星影のシンフォニア

砂倉春待

徒然カプリチオ






人生にリモコンはない。どんなに願ったって時間の早送りも巻き戻しもできないなんてこと、とうの昔から知っていた。──stupidly*capriccio





 わたしの鮮明で一番古い記憶は、五歳になった日の朝の景色。

 六畳の和室に並べて敷いた布団の真ん中で目を覚ますと、赤い袋と金色のリボンでラッピングされた大きな包みが枕元に置かれていた。眠い目を擦って飛び起きると、左隣ではママが口元に笑みを浮かべて寝転んでいて、右隣ではパジャマ姿のパパが正座でビデオカメラを向けていた。

 二人に意識を向ける余裕もないままにリボンを解こうとしたもののうまくいかず、「ママ」と呼ぶだけで呆気なく錠は外れた。

 あんぐりと大きく開かれた口に頭を突っ込むと、中にはピンク色の大きな箱が入っていて、更にその中には色とりどりのヘアアクセサリーがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。五歳になったばかりのわたしには、それがお姫さまになれる魔法の道具に思えた。

「五歳の誕生日おめでとう、十和。私達の元に生まれてきてくれてありがとう」

 上下の長いまつ毛を重ねて、ママが言う。

「誕生日おめでとう。十和はパパとママの一番の宝物だが」

 銀色の眼鏡フレームの向こうで目を細め、パパが言う。

 起きたら片手を満たしてしまうほどの歳になっていたことと、クリスマスでもないのにサンタさんが来たみたいに魔法の道具をもらえたこと。そして何より、絶対的存在の二人に「おめでとう」の言葉をもらえたことが嬉しくて、わたしは布団の上で飛び跳ねた。

 窓から差し込む朝日が、六畳の和室に舞うホコリを輝かせる。それはまるで、ビーズのシャワーのようにキラキラと眩しかった。

 魔法の道具を手に入れたわたしは、実際にお姫さまだった。わがまま放題で後に粛清を受ける悪女ではなく、無償の愛を注がれたプリンセス。

「まま、おやすみ前のえほんよんで」

「いいよ。好きなの持っておいで」

 眠る前、一緒に布団に入ったママに絵本を読んでもらうのが日課だった。

 可憐な見た目とは裏腹にハスキーなママの声は、時に色を変えながら、自由に海を泳ぐ魚になったり子どもを貶めようとする悪い魔女になったりした。

 大きな手がめくる絵本の中にはたくさんの物語が溢れていて、ママの体温を感じながらそれらの世界に浸る時間がわたしはとてつもなく好きだった。

「ぱぱ、プイキュアのかみのけやって」

「えぇ? パパ、上手く出来んが。この前も失敗したけん、ママに頼んだら?」

「ぱぱがいいに。おねがい」

 強引に手を引いて、ヘアアクセサリーの入ったボックスの前にパパを連れて行く。パパは困ったように眉を下げて、しかし娘に選ばれることの嬉しさを表情に滲ませながら不慣れな手つきでわたしの髪を梳いた。

 完成した髪型は毎回、お世辞にもリクエストに応えられたとは言い難い出来だったけれど、普段は頼りになるパパがたじろぎながらもわたしのために一生懸命になってくれることが嬉しかった。

 愛されているという自覚が、わたしの自信になっていた。城の中で大切に育てられ、おもちゃのアクセサリーボックスがメイクボックスに変わっても、わたしはいつまでもお姫さまのまま、幸せに暮らし続けるのだと疑わなかった。


 家から学校へ向かうバス停までは、徒歩10分。Bluetoothのイヤホンが掻き鳴らす音楽を、車窓の外で流れていく景色のように無関心に聞きながら、わたしは今日も通い慣れた道を歩く。

「あぁ、十和ちゃん。おはよう」

 メロディーの隙間から、縫うように鼓膜を震わせた声。わたしは慌ててイヤホンを引っこ抜き、声の出どころを探すと、声の主は目線より少し下にいた。

「おはよう、ございます」

 長く伸びる畦道と、足元に広がる広大な田地。停められたトラクターの陰に腰掛け、こちらを見上げている佐々木さんに挨拶を返す。

「今から学校かや? 頑張ってねぇ」

 首に掛けたタオルで額の汗を拭いながら言う佐々木さんに短く返事し、真っ直ぐに伸びる一本道の先を急いだ。

 大型連休が明け、気温は一気に高くなったように思う。やけに高い空は眩しいほどに青く、照りつける太陽は容赦ない。

 山間部ということもあり市街地よりかは幾分涼しいけれど、どんどん暑くなっていく気温に辟易としないわけではない。

 重い足をそれでもなんとか前へと進めるわたしを、風が追い抜いていく。背中まで伸びた栗色の髪が巻き上げられ、視界を妨げた。見渡す限り緑色のこの町で、しっかりと受け継いでしまったその色は、あまりにも不釣り合いだった。


