第6話 探偵令嬢ジュリア・モリアーティ⑤

私室の柔らかな椅子に深く身を沈めながら、俺は今回の事件を振り返っていた。


アシュワース氏は結局、自首することを選んだ。妹を守るため、そして自らの罪から逃げないためだ。メアリー夫人も一緒に逮捕されたが、状況を考慮して、夫人への求刑は大幅に軽減されるだろうと警部が話していた。長年の虐待の証拠が、夫人に有利に働いたのだろう。


「はぁ…」


俺は疲れた体を伸ばす。この少女の体になってから、まだ慣れないことも多い。特に令嬢としての振る舞いなど今までの人生でやったこともないのだから。


「これでやっと一段落…」


目を閉じかけた瞬間、ノックの音が響いた。


「失礼いたします」


丁寧な物腰で、エミリオが入ってきた。手には夜のお茶の準備だろう、銀製のトレイを持っている。


エミリオの手元で、銀色の光が一瞬煌めいた。ナイフ―。


「動かないでください」


エミリオの声は冷たく、鋭い。普段の従順な態度は微塵も感じられない。


「お前は誰だ」


俺が答えないのを見て、エミリオは続ける。


「まず、足の運び方が違う」


エミリオの声は静かだが、その一言一言が氷のように冷たい。


「本来のジュリア様なら、ドレスの裾を僅かに持ち上げながら、もっと優雅に歩かれる。右足を出す時は、爪先から。踵が床に触れる時は、まるでバレリーナのように繊細に」


ナイフの切っ先が僅かに動き、月の光を反射する。その光が俺の顔を捉えた時、エミリオの声が更に鋭くなる。


「髪の掻き分け方も違う。ジュリア様は必ず左手の中指と薬指で、耳の後ろに掻き上げられる。まるで竪琴を奏でるような、優美な仕草で」


彼の瞳が細められ、その中で冷たい炎が燃えているようだった。


「しかし貴方は右手、それも雑に。まるで…そう、まるで男のように」


エミリオの目が鋭く光る。その眼差しには、執事としての観察眼と、何か別の経験に裏打ちされた鋭さが混在していた。


「そして何より」


彼の声が一段と冷徹になる。


「私を頼らなかったこと。ジュリア様はいつも、危険を感じた時は真っ先に私に護衛をさせる。今日アシュワース氏と相対した時も、ジュリア様であれば私を止めるのではなく前に出す。ご自分の価値を正確に把握されているからだ。」


月明かりに照らされた私室で、エミリオが一歩近づいてくる。その足音は、絨毯に吸い込まれ、まるで幻のように静かだった。


「しかし貴方は」彼の声が氷のように冴え渡る。「一度も私を頼ろうとしなかった。まるで…他人のように」


ナイフを持つ手に、確かな力が込められる。


「もう一度問う」


「お前は誰だ」


その瞬間―俺は右手で机の上の花瓶を払い落とした。


カシャーンッ!という音と共に、エミリオの注意が一瞬そちらへ向く。その隙を突いて、俺は素早く身を翻す。


「っ!」


ナイフを持つ手首を掴み、上方へ跳ね上げる。予想外の動きに、武器が宙を舞う。


だがエミリオも只者ではない。すぐさま体勢を立て直し、俺に組み付こうとしてくる。


(この少女の体じゃ、力では勝てない…)


相手の動きを冷静に読み取りながら、俺は次の一手を考える。


(でも、拘束するだけなら!)


体が覚えているように動く。エミリオの腕を取り、背後に回し上げる。重心を崩し、膝を地面につかせる。


「この技は…」エミリオが驚きの声を上げる。


「逮捕術さ」俺は静かに告げる。「力任せじゃない。相手の重心と関節を制する技術だからこそ、この体でも使えるんだ」


「逮捕術…?」エミリオが床に組み伏せられたまま、苦しげに呟く。


組み付いてきた時の身のこなし、体の開き方、そして咄嗟の反応速度。俺は冷静に相手の動きを分析する。


「随分と面白い動きをするじゃないか、エミリオ」腕を制したまま、俺は静かに問いかける。「マフィア?それとも、どこかの裏組織?ただの執事にしては、動きが洗練されすぎている」


