【ゲヘナ管理棟 アシェロット 最上階 2218.01.09】

 純白の大地に、天を貫く塔がひとつ。


 その地はゲヘナ(永遠の滅びの地)と呼ぶにはあまりに精錬で、けれども確かに生命の気配はない。

 見渡す限りの大地が細かな塩の粒で覆われ、結晶が陽の光に輝いている。

 地平の果てまで続く沈黙の広がりを切り裂くように、塔は天に向かってそびえていた。

 表面は継ぎ目のない、滑らかな白い素材で、頂は青空に溶け込むように霞んでいる。


 塔から程近くにクレーターができていて、熱に溶けた塩が固まりになっている。中央には球形のポッドとパラシュートの残骸が焦げ付いて、大気圏外からの飛来を示していた。

 塔に向かって、一筋の足跡が続いている。



「ああ、これはこれは、お早いご来訪だわ。もう三世紀ほど経ったでしょうか」


 塔の最上階。旧い言葉を紡ぐ老婆は柔い布が敷き詰められたカプセルの中で横たわっていた。皮膚は骨に張り付くように瘦せこけ、光を反射しないほどの黒い瞳がひとりの来訪者を見つめている。

 カプセルには無数の管が接続され、脈動する光を放つパネルへと繋がっていた。


 繭のような生命維持装置の前に、来訪者──ひとりの少女が佇んでいた。彼女はおもむろに首を傾げ、短く整えられた黒髪が風もなく揺れる。


「あなたがわからないのなら、わたしたちにもわからない。月は時の流れが違うから」


 少女の見目は10代前半、ふっくらとした頬や唇は彫像のように無機質に整っており、声や表情に明確な情動はあらわれない。薄色の瞳が、長い睫毛の瞬きでダイヤモンドのようにきらめく。

 対する老婆は、諦念を感じさせる漆黒の眼差しを天井へと向けた。天窓の向こうには昼に残った白い月が空虚な空に浮いている。


「想定よりずっと早いのは確かです。星辰が満ちてしまうのですね」


 少女は視線を左に逸らし、少し間をおいてから返答する。


「のこり、366日。わたしはあなたから契約を引き継ぎにきた。神が惰眠に耽るうちに、すべての人類に安らかな死を与えなければならない」


 少女はあらかじめ決められた台詞を口ずさむように言葉を選んでいる。

 質素なワンピースから露出した細い素足には、こまかな塩の粒がついていた。


「ええいかにも。神による苦痛を与えぬため、人としての苦痛こそ我々の役目。手筈は整えてあります」


 老婆はやせ衰えた手でカプセルの内側にあるレバーを引く。空中に黒くどろりとした粘性の液体が浮かび上がり、少女の手の中で寄り集まって一振りの長剣へと変貌した。

 金属の冷たさと重量に、細い腕が張り詰める。


 長剣は鈍い光を放っている。柄には古びた楔型の文字が彫り込まれ、刃のふちは微かに欠けている。周囲の清潔で無機質なカプセルやパネルと対照的に、血と汗の染み込んだ歴史の匂いを漂わせていた。


「私の命を以て、続開が規定されています。我が神との盟約も受け継がれるでしょう、使途さま。最期に、お名前を伺っても?」


 少女は楔文字を指先でなぞる。刃に移り込む自らの表情に揺らぎが感じられないことを確かめて、硬く結んでいた唇を開いた。



「……あなたの子孫、グレイス」



 老婆は目を見開き、唇を震えさせる。


「ああ、なんと──光栄な」


 老婆の手は祈るように静かに組まれている。彼女はとうに忘れられた祈りの一節を呟いて、赤子のような穏やかな微笑みの中に、わずかな名残惜しさを残して目を閉じた。


「御使にふさわしい、よい名前です。あなたの血族であることを誇りに思います」


瞬きする間もなくグレイスは長剣を振り上げ、翻して握り込むと切っ先を下に向けた。

 動作にためらいは無い。恐れも、疑問も、殺意も、悲しみも。


「ありがとう。わたしも、勇敢なあなたを誇りに思う。さようなら、小野博士」

「ええ、さようなら、グレイス。あなたにも安寧のあらんことを」


 一瞬の静寂の後、鋭い音を立てて透明な壁は砕かれた。刃が老婆の胸を貫くと、カプセルに満ちていたあたたかな光は弾けるように消え、その代わりのように傷口からどろりとした黒い粘着質な液体が噴き出す。

 我が神、と呟いたグレイスを抱きかかえるように纏わりつき、とめどない濁流はあっという間に部屋の天井までを埋め尽くした。

 やがて圧力に耐えきれなくなった窓を突き破り、遠く下方のゲヘナの地へと降り注ぐ。


 黒い液体はただ物質然として、塩の砂漠に吸い込まれることはない。アメーバのように蠢いて脈動しながら寄り集まり、大きな球状の塊になる。

 その中からグレイスが吐き出された。


 グレイスは膝をつき、二、三咳込むと、裾を払って立ち上がる。さらさらと音を立てて巨大なアメーバが地を這い、じゃれつく子犬のように彼女の素足に縋りついた。


 グレイスはそれに視線を向け、首を傾げる。何か声をかけようとして屈み込み、アメーバに移り込んだ自分の表情を見て──光を映さない黒に染まった自分の瞳を見て、結局何も言わずに口を閉じる。

 彼女は振り返らず歩き出した。アメーバが無邪気に戯れながら後を追っていく。



 そして、部屋には誰も残らない。ただ中央に、長剣が突き立っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【中央保護局】 ドニト @doneedto_5-01

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画