているようです」


メモに目を通しながら、エミリオは更に続ける。「ただし、表向きは別の商売を装っているようで…商会の名を借りて、取引所として体裁を整えているとか」


「なるほど」俺は考え込む。遠くで馬車の車輪が石畳を打つ音が響く。単なる街角の賭場ではなく、組織的な違法賭博の存在が浮かび上がってきた。しかも、その規模は予想以上だ。


「どう動きますか?」エミリオの声には、僅かな緊張が滲んでいた。いつもの完璧な執事の仮面の下に、微かな懸念が覗く。


「まずは賭場の場所を特定する」俺は決意を込めて言う。この少女の体で動くことへの不安は確かにある。だが、今はそれを考えている場合ではない。「それから、組織の弱点を探る。一気に潰すためには、それだけの準備が必要だ」


「エミリオ」俺は静かに告げる。「社交界の集まりで、賭け事に関する噂を集めてくれ。特に、借金を抱えた貴族の情報を。あいつらの得意な手口と、客を引き込むルートが見えてくるはずだ」


「承知いたしました」エミリオが頷く。そして間髪入れず俺に忠告をしてきた。「ですが、くれぐれも危険な…」


「ああ、わかってる」俺は微笑む。「勝手に動いたりはしないよ」その言葉に安堵したような気配がひしひしと伝わってくるのが面白い。


「因みに…」俺は何気ない口調を装いながら尋ねる。「この情報は、どこから?確かに聞ける範囲で情報を集めて欲しいとは言ったが、ここまで詳しい内容だとは…」


エミリオの表情が一瞬、固まる。


「これは…」言葉を紡ぎかけたエミリオは、一瞬考え込むような表情を見せる。そして、いつもの執事らしい完璧な笑みを浮かべながら、丁重に言葉を選んで続けた。


「申し訳ございません。下手にお伝えして、危険な橋を渡る道具にされては困りますので」


「まるで危ないからとおもちゃを取り上げる親みたいだな」俺は思わず吹き出す。少女の声で放たれた皮肉に、自分でも違和感を覚えた。


エミリオは真面目な顔で頷く。「あながち間違いではございませんね。現状のあなたは、まさに危なっかしい子供のよう…」


「おい」


「失礼、訂正させていただきます。危なっかしい"お嬢様"のようですので」


「それはそれで失礼じゃないか」


いつになく軽口を叩くエミリオに、俺は思わず苦笑する。彼なりの気遣いなのか、それとも本心からそう思っているのか。月明かりの下、彼の横顔には珍しく柔らかな笑みが浮かんでいた。

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