第2話 探偵令嬢ジュリア・モリアーティ①

柔らかな感触と、微かな花の香り。


目を開けると、天蓋付きの豪華なベッドに横たわっていた。


シーツは上質な絹製で、部屋には見たことのない観葉植物が優雅に配されている。窓からは陽の光が差し込み、カーテンが風に揺れていた。


どう見ても病院──というより現代日本ではあり得ない内装。


「…夢じゃねぇのかよ」


低い声で呟いたはずが、喉から出てくるのはやはり少女の声。


手を上げてみれば、そこにはか細い指。開いたり閉じたりしてみるが、間違いなく自分の手だ。華奢な手を呆然と眺めているとノックの音が響いた。


扉が静かに開き、一人の少年が入ってきた。


黒を基調とした執事服に身を包み、漆黒の髪を後ろで軽く束ねている。


18歳といったところか。整った顔立ちで、どこか儚げな雰囲気を漂わせている。


少年は俺が目覚めていることに気づき、安堵した声で


「お目覚めのご様子で何よりです。お嬢様」


…お嬢様?


執事らしき若者の言葉に、俺は混乱した。それってもしかして俺のことか?


「お嬢様?ご気分は優れませんか?」


思いっきりこちらを見ている。間違いなく俺のことだ。


咄嗟にベッドサイドの寝台テーブルに手を伸ばす。物に触れれば過去が見える能力。この状況を理解する手がかりになるはず。


——少女が日記を書いている。「親愛なる日記よ。今日もエミリオが完璧な紅茶を淹れてくれました。モリアーティ家の執事として、彼は本当に――」——


モリアーティ?執事?


「お嬢様、やはりどこか具合が…」


執事が持ってきたティーセットをテーブルに置き、ベッドに近寄ってくる。待て待て、俺は今あんたが何者なのかもわからないのだ。とにかく物に触れて情報を集めるしかない。


枕に触れる。


——少女が髪を梳かしている。鏡に映る顔は整った目鼻立ちの16歳くらいの少女。「ジュリア、今日は家庭教師が来られます」母親らしき人物の声——


ジュリア…これが今の俺の名前なのか。


執事がどんどん近寄ってくる。


「お嬢様は昨日の馬車事故のあとからずっと意識がお戻りにならなくて…」


ドレッサーに触れてみる。


——少女が身支度をしている。執事が後ろで控えている。「このドレスはお母さまからのプレゼントよ」「お嬢様によくお似合いです。ジュリア様」「ふふっ。ありがとうエミリオ」——


「エミリオ!!」


「はい」


間違ってはいないようだな…。この状況でいきなり"君のお仕えするお嬢様の中身は今アラサーのおじさんなんです!"とか発言しても信じてはもらえまい。というか俺も信じられないのだが…。下手なことを言えばそれこそ頭の病院に叩き込まれかねない。


今は彼に悟られないよう、できるだけ自然に振る舞わなければ。


「お嬢様?」


「えっと…」一度咳払いをする。


「少し、頭が痛いわ。もうちょっと寝かせてくれないかしら」


「…大丈夫ですか?直ぐに医師を…」


「違うの!なんというか…怪我じゃなくって、寝すぎて頭痛というか…!体には問題ない感じなの!」


いいのかこれ!これでいいのか!?


