第5話 探偵令嬢ジュリア・モリアーティ④

アシュワース氏のオフィスを後にした俺は、警部と共に大佐の屋敷周辺の調査を始めることにした。夕暮れの柔らかな光が、静かな屋敷に影を落としている。


「裏門から順に見て回りましょう」俺は静かに提案する。


裏門に至る小道を歩きながら、薄暮に包まれた敷地を観察する。茂みの陰から、小さな物置小屋が目に入った。


「あの小屋、気になりますわね」


手を触れると—— 一度は正門から出て行ったアシュワース氏。しかし妹が心配で裏門から戻り、この物置小屋で様子を窺う。書斎の窓から漏れる怒号。妹の悲鳴に耐えかねて——


「警部」俺は冷静に告げる。「この近くに配置されていた巡査はいませんか?」


警部が呼び寄せたのは若い巡査だった。まだ制服の襟元がきちんと整えられていた。


「昨夜は夜勤でこの辺りを警戒しておりましたが、特に不審な人物は見かけませんでした」巡査は背筋を伸ばして答える。


「あぁいえ不審な人物ではなく…」俺は言葉を選びながら尋ねた。「紳士の方は見かけませんでしたか?」


巡査の表情が変わる。「あぁ…そういえば、深夜3時過ぎでしょうか。背の高い紳士の方が裏門から出て行かれるのを見かけました。上質な背広を着て、銀の時計鎖が光っていたのを覚えています。少し慌てた様子でしたが、お顔立ちの整った方でした」


それはまさしく、先ほど会ったアシュワース氏の特徴と一致する。


「裏門から出て行った方向を追ってみましょう」俺は警部に促す。


薄暮の中、石畳の小道を進んでいくと、やがて小さな橋が見えてきた。老朽化した手すりには蔦が絡み、下を流れる川の水音が静かに響いている。


「この橋を…」


俺は手すりに触れ、その先の川面をじっと見つめる。


「警部」俺は静かに告げる。「川の下流を調べる必要がありますわ。かなりの範囲を」

「何かお気づきになられましたか?」


「ええ」俺は流れる水面に目を向けながら続ける。「大佐の所持品…財布や装飾品、あるいは懐中時計のような貴重品が、この川の下流に散らばっている可能性が高いと思います。強盗を装うなら、逃走経路にそういった品々を落としていくはずですから」


「強盗を…装う?」警部の声が震える。「まさか…それではこの事件は本当の強盗殺人ではなく…」


「…この川の流れからして下流の浅瀬や岸辺に引っかかっているかもしれません。わざと間隔を開けて捨てられていれば、まるで慌てて逃げる強盗が取り落としていったように見えるはずです」


警部の顔から血の気が引いていく。警部は絞り出すような声で「直ぐに、捜査に取り掛かりましょう」

夕暮れが深まる中、俺は川面に映る茜色の空を見つめていた。



翌日の午後、俺は再びアシュワース氏のオフィスを訪れていた。外務省の重厚な建物の中、応接室の空気は張り詰めている。エミリオは俺の背後に控え、静かに見守っている。


「ご多忙の中、申し訳ありません」俺は静かに切り出す。


アシュワース氏は高級な革張りの椅子に腰掛けたまま、相変わらず威厳のある態度を崩さない。「いいえ、何か進展でもありましたか?」


「ええ。昨日は色々と…見えてきましたわ」俺は意図的にゆっくりと言葉を紡ぐ。視線をアシュワース氏に固定したまま、一つ一つ丁寧に語り始める。


「23時頃、あなたは書斎を訪れた。お金の催促でしたわね。大佐は『今月も無理だ』と突っぱね、挙句の果てには『金が必要なら、メアリーを歓楽街で働かせてやろう』と」


アシュワース氏の表情が一瞬、憎悪に歪む。今まで保っていた冷静な面構えに、確かな亀裂が入った。

「大佐は更に『高級な店なら、たった一晩で借金など帳消しにできる』と言い放った。耐えられなくなったあなたは近くにあった花瓶を掴み…」


「…」アシュワース氏の指が肘掛けを強く掴む。


「殴り倒された大佐は床に倒れ込んだ。その物音を聞きつけて、夫人が慌てて駆けつけてきた。血相を変えた夫人は、あなたの腕を掴んで『兄さん、お願い。この場は私が何とかするから』と懇願した。『あなたの立場を考えて。私のことは心配しないで』と」


アシュワース氏の表情が僅かに強張る。無意識に右手で左の拳を握りしめている。かつて大佐を殴った、その手だ。


「夫人の腕に残る古い痣、そして使用人たちの証言から、以前から大佐による暴力は日常的だったようですね。夫人は必死に隠そうとしていたけれど…」俺は言葉を選びながら続ける。


