第7話 小さな依頼人①
「では、まずは歩き方から」 翌朝、エミリオは私室で俺に向かって厳しい眼差しを向けていた。
「…本当にこれが必要なのか?」 俺は溜め息まじりに尋ねる。今朝から既に2時間、エミリオの指導の下で"淑女らしい"振る舞いの特訓を受けていた。
「もちろんです」エミリオは一歩前に出て、優雅な仕草で歩き始める。「ジュリア様は、このように。爪先から床に触れ、踵は優しく。ドレスの裾は左手の薬指と小指で、このように持ち上げて…」
「いや、わかるけどさ…」俺は言葉を詰まらせる。「もっと優先すべきことが…」
「それこそが最優先事項です」エミリオは厳かに告げる。「お嬢様の危機に関する調査には、社交界での活動が不可欠でしょう。その場で不自然な振る舞いをすれば、全てが台無しです」
「…」反論の余地がない。
「さぁ」エミリオはにこやかに微笑む。その笑顔の裏に、どこか執念めいたものを感じる。「もう一度、廊下の端から端まで歩いてみましょう」
(なんて生真面目な奴なんだ…)
俺は内心で溜め息をつきながら、言われた通りに歩き始める。普段なら30分もあれば事件の核心に迫れるような観察眼を持っているというのに、この"淑女修行"には既に2時間も費やしている。
「違います」即座に指摘が入る。「背筋をもっと伸ばして。視線は15度上方。そして何より重要なのは…」
「…なんだ?」
「表情です」エミリオは真剣な面持ちで続ける。「ジュリア様は、周囲への優しさと聡明さを自然に表現されます。決して投げやりな表情はなさいません」
「優しさと聡明さね…」俺は苦笑する。「まるで説明書通りに作られた人形みたいだな」
「違います」エミリオの声が強まる。「お嬢様は決して作られた存在ではありません。むしろ、そういった社会の期待の中で、自分の意志と知性を持って生きていかれた方です」
エミリオの言葉に、俺は足を止めた。彼の声には、単なる執事以上の、深い敬意が込められていた。
さらに1時間ほど、エミリオの指導の下で振る舞いの練習を続ける。背筋の角度、お辞儀の深さ、茶碗の持ち方まで、一つ一つ丁寧に、しかし厳格に指摘された。疲れが溜まってきた頃、窓の外では小鳥たちが午後の陽射しの中でさえずっていた。
「ここまでにしましょう」エミリオが時計を確認する。「これ以上は疲労が溜まるだけです」
「ようやく解放か…」俺は深いため息をつく。"淑女修行"で、体よりも心が疲れ果てていた。
「成果としては」エミリオが冷静に総括する。「歩き方はまずまず。ただし表情の作り方がまだ固い。特に、相手の言葉に頷く時の首の角度が、30度ほど深すぎます」
「そこまで細かく気にするのか…」
「当然です」エミリオは真剣な面持ちで答える。「社交界での一挙手一投足が、モリアーティ家の評判に繋がります」
「わかってるよ」俺は軽くストレッチをしながら続ける。「だがな、今は別の"仕事"の方が先じゃないのか?」
エミリオの表情が変わる。「お嬢様の件、ですね」
「ああ」俺は窓の外を見やる。昼下がりの陽射しが、庭園の木々を優しく照らしている。「彼女の手紙にあった"危機"を探るには、もっと外に出て調べる必要がある。俺たちにはどれだけの時間的猶予があるかわからないんだからな」
「…仰る通りです」エミリオは一瞬考え込む。「では、午後からは街の調査に?」
「そうだな。だが…」俺は自分の姿を鏡で確認する。「令嬢一人で街を歩くわけにはいかないだろう?」
「もちろん」エミリオが微かに笑みを浮かべる。「私が護衛として同行させていただきます」
「そうじゃなくて」俺は眉をひそめる。「普段のジュリアは、どんな時にどこへ行くんだ?」
「そうですね…」エミリオが記憶を辿る。「お嬢様は科学書を求めて本屋に立ち寄られたり、時には裏通りの骨董品店で珍しい実験器具を探されたり…」
「それだ」俺は身を乗り出す。「そういう"普段の行動"を装って、街を回れる。本屋で立ち読みする振りをして周囲の会話を拾ったり、骨董品に触れて過去を見たり…」