「…承知いたしました。伯爵様がお帰りになるまでもう少し時間がありますのでそれまでごゆっくりお休みください」


お茶をてきぱきと入れながら簡潔にこの後の予定を処理してくれる。こやつできるな…。


一礼し部屋を出ていくエミリオ。…しばらく待てば気配は無くなったようだ。


よし、これで少し時間が稼げた。


部屋を見回す。広さ30畳ほどか。ドレッサー、本棚、書き物机、衣装部屋らしき扉…。探偵としての経験が言っている。人の本質を知りたければ、その部屋を調べろと。


まずは本棚から。指を本の背表紙に這わせていく。ありがたい(?)ことに文字は英語の様だった。


——「化学実験概論」「天体物理学入門」「近代科学論集」を机に重ね、少女が夜遅くまでろうそくの明かりで読み耽る。時には父の研究室でこっそり実験を——


ほう、ただの令嬢じゃないな。科学的な知識があるのは良い。探偵にとって、科学は最大の武器だ。


衣装部屋の扉に触れる。


——着替えを手伝う侍女たち。「お嬢様、今日は社交界のお稽古です」「お母様が新しいドレスを」。だが少女は窮屈そうな表情——


社交界か…そっちは苦手そうだな。俺も同感だ。


書き物机の引き出しを開ける。


——隠し引き出しの中の拳銃。エミリオが手入れを教えている。「お嬢様、これは本当に緊急時だけです」——


なるほど。しっかりとした用心も。賢いじゃないか。


拳銃の手入れ方法を見た後も、部屋の中を歩き回る。一つ一つの物に触れては情報を集めていく。


化粧台の小箱に触れれば、毎朝の身支度の様子。本棚の詩集からは、夜更けにこっそり読書をする姿。ドレスからは、社交界での堅苦しい立ち振る舞い。靴からは、密かな実験室への足取り。


…16歳の少女の日常をのぞき見しているような罪悪感がよぎる。非常に心苦しい。いや、これはあくまで一時的な措置だ。自分の置かれた状況を理解するための必要な情報収集であって、決して他意はない。そう、これは捜査なのだ。


とにかく、今はジュリア・モリアーティについて、できるだけ多くを知っておく必要がある。探偵としての仕事は、何よりも徹底的な事前調査が重要なのだから。


そして——”野神”が一体どうなってしまったのかを考えないように、思考の片隅に追いやる様に。



「本当に良かったわ。あんなひどい事故だったのに怪我一つないなんて奇跡よ…!」


馬車事故から数日後。部屋の調査で得た情報を頼りに、なんとかジュリアを演じている俺は、夕食後のサロンで両親と過ごしていた。


真珠のネックレスを輝かせる母は(恐らく)この世界で最新のデザインのドレスに身を包み、父は紅茶を片手に資料を読みふけっている。この光景が"普通の"ジュリアの日常なのだと、触れた物の記憶が教えてくれる。


母のアビゲイル・モリアーティは社交界の花形として、毎週のようにパーティーや茶会を切り回している。父のベネディクト・モリアーティは王立科学協会の重鎮で、実験室に籠もっては新しい発見に没頭している。役職で言えば父はモリアーティ教授なのだが、かの有名な犯罪界のナポレオンとは程遠い人物であることは調査済みだ。

その両親の狭間で、ジュリアは科学の才能と淑女としての嗜みの両立を求められていたのだ。


「お母様、来週のバートン伯爵夫人のパーティーですが…」 記憶を頼りに、社交界の話題を振ってみる。すると案の定、母の目が輝いた。


「ああ、そうそう。貴女も体調が許すのなら参加した方が良いわ。ハワード子爵家の令嬢も来るのよ。あの子とは仲良くなっておいた方が…」


「待て、その日は面白い実験をするつもりなんだ。」父が資料から顔を上げる。「硫酸銅の結晶生成における温度変化の影響を…ジュリア、君も興味があるだろう?」


「まあ、あなた」母が軽く眉を寄せる。「いつもジュリアを実験室に籠もらせようとして」


「新しい発見は、人類の進歩に貢献する」父が熱っぽく語り出す。「それに比べれば社交界など…」


「比べるものではありませんわ」


ぴしゃりと父の言葉を遮りつつ「でも貴方のその科学に向ける情熱もステキなのよね」と母は柔らかな表情を浮かべた。


母は強し、そして割れ鍋に綴じ蓋…。


そこへ、控えめなノックの音。現れたエミリオの表情に、僅かな緊張が浮かんでいた。


「ハドソン警部がお見えです。お嬢様のご回復を喜ばれつつ…ご相談があるとのことで」


来たか。早いな…。


ここ数日の調査で判明したことだが、ジュリアは俺と同じ能力を持ち、その力を買われて警察からときおり相談を受けていたという。今の状況では正体がバレないよう慎重に立ち回るべきだが、断ればかえって不自然だろう。


「大丈夫です」即座に答える。これもジュリアらしい反応のはずだ。「警部がわざわざ来られたのですもの」


立ち上がりながら、部屋で触れた物からの記憶を思い出す。警部との会話…事前に読み取った記憶を手がかりに、なんとかジュリアを演じきらねば。


「警部の相談に乗るのは、私の趣味ですから」


父がティーカップを置く。「ジュリア、無理は…」


「心配ありません」自然な微笑みを浮かべる。 「エミリオも付き添ってくれますし」


両親の表情が和らぐ。彼らはジュリアの"趣味"を黙認していた。令嬢としての表の顔と、密かな協力者としての裏の顔。その絶妙なバランスを、娘は上手く保っていたのだ。


「では失礼いたします」


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