「そうして、あなたは一度部屋を出た。エドナが自室の窓から、あなたが正門を出て行く姿を目撃したのはその時のこと。その後、24時を過ぎて大佐は目を覚ました。夫人があなたを庇ったことに激高して…」俺は一瞬言葉を詰まらせる。「いつもより激しい暴力が始まった。」


アシュワース氏の拳が強く握られる。


「あなたは心配になって裏口からこっそり戻って来たが、大佐が夫人の首を絞めているところを目撃し咄嗟に大佐の首を絞めて殺害した」


「その後、お二人で外部犯の仕業に見せかけようと部屋を荒らし、窓から逃げた跡を作った…。これが今回の真相ですわ」


長い沈黙。アシュワース氏は窓の外を見つめたまま、やがて深いため息をつく。


「…まるで、その場にいたかのような話ぶりですね」アシュワース氏の声は低く抑えられている。


「だがそれには証拠が無いように思えますが?」


「証拠は、幾つかございますの」


アシュワース氏は僅かに目を細める。


「まず、あの深夜にあなたを目撃した夜警の巡査がいらっしゃる。事件当夜の巡回中、裏口から出るお姿を確かに見かけたそうです」


「…」


「そして、アリア川の下流で強盗に奪われたという金品が発見された。不思議なことに、大佐の書斎から消えた物と一致する。外部犯による強盗なら、なぜわざわざ川下で放棄する必要があったのでしょう?」


アシュワース氏の呼吸が僅かに乱れる。だが、まだ冷静さを保とうとしている。


「そして決定的なのは…」俺は一呼吸置いて続けた。「メアリー夫人の証言です」


その瞬間、アシュワース氏の表情が強張った。


「先程、夫人とお話ししました。夫人は全て自分がやった事だと自白なさいました」


「違う!」


突然の怒声が応接室に響き渡る。アシュワース氏は立ち上がり、両手を机について俺を見つめていた。

背後で衣擦れの音がした瞬間、俺の心臓が跳ね上がった。 (やばい!)焦った俺は慌てて振り返り、両手を大きく広げて制止の仕草を取った。


「エ、エミリオ!」


声が裏返るのを必死に抑えながら、俺はエミリオに向かって小刻みに首を振る。既に彼の右手はコートの内側へと伸びかけていた。


(ここで手を出されたら、全部台無しだ…!)


エミリオは一瞬躊躇したが、どうにか俺の意図を理解してくれたようで、ゆっくりと腕を下ろした。俺は内心でほっと胸を撫で下ろすが、その姿勢は依然として緊張を帯びたままだ。


やがて、アシュワース氏は深いため息をつくと、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。表情から力が抜け、かつての威厳ある外交官の面影が消える。


「…私がやったんです」


低く、しかし確かな声で彼は告白を始めた。その声には、長年抑え込んできた感情が滲んでいた。


「妹は…メアリーは、いつも笑顔で『大丈夫』と言っていた。血の滲む唇を押さえながらも、『転んだだけ』と。でも、その腕の痣は消えることがなかった。新しい痣が古い痣に重なって…」


アシュワース氏は拳を強く握りしめる。


「『立場上、もう少し我慢を』と…私は見て見ぬふりを続けてきた。外交官として、スキャンダルは避けねばならない。そう自分に言い聞かせて…妹の苦しみから目を背け続けた」


彼の声は苦しげに震えている。自責の念が言葉一つ一つに染み付いている。


「あの夜、奴は『高級娼館で働かせる』などと…私の愛する妹を、まるでモノのように扱った。借金の返済に妹を売り飛ばすと…そんな言葉を、酒に酔った顔で笑いながら…」


アシュワース氏の声には、明確な憎悪が滲んでいた。


「それでも、メアリーは私を止めようとした。『兄さんの立場が…』と。いつものように自分のことは二の次で…」


「一度は引き下がったんです。だが、館を出てすぐ…不安になった。またメアリーに全てを押し付けていいのかと胸が締め付けられるような…そして戻ってみると…」


アシュワース氏は両手で顔を覆った。その指先が微かに震えている。


「奴が、メアリーの首を…もう、私は理性が効かなかった。愛する妹を、ずっと守れなかった私に、やっと…やっと出来ることがあった」


その言葉には、後悔と解放、苦悩と安堵が入り混じっていた。長い沈黙が部屋を包む。


「夫人は、お兄様を守ろうとなさったんですね」


「…ええ。いつも、私のことを心配していた」アシュワース氏の声は、もう外交官のものではなかった。ただの、妹を持った兄のものだった。

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