 通勤通学時間でさえ一時間に二本しかないバスに乗り込んで、山を超えたところにわたしが通う県立南沢高等学校はある。町の中心部から少し離れたところに位置するその学校は、四方をやはり田圃が囲っている。水を張った季節にはまるで水田の海に浮かぶ島のようだ、と思ったことがあったけど、我ながらいい得て妙な例えだと思う。

 県内の高校の中でも平均的な学力の高校で、突出して学力に秀でているとかでもない限り、近隣地域の中学生の大半はこの高校に進学する。それでも一学年に三クラスしかないこの学校は縦の繋がりも横の繋がりも強く、良く言えばアットホームで、悪く言えば閉鎖的な学校だった。

「一時間目、数学かや!」

「うわっ、宿題忘れちょった!」

「バッカでぇ」

 昇降口でローファーを履き替え、三階にある教室を目指して階段を昇っていると、イヤホンから流れ聞こえる音楽が切り替わるタイミングで、はしゃぐ声が耳に入ってきた。反射的に顔を上げると、数段先で同じクラスの男子数名が横並びになってじゃれ合っている。この時間の階段は、まるで進む方向が定められているかのように皆が教室のある上の階を目指しているため、さして邪魔にはならないように見えるけれど。

「…………」

 視線を足元に落とし、何の変哲もないセーラー服のプリーツが揺れるのを尻目に小さく息を吐いた。

 早く、進んでくれないかな。

 本人達にその気がなくても、気心知れた友人達とのお喋りの前では行動は二の次になって、速度は落ちる。ひとり階段を昇り始めたときはなかった背中をすぐそこに捉え、自ずとこちらのスピードも落ちる。

 僅かに湧き上がった苛立ちにも似たまどろっこしさを掻き消すかのように、手元のスマホの音量を上げた。イヤホンからは、次の曲のイントロが流れ始めている。

 一学年に三クラスしかないこの学校は縦の繋がりも横の繋がりも強く、しかし背後から声をかけることはなかった。

 ようやく辿り着いた教室は既に多くの生徒で賑わっているけれど、わたしに声をかける者は誰一人としていない。わたしも彼らに脇目を振ることなく、窓際一番後ろの自席へと足を向けた。

 日常は今日もいつも通りに進んでいく。のだと、思っていた。

 日常が非日常になったのは、昼休みのこと。

 チャイムが鳴り、お昼ご飯を食べに行こうとお弁当箱の入った手提げ袋を手に取ったときだった。教室の扉付近にいた女子生徒がわたしの席までやってきて、遠慮がちに声をかけられた。

「あの、中津さん。呼ばれちょーよ」

 そう言って彼女が指さした先には、見覚えのない男子生徒が数人、こちらの様子を伺うようにして立っていた。

 教室内の視線が、好奇の色を帯びて一斉に向けられたのがわかる。

「呼び出しかや」

「久々じゃないがね?」

「あいつら、隣町から来た一年だが。勇気あるなぁ」

「勇気ってか、アホなだけだが」

 顰められていても輪郭を保ったまま耳に届くクラスメイト達の声。

 あぁ、失敗した。お弁当出すよりも先に、イヤホンつけるんだった。そしたら、ノイズだけはシャットアウトすることが出来たはずなのに。

 なんて思っても後の祭り。後悔先に立たず、だ。

 言伝を頼まれた女子生徒に短く礼を言い、手提げ袋を手に重い腰を上げて席を立った。

 扉の前に立つと、まだ真新しい制服に身を包んだ男子生徒三人が緊張の面持ちでわたしを出迎えた。

「何か」

 聞くと、真ん中に立っているお調子者そうな男子生徒が先陣を切るようにして一歩前に出た。

「いきなり教室に押し掛けてスミマセン! 俺ら一年なんですけどっ。中津先輩とお近づきに──じゃなくて、えっと、」

「結構です」

 一年生だと言う男子生徒の前を通り、廊下に出る。と、他クラスの生徒がやはり好奇の目をこちらに向けているのがわかって、無意識のうちに眉にシワが刻まれる。

「中津さん、相変わらず容赦ないね」

「ほんまに。まぁ、美人だけんなぁ」

 ヒソヒソと囃し立てられる中を、振り返ることなくずんずん進む。何を言われても今更気にしない。気にならない。そう思っていたわたしの耳に、よく通る声が邪気もなく届いた。

