探偵令嬢ジュリア・モリアーティ ~おっさん探偵が貴族令嬢に転生するも、転生先も探偵だった!?~

おおの

第1話  プロローグ

午後三時を回った探偵事務所で、俺は依頼人の女性と向き合っていた。


「本当に…本当にありがとうございました!」


彼女は両手で祖母の形見の指輪を大切そうに握りしめている。たった今、俺が見つけて手渡してやったものだ。


「気をつけて帰れよ」


やわらかく声をかけながら玄関まで見送る。扉を閉めようとした時、聞き慣れた足音が廊下に響いた。


「やあ、野神」


「お勤めご苦労様、荻浦警部補」


俺の軽口にニヤリと笑う濃紺のスーツに身を包んだ優男。こいつは荻浦。大学時代からの付き合いで、俺の力を知る数少ない人間だ。


「今なら空いてるぜ。まるで計ってたようなタイミングだな」


「そうか、俺も運がいい。どうしても野神の力を借りたくてな」


軽口に軽口で返される。大学時代からこうだ。


荻浦は事務所に入り、持っていたカバンの中から手には証拠品の入った透明な袋を取り出し机の上に置いた。中の包丁に付いた血を見て、俺は思わず眉をひそめる。


「被害者は渋谷区在住の主婦だ。自宅のキッチンで発見された。この包丁が凶器になる。指紋は被害者本人のものだけ。周囲に設置されていた防犯カメラは…どうもカメラの位置を把握していてな。的確に映らないようにしていたようだ」


「…なるほどなぁ」


俺は静かに立ち上がり、手袋を取る。可能な限り直接触れた方が鮮明に見える。それは経験で学んだことだ。


「準備はいいか、野神」


「ああ」


俺は無言で頷き、ゆっくりと包丁に手を伸ばす。指先が触れた瞬間、意識が急速に暗闇へと引き込まれていく。


視界が開けると、そこは夜のキッチン。月明かりだけが窓から差し込む薄暗い空間に、女性の悲鳴が響く。包丁を持つ男の手が、月光に照らされて光る。目の前で展開される残虐な光景に、胃の中が反り返りそうになる——。


「野神!」


荻浦の声が、遠くの世界から俺を引き戻す。事務所の蛍光灯の光が、まぶしく感じた。冷や汗が背中を伝い、シャツが肌に張り付いている。深いため息と共に、ゆっくりと包丁から手を離す。


「見えたぞ」


喉が焼けるように渇く。声を出すのも辛い。こういう暴力的な記憶を見るのは、いつも以上に体力を奪われる。水を求めて手を伸ばそうとした時、荻浦が先回りしてペットボトルを差し出してきた。


「特徴は?」


一口、水で喉を潤してから答えた。


「左手首に蛇の刺青。身長は被害者より10センチくらい高い。170センチってところだな」


「蛇か…」


その一言に、荻浦の表情が曇る。面倒な事になったという諦めにも似た表情。それもそうだ、左手首の蛇の入れ墨は今東京で噂になってる半グレ集団の印だ。単なる殺人事件では済まない可能性が出てきた。


俺は背もたれに深く身を預け、天井を見上げながら息を整える。視界の端で、机に置かれた包丁が不吉な光を放っているような気がした。


「野神、大丈夫か?」


「ああ」


俺は疲れた顔で笑ってみせた。この男の前で弱音を吐くのは、今に始まったことじゃない。


「少し疲れただけだし、アラサー過ぎた男相手に心配性が過ぎるぞ」


「お前に負担をかけた当人が言うのもなんだが、友人を心配して何が悪い」


荻浦は腕を組みながら、学生時代と変わらない調子で返してきた。


「そういうとこ、相変わらずだよな」


自然と口元が緩む。大学時代から、こいつは本当に面倒見のいい男だった。


会話の途中、荻浦のスーツの内ポケットから携帯の振動音が漏れた。彼は一瞬眉をひそめ、俺の方を見る。


「どうぞ」


目配せで促すと、荻浦は素早く電話に出た。部下からの連絡らしい。彼の表情が徐々に深刻さを増していく。事件に進展があったようだ。


「分かった。すぐに行く」


電話を切った荻浦は、立ち上がりながら「すまない。また連絡する」


そこで一瞬言葉を切り、続けて付け加える。


「あぁそれと、お前も無茶はするなよ。色々話は聞いているからな」


その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。この能力を使った"過剰な"捜査について、はっきりとは話していないはずだが…。荻浦は俺の動きを把握していたのか。


扉が閉まる音と共に、事務所に静けさが戻る。俺は深いため息をつきながら、窓際まで歩いた。夕暮れの街が、オレンジ色に染まり始めている。


この過去を見る能力。確かに捜査には役立つ。人が亡くなるような事件でも、真相にたどり着ける。だが、その代償は小さくない。他人の記憶、特に暴力的な記憶を見るたびに、この力が俺から何かを削り取っていく気がしてならない。時には、その記憶に引きずられそうになることもある。


