第8話 小さな依頼人②
窓越しの光景に、俺とエミリオの視線が向けられた。小振りの水色のドレスに白いレースの襟、磨き上げられた黒の靴、整えられた金色の巻き毛—可愛らしい
その姿は何かを、いや誰かを追いかけるように足早に進んでいく。時折後ろを振り返る仕草には、明らかな緊張が滲んでいた。
「これは…」俺は栞を静かにエミリオに返しながら、声を潜める。
店主に会釈すると、俺たちは素早く店を出た。温かな日差しが差し込む通りに出ても、少女の後ろ姿はまだ見えている。その先には、徐々に立ち並ぶ建物の趣が粗末になっていく路地が続いていた。漆喰の剥がれた壁、錆びついた雨樋、すり切れた暖簾—そんな景色の中を、あまりにも場違いな少女が歩いていく。
「この辺りは…」俺は小声でエミリオに告げる。空がどんなに晴れていても、あの路地の先には陽の光が届かないように見える。
エミリオの整った眉が、珍しく強く寄せられる。「ここから先は、ダウンズ地区です。昼間とはいえ、子供一人で…」その声には、明らかな懸念が滲んでいた。
「声をかけよう」俺は決意を固める。このまま見過ごせば、取り返しのつかないことになるかもしれない。
石畳の上を小刻みに進む短靴の音が、次第に遅くなっていく。俺たちは数軒先で立ち止まった少女に追いついた。路地の曲がり角で、彼女は何かを探すように首を伸ばしている。
「あの」俺は最も淑女らしい—少なくともエミリオが納得しそうな声音で話しかけた。「お嬢さん?こんな所を一人で、どちらへ?」
かちゃり、と靴の音が鳴る。少女が振り返った拍子に、その巻き毛が陽の光を受けて輝く。だが、その表情には、警戒の色が浮かんでいた。
立ち尽くす少女の背後では、錆びた看板が軋むような音を立て、その影が少女の小さな影と重なる。この場所の空気が、どれほど彼女に似つかわしくないかを、その光景が物語っていた。
少女は一瞬、怯えたような表情を見せる。だが、俺とエミリオの服装を確認すると、少し安心したように肩の力を抜いた。上品な装いの「お嬢様」と、黒燕尾服の執事—その組み合わせは、彼女にとって見慣れた安心できる光景だったのかもしれない。
「お母様やお父様は?」俺は更に柔らかな声音で問いかける。この数週間、エミリオの指導の下で淑女らしい話し方を必死に練習してきた成果が、少しは出ているはずだ。
少女は言葉を濁す。「あの…その…」
「お名前は?」と尋ねるが、少女は怯えたように首を振るばかりだ。探偵としての経験が告げている——この反応は単なる警戒心ではない。何か、言えない理由があるのだと。
エミリオが一歩前に出て、静かに進言する。「このような場所での長居は危険かと。警察に言って警部殿に相談を——」
「だめ!」
突然の強い声に、俺とエミリオは驚いて少女を見つめる。先ほどまでの怯えた様子が一転、必死の形相で叫ぶ。
「警察には…!」その声には、単なる恐れを超えた切迫感が滲んでいた。
この反応に俺は一瞬、過去の捜査で出会った被害者たちの顔を思い出す。いつも、追い詰められた人間はこうして警察を拒絶する。何者かに脅されているのか、それとも家族が危険に晒されているのか——。アラサー探偵の経験と勘が、様々な可能性を示唆していた。
「…私は探偵よ。警察とは違う。もしかしたら、力になれるかもしれないわ」言いながら、俺は意図的に柔らかな微笑みを浮かべる。男性的な物腰が出ないよう、エミリオから教わった通りの立ち振る舞いを心がけた。
少女は、ためらいがちに俺たちを見上げる。その瞳には、まだ警戒の色が残っている。「…本当に警察には言わない?」
「ええ、約束するわ」俺は静かに頷く。この手の約束は軽々しく交わすべきではないが、今は彼女の信頼を得ることが優先だ。
「…私、エマ・ブラッドリーといいます」少女は小さな声で名乗る。「私のお父さん…」エマは震える声で語り始める。小さな手が、ドレスの裾を無意識に握りしめている。「最近、変なの。知らない人たちと会って、夜遅くまで帰ってこなくて…」
「知らない人?」俺は追及するような口調を避け、さりげなく問いかける。
「黒い服を着た…なんだか怖そうな人たち…」エマの声が更に小さくなる。「お父さんは、いつもは素敵なドレスや服を作ってるの。私のこのドレスも、お父さんが作ってくれたの」
エマは自分の水色のドレスの裾を少し持ち上げて見せる。確かに、生地の質や縫製の技術は一流の仕立て屋のものだ。
「でも最近は…」エマの表情が曇る。「お店で服も作らないの。夜遅くまでお酒を飲んで、手紙を見ては困ったような顔をして…」
少女の声には不安が滲んでいた。「それに、前は優しいお客様ばかりだったのに。今は怖い人たちがお父さんのところに来るの。大きな声で話して…」
エマは周囲を気にするように視線を走らせ、更に声を潜める。「この前…聞こえちゃったの。その人たち、お父さんに『警察を呼んだらどうなるか、分かってるよな』って…」
その言葉を思い出すだけで怯えるように、エマの肩が小さく震える。「お父さん、その時すごく怖い顔してて…それから最近は、全然笑わなくなっちゃって…」
言葉の端々から、平穏だった日常が徐々に崩れていく様子が浮かび上がる。俺は内心で歯噛みする。
エミリオが俺の耳元で囁く。「あまり、深入りはなさらないようにしてください」警告めいた響きの声。既にジュリアの件で手一杯な上に、警察を介入させずに危険な事態に首を突っ込もうとしているのを、諫めようとしているのだろう。
「なに言ってんだ、エミリオ」俺は小声で返す。つい男言葉が出てしまうが、抗議の為なのだからこの場合は最適だ。「こんな小さな子を放っておくのか?お前のお嬢様は、そんな冷たいお方だったか?」
過去視で見た記憶では、ジュリアは困っている人を前にすると必ず手を差し伸べていた。それは時として周囲を困惑させるほどの情熱を持って。
「まさか!」エミリオの声が思わず大きくなる。普段の冷静な執事の仮面が崩れ、ジュリアの名誉を傷つけられたことへの激しい反発が露わになる。「お嬢様は決して…!」
エマが不安そうに俺たちを見つめている。エミリオは自分の取り乱しに気づき、慌てて咳払いをすると、執事らしい威厳を取り戻した。「申し訳ありません」
(ジュリアのことになると冷静さを欠くな…)俺は内心で苦笑する。だが、この妄信的なまでの忠誠心があるからこそ、彼は今動かせる最高の協力者でもある。
「エマ、あなたのお父様のことも、必ず調べるわ」俺は少女の目をまっすぐ見つめる。探偵として、そして今はジュリアとしての約束だ。「だからお約束よ。これからは危ない場所に一人で来ちゃだめ。いい?」
エマはこくりと頷く。その仕草は、年相応の愛らしさを感じさせた。この表情を守るためにも、早急に行動を起こさなければ。だが、エミリオの懸念も正しい——警察に頼れない以上、慎重に進めなければならないのだから。
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