「なるほど」エミリオが感心したように頷く。「お嬢様らしい行動を取りながら、実は調査を…確かに良案かもしれません」
「探偵の基本だ」俺は軽く肩をすくめる。「目立たず、でも確実に。証拠は必ず痕跡を残している」
「ですが」エミリオが真剣な面持ちになる。「あまり危険な場所には…」
「わかってる」俺は手を振って制する。「昼間の人目につく場所だけだ。それに、お前が付いてるんだろ?」
エミリオが安堵したように笑む。「はい。命に代えても、お守りいたします」
「おいおい」俺は苦笑する。「命を懸けるような事態には、ならないようにしような」
着替えを済ませ、外出用の帽子を被りながら、俺は心の中で決意を固める。この街のどこかに、ジュリアの失踪の手がかりがある。彼女の日常の足取りを追いながら、その痕跡を見つけ出さねば。
「行きますか」エミリオが扉を開ける。
「ああ」
エミリオの完璧な立ち振る舞いに、俺の不器用な"淑女の演技"。正反対の二人が、同じ目的に向かって歩き出す。
人々で賑わう街並みに、初夏の陽射しが降り注いでいた。この光の中に、事件の影が潜んでいることなど、誰も気付いていないように見える。このどこかに、暗い真実が隠されていることなど誰も。
「まずは…」俺は通りを見渡す。「ジュリアがよく立ち寄っていた本屋から始めよう」
*
「エミリオ、ジュリアはよくこのあたりを歩いていたのか?」
「はい。特に、この通りの書店には頻繁に立ち寄られていました」エミリオが静かに答える。「科学書を探されるのが主な目的でしたが…」
石畳の通りには、洗練された店構えのブティックや喫茶店が立ち並ぶ。その中でも一際目を引くのが、古めかしい木製の看板を掲げた書店だ。『ブラックウェル書店』——二階建ての建物全体が本棚に囲まれ、知的な雰囲気を醸し出している。
店内に入ると、古書特有の香りが鼻をくすぐる。背の高い本棚が迷路のように並び、天井近くまで本が詰まっている。木製の床は来客の足音を優しく吸収し、静謐な空間を作り出していた。
「おや、いらっしゃいませ」店主の老人が穏やかな笑みを浮かべる。どうやらジュリアの常連客だったようだ。
「いつもお世話になっております」俺は、エミリオに仕込まれた挨拶を返す。
科学書のコーナーに向かいながら、俺は店内の様子を観察する。ジュリアが普段どんな本を手に取っていたのか、その痕跡を追う必要がある。
「エミリオ」小声で呼びかける。「彼女が最近購入した本のジャンルは?」
「主に化学と物理の専門書でしたが…」エミリオは本棚を指差す。「最近は意外なことに、あの歴史書の棚にもよく立ち寄られていました」
示された先には『古都セインティア修道院の生活』『古代アストラル街道の交易史』といった本が並んでいる。
「意外だな…」科学少女のイメージからは遠く離れた分野に、俺は眉を寄せた。
エミリオが本棚に手を伸ばす。「お嬢様が最後に手に取られたのは、確かこちらの…」
ジュリアが最後に手に取った本は、『セインティア王朝期の修道院建築』。古い革表紙の本を手に取ると、パラパラと埃が舞い上がった。
「この本か…」 俺が本を開こうとした時、一枚の栞が滑り落ちる。拾い上げようとして手を伸ばした瞬間、「お嬢様」静かな声で告げる。
「左手で、人差し指と中指を使って」
「…はいはい」 上品に指を動かし、栞を拾い上げる。令嬢としての所作は、まだまだ修行が必要らしい。 古びた栞に触れた時、新たな映像が浮かび上がった。
——「この本の中に…きっとあるはず」ジュリアが焦った様子で頁を繰る。「研究室で見たあれと…」少女の指が頁の隅をなぞっていく。何かを探しているその仕草には、明らかな焦燥感が滲んでいた——
「どうされました?」エミリオの声に意識が現実へと引き戻される。 「ああ、この本の中で、ジュリアが何かを—」
言葉を終える前に、店内の大きな窓に小さな人影が映った。書店の向かいの路地から、幼い少女が慌ただしく飛び出してくるのが見えたのだ。
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