桜舞い散る恋心
「川瀬さん、なぜ絵を描いてるの」
野坂は緊張していた川瀬に尋ねた。テーブルの上に置かれた果物、コップ、どこの誰かわからない石膏の頭を眺めていたが、こんなものを撮る気にはならないのは確かだった。たぶん描く気にもなれない。いつも覗いていて思うことだが、どうして美術部はどうでもいいものを描いているのか不思議でならない。
「ごめんね。絵の邪魔して」
「ぜんぜん。気にしないで。それよりもどうしてわたしがモデルなん?」
「ふと髪が風に吹かれたところを見た。いつも見てるわけやないで。申し訳ないけど、描かなくていいんで制服でお願いできますか」
「夏服で?」
「うん。気になる?」
「別にいいけど」川瀬は俯いた。「自然光で撮るんですよね。レフ板とか置きますか?」
「いろいろ試してみたい。フィルムでネオパンFで単焦点五十ミリで撮るけど」
「わからないけど。他の人は?」
「いらない。群像写真じゃないし。川瀬さんだけでいいんだけど気になる?」
野坂は悪気もなく答えた。今の野坂には川瀬以外見えていない。他の生徒も顧問も置かれた小道具も興味がない様子に思えた。
「できれば朝の光で撮りたいなあ」
「朝?」
「あかんかな」
「わたしはいいですよ。体育部も演劇部も朝練してるし。何なら屋上とかで撮るとか」
「日焼けするで。川瀬さんは印象派?」
「ミレイが好きやけど。まだまだ美術部では透視図法とかの練習してるくらいかな」
そうかと野坂は呟いた。顎に手を添えて壁に向いて額を押し付けたまま考えた。
「外やないんよね。川瀬さんの描いてるイメージは室内なんよ。今描いてるのある?」
「今は特に。高校野球と吹奏楽の全国大会のポスター描いてるかな」
「やっぱ邪魔かな」
「顧問に何か言われた?これは来年のやからええねん。特に筆も動かへんし。あ、文化祭の絵も描いてる」
野坂は素描を覗き込んだ。
あ、と呟いた。
「桜やん」
「春にデッサンしておいてん。季節ずれるけど描きたくて。理由は今はわかんないかな」
川瀬は桜を描く気が失せた。
わずかに野坂の表情に影がさしたからだ。
翌朝から撮影をした。夏の朝、まだ誰も来ていないくらいの美術教室にいると、何だか気持ちが澄んだ気になった。爽やかな夏の風が吹き込んでくるとき、かすかにシャッター幕が上下する機械音が響いた。あいまいな記憶では五日ほど続いただろうか。モデルの経験は絵を描いている自分にも勉強になる気がした。
あれがラストショットというのか。
かすかに機械音が聞こえた後、
「撮れた」
と野坂が呟いた。
すぐ片付け始めた。
三日目の朝、始めて十分ほどの頃だ。カメラを三脚から外して、シャッターボタンに繋がる紐状のレリーズを抜いた。
「たぶん封じ込めたと思う」
「え?」
「完ぺき」
至福の刻は一瞬で終わる。後であれがそうだったのだと気づいても、二度と戻らない。
川瀬は涙を止めようとした。
「川瀬さん、ありがとう」
「ぜんぜん」
なぜ泣いているの?
もうおしまい?
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