エミリオの体が一瞬、強張る。


「身のこなしは悪くない」俺は力を緩めることなく続ける。「でも、この程度の技で俺を捕まえられると思ったならお生憎だったな」


組み伏せた腕にさらに力を込める。


「…あなたは誰だ」


組み伏せられたまま、エミリオの声が震える。さっきまでの敵意は消え、代わりに深い懸念が滲んでいた。


俺は少し間を置いてから、ゆっくりとエミリオの腕を解放する。起き上がったエミリオは、壁際まで下がり、警戒の目を向けてくる。


「信じてもらえないかもしれないが」俺は椅子に腰かけながら、静かに言葉を紡ぐ。「この体自体は確かにジュリアだ。いや…俺もまだよくわかっていないんだが…」


「何を言って…」


「簡単に言えば、あの事故で目が覚めたらこの体になっていた」


エミリオの表情が変わる。「お嬢様を返せ」


その声には、ただならぬ重みがあった。執事としての忠誠を超えた、何かがあるように感じる。


「そうは言っても…俺自身、俺や彼女に何が起きているのか知らないんだ」


薄闇の中、エミリオの表情が暗い影を帯びていく。執事としての凛とした姿勢は崩れたままで、肩が僅かに震えている。


「だが…」


俺は立ち上がり、机の引き出しから一通の手紙を取り出した。最初にこの部屋を物色した時に見つけたものだ。


エミリオに手紙を差し出す。封筒の表には「エミリオへ」とだけ記されている。


「この筆跡…間違いなくお嬢様の…」震える指で手紙を開く。「これは…」


開封し中から取り出された便箋には、インクが所々滲んでいて、書き手の切迫した様子が窺えた。


「エミリオへ


このままでは取り返しのつかない事態になる。私にはそれが見えている。でも、私一人では止められない。


その人が敵ではないことだけは確か。私の能力が、それを教えてくれている。


エミリオ、お願い。この手紙を見つけた人を信じて、その人と力を合わせて。きっとその人なら、私たちを助けてくれる。


時間がない。これ以上は書けない。ただ、信じて―」


文面の最後は、まるで何かに追われるように途切れていた。乱れた文字と、その内容の切迫感が、事態の深刻さを物語っていた。


「お嬢様に、一体何が…」


エミリオの声が震える。彼の横顔には、深い憂いの色が浮かんでいた。


「正直、俺にもわからん」俺は窓際に立ちながら言う。「だが、彼女は、意味もなくこんな手紙を残すような子か?」


エミリオは静かに首を振る。月明かりに照らされた彼の表情には、困惑の色が濃く残っていた。


「…お嬢様の手紙には、あなたは敵ではないと」エミリオは言葉を選びながら、慎重に口を開く。「ですが、それはそれとして」


その声には、執事としての冷静な判断と、なお残る警戒心が混在していた。


「私には知っておくべきことがある。あなたは——一体誰なのですか」


それは形式的な質問ではなく、目の前の"ジュリアではない何者か"の正体を確かめようとする、必要な確認だった。


俺は苦笑して肩をすくめた。


「教えてもいいけど…俺は多分もう死んでる」


エミリオが息を呑む音が聞こえた。私室の静寂が、その言葉の重みをより際立たせる。


「俺もジュリアと一緒で過去視を持ってた。それを使いながら探偵の仕事をやってたんだが…」 言葉を紡ぎながら、最後の記憶が鮮明に蘇ってくる。ビルの陰で見た男の姿。左手首の蛇の刺青。そして、ジャケットの中から取り出された刃物。


「親友が狙われていた。俺には見えていた――その瞬間が」 目を細めながら、あの時の光景を思い出す。街灯に照らされた刃物の輝き。親友の背中。全てがスローモーションのように見えた景色。温かい血が服に染み込んでいく感覚。遠ざかっていく意識の中で見た、涙を堪える親友の顔。


「まぁ」俺は少し投げやりな口調で続ける。「親友を守って死んだんだ。悔いは無いよ」


「死んだはずだったんだが…」俺は手の平を見つめる。しなやかで小さな、令嬢の手。「どういう理由かはわからないが、気がついたらこの体になっちまってた」


俺は手の中の手紙を軽く振りながら、肩の力を抜いて言う。封筒の端が、月明かりに照らされて白く光る。


「それに、こんな手紙まで残されちゃあな。放っておくわけにもいかないだろ?」


その言葉には、不思議と諦めではなく、新たな使命を受け入れた者の静かな決意が滲んでいた。まるで、二度目の人生に与えられた意味を見出したかのように。


エミリオは暫し沈黙した後、深いため息をつく。


「…お嬢様の手紙を信じます」彼は姿勢を正して、静かに言った。「それに、あなたがお嬢様の体で、ハートウェル家の事件を解決したことも事実です」


「死んでも探偵はやめられないみたいだ」俺は自嘲気味に笑う。


「むしろ好都合かもしれません」エミリオの声が、いつもの冷静さを取り戻していく。「お嬢様の手紙には明確な危機感が示されている。その捜査には、あなたの経験が必要になるでしょう」


「そうだな。だが」俺は真剣な表情でエミリオを見る。「この令嬢としての立ち振る舞いは、正直きついんだ。さっきも指摘された通りだ」


エミリオの口元が僅かにほころぶ。「それは私にお任せください。貴方には貴方の役割がある。私には私の務めがある」


「おや?さっきまでナイフを向けていた相手に、随分と協力的だな」


「執事として、主の安全と意思を第一に考えるのは当然です」エミリオは淡々と答える。「お嬢様の手紙が示す危機に立ち向かうのであれば、私も全力でサポートさせていただきます」


「…本当にいいのか?俺はお前の大切なお嬢様の体を借りている身だぞ」


「むしろ、お嬢様の体に宿ったのがあなたで良かったのかもしれません」エミリオは真摯な眼差しで言う。「危険を察知し、的確に対処できる。そして何より…お嬢様を助けようとする意思がある」


「エミリオ…」


「さて」エミリオは姿勢を正し、執事らしい物腰に戻る。「明日からの予定を確認させていただきましょう。まずは、貴方にジュリア様の日常的な振る舞いをお教えする必要がありますね」


俺は思わず苦笑する。「容赦なさそうだな」


「当然です」エミリオの口元に、微かな笑みが浮かぶ。「執事として、主の品格を守るのも私の務めですから」


月明かりに照らされた私室で、二人は新たな協力関係を築き始めていた。二人の前には、解かれるべき謎と、取り戻すべき人がいる。


それは、新たな物語の始まりだった。

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