壁の時計は、容赦なく午後六時を指していた。今日はもう仕事を切り上げて、久しぶりにゆっくり休もうか——。そう考えた矢先、携帯が震えた。


画面に表示された依頼内容に、思わず眉をひそめる。渋谷での調査依頼。タイミング的にも正直に断りたいところだが、表示された報酬の額と依頼相手を考えれば、そうも言っていられない。


「はあ…」


長いため息が漏れる。上着を手に取りながら、せめて荻浦の捜査現場とは被らないことを祈った。皮肉なことに、その祈りが届かないことを、この時の俺は知る由もなかった。



夕暮れ時の渋谷。雑居ビルの入り口で、黒いスーツに身を包んだ警備の男たちが俺を値踏みするように見つめている。いかにも裏社会というオーラを纏った連中だ。


五階。エレベーターを降りると、金ピカの看板が目に入る。「株式会社KGトレード」。HPでは真っ当な貿易会社を装っているが、業界では資金洗浄の噂が絶えない。今回の依頼も、その真偽を確かめるためのものだった。


セキュリティカードリーダーに触れれば、過去の記憶から暗証番号が分かる。オフィス内の机やキャビネットも同様だ。必要な情報を集め、証拠写真を撮り終えた頃、外が完全に暗くなっていた。


裏口から抜け出そうとしたその時、俺は凍りついた。


警察の捜査車両。そして、その横で指示を出す荻浦の姿。まさか本当に颢合わせることになるとは。部下たちを率いる彼の表情は、いつもの軽い調子とは別人のように引き締まっていた。


「チッ」


舌打ちしながら、別の出口を探そうとした時だった。


ビルの陰。そこに、昼間見た映像の男がいた。左手首の蛇の刺青が、街灯に照らされてほのかに浮かび上がる。その手が、ゆっくりとジャケットの内側に伸びる。

刃物を取り出した瞬間、俺の体は勝手に動いていた。


「荻浦!」


叫び声と共に、俺は走り出していた。光る刃物。荻浦の背中。全てが、スローモーションのように見えた。


突き出された刃が、俺の腹を貫く。

予想していた痛みの代わりに、不思議な熱さが広がった。温かい液体が、ジワリと服に染み込んでいく。


「野神!」


荻浦の叫び声が、まるで遠くから聞こえるように響く。


部下たちが駆けつける足音。救急車を呼べという怒声。犯人を取り押さえる音。

全てが、少しずつ遠ざかっていく。


「この馬鹿野郎…何やってんだ…」


涙を堪えながら俺を抱える荻浦。どんな修羅場でも冷静だった男が、こんな顔をするなんて。


そう思った時、意識が急速に薄れていくのを感じた。


最後に見たのは、街灯に照らされた荻浦の顔。


そして、全ては深い闇の中へと溶けていった。



最初に感じたのは雨の音だった。


「…ここは?」


声を出して、俺は驚いた。喉から漏れた声は、慣れ親しんだ低い男の声ではなく間違いなく少女のものだった。


恐らく馬車だったであろう瓦礫の中。周囲を見渡すと、従者らしき男性が何人も倒れている。その向こうには暗い森が広がっている。横倒しになった車体が示すように、どうやら転落事故を起こしたらしい。


「確か、俺は…」


渋谷で荻浦を庇い、刺され——死んだはずだ。なのに、なぜ?


ふと割れた窓ガラスに目を向けると、そこには見知らぬ少女が映っていた。長い銀髪。大きな青い瞳。年の頃なら16くらいか。着ているドレスは高価そうだ。そして、その少女は俺と同じように困惑した表情を浮かべている。


「まさか…」


考えを巡らせる暇もなく、獣の唸り声が聞こえてきた。血の匂いに引き寄せられたのか、灰色の影が次々と姿を現す。狼の群れだ。


「くそ…!」


立ち上がろうとして頭がふらつく。どうやらこの身体も転落の衝撃を受けているようだ。


倒れている従者の傍らに銃が落ちているのが目に入った。この世界にも銃があるのか。構造は違えど、確かに銃だ。


手に取る。途端、映像が浮かび上がった。ああ、この能力は健在なようだ。


銃の記憶が告げる。装填方法。引き金の重さ。着弾精度。全て把握できる。


最も近づいてきた狼を狙う。この小さな体では反動が強すぎるだろう。それでも——。


「くそったれがぁ!!!」


轟音が森に響き渡る。狙い通り、先頭の狼が倒れる。残りの群れが一斉に後退し、やがて森の中へと姿を消した。


「っく…」


予想以上に体が軋む。


銃の反動で肩が痛い。これが夢なら、ここまで痛みを感じるはずがない。


遠くで馬の鳴き声が聞こえる。


(誰かが近づいてくる…?)


木々の間から、まるで物語から抜け出してきたような装備に身を包んだ人の姿が見えた。


(なんだこれ…ゲームか?ファンタジーか?)


考えられたのはそこまでだった。


痛みで意識が遠のいていく。その時、車窓の外に今の自分と瓜二つの少女が立っている事に気づいた。


彼女が何かを言おうとして口を動かす。だが、声は聞こえない。


最後に見たのは、その少女の悲しげな表情だった。


全てが闇に溶けていく。雨の音だけが、かすかに残っていた。


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