第3話 探偵令嬢ジュリア・モリアーティ②

サロンを出て、応接間へと向かう。 エミリオが静かに扉を開くと、そこには大柄な男の姿があった。グレーのコートを羽織ったハドソン警部は、俺を見るなり安堵の表情を浮かべた。


「おお、ジュリア嬢!本当に無事で何よりです」 警部が差し出した手を取ると同時に、俺は彼のコートに触れた。


——馬車事故の現場。「まさかジュリア嬢が…」警部が焦りの表情で駆けつける。自宅に戻された後の様子の報告を受け、安堵の溜め息——


「ご心配をおかけしました」 椅子に腰掛けながら、俺は微笑む。「でも、ご覧の通り傷一つありませんわ」


「ふふっ」俺は軽く笑う。「そうそう、警部のコートの内ポケット。ブリュージュのマカロンが入った小箱…ディナーの約束を破ってしまった、奥様への謝罪のプレゼントでしょうから潰れないうちに取り出しておくことをお勧めいたしますわ」


警部が驚いて目を見開く。


「事件の現場検証が長引いて、帰宅途中に急いでお店に寄られたようで…警部も大変ですわね」


警部の目が見開かれる。俺はちらりとエミリオの方を見る。平静な表情のまま、いつも通りの完璧な立ち居振る舞い。…よし、ジュリアらしい対応ができているようだ。


警部は胸を撫で下ろすように大きく息を吐いた。 「相変わらずですな、ジュリア嬢」警部が微笑む。「実は今日は、ある事件の相談で参ったのです」


俺は軽く頷く。日頃から警部の相談に乗っているジュリアの立場を考えれば、ここで断るのは不自然だろう。それに…正直に言えば、探偵としての興味も湧いていた。


「お話しください、警部」 俺は背筋を伸ばし、淑女らしく微笑む。 「私にできることなら、お手伝いさせていただきますわ」


警部の表情を観察していると、これから語られる事件の内容が、どれほど深刻なものなのか、その表情から読み取れそうだった。


探偵としての本能が、この謎に向かって目覚めていく。 今は少女の姿でも、推理への情熱は変わらない。 むしろ、この立場だからこそ見えてくる真実があるのかもしれない——。


警部は重々しい面持ちで話し始めた。


「実は一昨日の夜、ハートウェル大佐の邸宅で殺人事件がありました」


その言葉に、俺は眉を寄せた。「殺人、ですか?」


「ええ。大佐は書斎で死亡していました」警部は資料に目を落とす。「強盗殺人の可能性が高いのですが、不可解な点が多くてね」


「現場の状況を詳しく教えていただけますか?」


「メイドが朝、食事を持って行った際に発見したのです。書斎は荒らされており、明らかに何者かが侵入した形跡がありました」


「大佐の様子は?」


「書斎床に倒れた状態で発見されました。頭部には殴られた跡がありますが…」警部は言葉を詰まらせる。「直接の死因は首を絞められたことによるものです」


「ご家族は無事だったのですか?」


「ええ、幸い夫人と一人娘は寝室で眠っていて無事でした。メイドも別棟の使用人室にいましたので」警部は安堵したように続ける。「ただ、その日は夫人の兄にあたるジェームズ・アシュワース氏が来訪されていたそうです」


「来訪、とは?」


「ええ。外務省の高官でいらっしゃる方です。なんでも大佐との金の話があったとか。メイドの証言では、23時頃に来訪し、日付が変わる前には帰られたそうです。メイドが部屋の窓から、アシュワース氏が門を出て行くのを目撃しております」


警部は眉間に深い皺を寄せる。「死亡推定時刻は午前2時から3時の間。アシュワース氏がお帰りになった後のことです」


「犯人の手がかりは?」俺は警部の表情を窺った。


「書斎は荒らされているのですが、不思議なことに館内のほかの場所からは何も盗まれた形跡がない。その上犯人の足取りがまったくつかめず、手詰まりでして……」


「警部」俺は淑女らしく微笑む。「明日にでも、現場を見せていただけませんこと?」


警部の表情が明るくなる。「もちろんです、ジュリア嬢。ご協力いただけるなら…」


俺は黙って頷いた。これは単なる家庭内の事件ではなさそうだ。


ふと背後に視線を向ける。


エミリオが無言で俺たちの会話を見守っている。彼の冷静な眼差しの中に、僅かな緊張が混じっているのを感じた。だが特に行動を起こす様子はない。…どうやら上手くジュリアを演じられているようだな。これまでの記憶を頼りにした対応は、それなりに的確だったということか。


俺は内心で深いため息をつきながら、明日の準備に思いを巡らせた。探偵としての観察眼を保ちつつ、ジュリアらしい慎重な立ち回りを意識しなければ。二重の演技は、想像以上に骨が折れそうだ。



厳かな雰囲気を漂わせる大佐邸に、俺たちは午前10時に到着した。警部の案内で2階の書斎へと向かう間も、邸内は重苦しい空気に包まれていた。


「では、ジュリア嬢」警部が書斎の扉を開きながら言う。「ご遺体は既に運び出してありますが、それ以外は発見時のままです」


俺は静かに部屋に足を踏み入れた。散乱した書類、倒された家具、引き出しは乱暴に開け放たれ、中身が床に投げ出されている。重厚な書斎も、強盗の手によって無残な姿に変えられていた。大きな肘掛け椅子、その前の机、壁一面の本棚。大佐の遺体が発見された椅子の周りだけが、不自然なほど整然としている。


「少し、調べさせていただいてもよろしいですか?」


「ええ、どうぞ」


この能力——物に触れることで過去の断片を見ることができる力は、確かに強力な武器になる。だが、完璧なものではない。


まず生きている物に対しては使えない。その上見えるのは断片的な場面のみだ。それらのピースを論理的に組み立て、全体像を把握する必要がある。しかも、この能力で得た情報は直接的な証拠にはならない。あくまでも、実際の証拠を見つけるための道標として使わなければならないのだ。


それでも——。俺は荒らされた部屋を見渡した。この書斎で何が起きたのか。その真実は、これらの調度品が確かに知っているはずだ。


まずは大佐が最期を迎えたという肘掛け椅子に触れる。


——深夜の書斎。アシュワースと大佐の激しい言い争い。花瓶を振り上げ突然の暴行。床に倒れ込む大佐。駆けつける夫人の姿——


俺は目を見開いた。この部屋が荒らされた状況は、警部の推測とは全く異なる意味を持っているのかもしれない。


しかし、なぜアシュワース氏の帰宅が目撃されているのか?そして死亡推定時刻との矛盾は?強盗の仕業という形跡も、どこか不自然だ。


断片的な映像を頭の中で組み立てながら、新たな疑問が浮かび上がる。この真相を証明するには、まだ多くの証拠が必要だ。


「…警部、ご家族のお話も聞きたいのですが」


「下の応接室でお待ちですよ。どうぞこちらへ」


俺は深く息を吸い、気持ちを切り替えた。これから被害に遭われたご家族のお話を聞く。彼らの言葉の端々に、きっと真相につながる手がかりが隠されているはずだ。

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