第9話 小さな依頼人③

ふと少女の頭に視線を向けると、金色の巻き毛に真っ青な絹のリボンが揺れていた。


「エマ、この髪飾りとても素敵ね」俺は少女の髪を留めているリボンに目を向ける。上質な絹製のリボンは、エマの金色の巻き毛に優美なアクセントを添えている。「少しずれているわ。直したいから触れても構わない?」


エマが小さく頷くと、俺は優しく手を伸ばす。リボンに指が触れた瞬間、映像が浮かび上がる。


——薄暗い仕事場。裁断台の上には高級なシルクやカシミアの切れ端が散らばり、壁には完成した上質な背広が何着も掛けられている。仮縫いの途中らしい婦人用ドレスがマネキンに着せられ、その周りには値の張りそうなレースや飾りボタンが並ぶ。


窓から差し込む夕暮れの光の中、裁断台に両手をつき、一人うなだれる中年の男。上質な白いシャツの袖はまくり上げられ、手には一通の手紙を握りしめている。疲れた表情で手紙を見つめ直すと、その手が震え始める。


「どうすれば…」掠れた声が静かな仕事場に響く。


男は深いため息をつくと、仕事台の引き出しを開ける。中からは同じような脅迫めいた手紙が何通も出てくる。封筒の角は恐れるように握りつぶされ、インクは怒りに任せて強く押し付けられたかのように滲んでいる。手紙の束を前に、男の肩が一層深く落ち込んでいく——


過去視の映像から意識を引き戻すと、目の前には不安げな表情のエマがいた。その小さな肩が、微かに震えているのが分かる。


「お父様の店、教えてくれる?」俺は出来る限り柔らかな声音で尋ねた。ジュリアらしい物腰を意識しながら、少女の目をまっすぐ見つめる。「心配だから、様子を見に行ってあげたいの」


エマは一瞬躊躇したものの、俺とエミリオの立ち振る舞いに安心したのか、小さな声で答えた。「メイフェア通りの角です。『ブラッドリー・テーラー』という看板が出ています。白と金の…」


その声には、父親を案じる気持ちと、誰かに頼れる安堵感が混ざっているように聞こえた。


エミリオと共に少女を自宅まで送り届けた後、人気の少なくなった街角で俺たちは作戦を立てることにした。


「今夜、店の様子を見に行こう」俺は提案する。「”見えた”様子からはあまり悠長にしている時間は無さそうだ」


エミリオは俺の横顔を見つめ、一瞬の躊躇を見せる。


「…承知いたしました」彼は同意の言葉を告げたが、すぐに一言付け加えた。「ですが、危険は必ず避けていただきたい。そのお身体で無理はなさらないように」


「わかってるって」相変わらずのお嬢様第一主義の反応に小さく笑う。「俺だって痛いのは嫌だからな。探りを入れるだけだよ」


その言葉に、エミリオは複雑な表情を浮かべた。主の姿をした元探偵の軽口に、どう反応すべきか迷っているようだった。



夜の街は、昼間とは違う顔を見せる。ガス灯の明かりが石畳の上で揺らめき、かすかな霧が路地を包んでいた。


俺たちは『ブラッドリー・テーラー』の向かいの路地に身を潜めていた。店内には明かりが灯り、ブラッドリー氏の影が窓に映っている。上質な背広を着た紳士らしい佇まいだが、その肩は明らかに疲れで垂れ下がっていた。


「来ましたね」エミリオが小声で告げる。


黒づくめの三人組が店に入っていく。見た目からして、エマの言っていた「怖い人たち」に間違いない。長身の男が先導し、他の二人が両脇を固めるその歩き方には、明らかな威圧感が滲んでいた。


店内の様子は窓越しに見える。ブラッドリー氏が深々と頭を下げ、懇願している様子が見える。だが男たちは冷たく首を横に振り、脅迫めいた雰囲気が漂っていた。


しばらくして男たちは店を後にした。その足取りには余裕が滲み、深い闇の中へと消えていく。

「さて」俺はドレスの裾を少し持ち上げ、スカートの隠れた位置から細い針金を取り出した。「裏口から中に入るぞ」


エミリオが絶句したような表情を浮かべる。「…それは」


「探偵の必需品だ」俺は手慣れた様子で裏口の鍵に針金を差し込む。ふと手を止め「俺の所じゃ違法だったけどここでも違法か?」


「…少なくともご令嬢が持っていていい技術ではないでしょうね」エミリオは呆れたように溜め息をつく。


「まぁ必要な場合も結構あるし…な。ほら、これを少しこうして…」


カチリ、と小気味の良い音が響き、錠が外れた。


エミリオは深いため息をつく。その表情には「こんな危険な真似をさせるわけにはいかない」という執事としての責務と、「この状況では仕方ない」という現実的な判断が交錯していた。


「文句は後だ」俺は静かにドアを開ける。


薄暮の中、二人は静かに店内に足を踏み入れた。仕事場は静まり返り、マネキンたちが月明かりに照らされて不気味な人影を作っている。高級な生地が積み重ねられた裁断台の上で、はさみが月光を冷たく反射していた。


「ブラッドリー氏はいないようですね」エミリオが小声で告げる。「寝室に戻られたのかもしれません」


俺は頷きながら、先ほどの男たちが立っていた場所に目を向けた。そこには婦人用のドレスを纏ったマネキンが佇んでいる。優雅なシルエットのドレスは完成間近のようで、細かな刺繍が施された生地が月明かりに浮かび上がっていた。


「ここなら、さっきの会話が見える」


俺はそっとマネキンに手を触れる。途端、過去の映像が鮮明に浮かび上がった。


——「もう限界だぜ、ブラッドリー」長身の男が低い声で告げる。「先月からの分も含めて、70万クラウンってのは流石に…」


「も、申し訳ありません…」ブラッドリー氏が震える声で答える。「今度こそ必ず…あと一回だけチャンスをください…」


「ふん、『今度こそ』『あと一回』か。お前それ、この三ヶ月で何回目だ?」男が嘲るように笑う。「高級店の仕立て屋が、毎晩賭場に入り浸るってのもな…」


「次は…次は必ず!あの手札なら勝てたはずなんです!」ブラッドリー氏の声が興奮を帯びる。「もう一度あの状況になれば…!」


「いいかげんにしろ」男の声が冷酷さを増す。「取り立ては手段を選ばねぇぞ。娘さんもいたよな?」

その言葉にブラッドリー氏の表情が凍りつく。「ど、どうか…もう一週間だけ…!」


「チッ、しょうがねぇ」男が舌打ちする。「来週、最後の猶予だ。それまでに用意できねぇなら…」——


映像が途切れ、俺は目を見開いた。「エミリオ…ここでギャンブルは適法なのか?」


「公営のカジノは適法です」エミリオが静かに答える。「ですが、それ以外の場所での賭博行為は全て違法となります」


「そうか…」


その時、二階から物音が聞こえた。ブラッドリー氏が動いたのか、軋む床の音が響く。


「一旦引きましょう」エミリオが俺の肩に手を置く。「これ以上ここに留まるのは危険です」


俺は頷き、来た道を静かに引き返した。


「あちらでも似たような依頼があったなぁ…夫のギャンブル依存で家庭が崩壊しかけてて、子供たちが可哀想だったっけ」小さく呟きながら溜息をつく。「ここでも同じようなものか…人間は変わらないな」

ギャンブル依存に陥った仕立て屋と、その弱みに付け込む男たち。そして、翻弄される幼い娘。どの世界でも、結局人は似たような過ちを繰り返すものなのだろう。

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