「お母さんも綺麗やったらしいしね、羨ましいわ」

「あぁ、男こさえて出て行ったっていう……」

 迷いなく歩みを進めていた足がぴたりと止まる。声のした方を睨みつけると隣のクラスの前に女子生徒が二人立っていて、わたしが振り返るとは思っていなかったのか、ヘビに睨まれたカエルのように体を強張らせた。

「…………」

 煩い。真っ向から言えないくらいなら、余計なこと言わないで。

 喉まで出かかった言葉をぐっと堪えて飲み込んで、わたしは再び彼女達に背を向けた。

 余計なことは言わないに限る。ここら一帯の狭いコミュニティの中では、いい噂も悪い噂も、瞬時に駆け巡ってしまうのだ。


「酒屋の小手さんから聞いたぞ。学校で男に言い寄っちょったそうやな」

 夕飯を食べ終え、食器を洗っていた時だった。流れ落ちる水の音を掻き分けるようにしてリビングの扉が開く音がして、息を呑む間もなく冷徹で無機質な声が部屋に静かに響いた。

 瞬間、背中にすうっと冷たい汗が流れて、全身のあらゆる血管がざわざわと騒ぎ立つのを感じる。畏懼の思いを飲み込めずにシンクから視線を上げると、カウンターの向こう、リビングの入口に立つ背広姿の男と眼鏡のレンズ越しに目が合った。

 車を停める音も玄関の扉が開く音も水音に掻き消されていたのに、その低音だけははっきりと耳に届いた。静かに燃え上がる焔を宿した瞳に、わたしはその瞬間の一切を、諦めた。

「お前は一体俺にどれだけ恥かかせたら気が済むかや」

 粗雑な足音を鳴らして、男はこちらに歩み寄ってくる。咄嗟に奥歯を噛み締めた刹那、左頬で痛みが弾けた。

「……っ」

 目の前の景色が大きくぶれて、平衡感覚を失う。かろうじて伸ばした手はシンクの縁を掴まえ、やっとの思いで踏みとどまった。口の中で広がる鉄の味が気持ち悪い。

「さすが、あいつの血を引いた女やな」

 忌々しそうに顔を歪めて私を見下ろしたかと思えば、今度は下ろしていた長い髪を強く引かれて、思わず短い悲鳴が漏れ出た。その声は、きっとこの男の耳には届いていない。

「この髪、その目。年々あの女に似てきちょる」

 瞳孔が開いた瞳は、感情的にも機械的にも思える。この男の目に、わたしが娘として映っていないことはわかっていた。

 二年生の中津十和が下級生の男子に言い寄られていた。そんな非日常は、この町では格好のネタだ。悪気なく誰かが誰かに話して、伝えて、どこかのタイミングで、捻じ曲がる。

 事実を曲解され、嘘を事実として作り上げられ、針の筵に晒されて。特に理由がなくても、難癖をつけられて理不尽を向けられた。

 それらに完全に慣れられたと言えば嘘になるけれど、自分の運命くらいは受け入れてきた。


 小学校五年生の時、母親が外に男を作って家を出ていった。

 何も言わず、ただ離婚届だけを残して母親が消えたことは十一歳の子どもにとってはかなりショッキングな出来事で、目の前が真っ暗になったことをよく覚えている。

 “中津さんの奥さんが愛人を選んで出ていった”という話は瞬く間に町に広まって、残されたわたし達には哀れみの視線や言葉が向けられた。しかし、失意のどん底にいたわたしも父親も、そこに混じって潜む好奇に鈍感ではなかったし、妻に逃げられた夫というレッテルは父親の自尊心を十分に傷つけた。

 あまり強くはないからと滅多に飲むことがなかったお酒の量は格段に増え、勤務先の町役場や近所で見せる笑顔は家の中で消えた。何かにつけて振り上げるようになった拳はわたしの体に痣を刻み続け、そのせいでわたしは制服が夏服に切り替わっても薄手のカーディガンを手放せない。

 父親は、自分を捨てた女を深く深く恨んでいる。そして、否が応でもその女を想起させるわたしのことも、憎くて仕方がないのだろう。

 少しドジなところもあるけれど、人当たりがよく、誰にでも優しいパパ。

 少し厳しいところもあるけれど、料理の腕はピカイチで、包み込むような明るさを持ったママ。

 そんな二人が、わたしの自慢だった。それなのに。

 人生にリモコンはない。母親がいた頃まで、父親が穏やかで優しかった頃まで、時間を巻き戻すことなんて出来ない。

 自らの足で立ち、鉄格子の鳥かごから飛び立てる未来まで、時間を早送りすることさえ出来ない。

 十七年間生きてきて、わたしは学んだ。大きな変化もなく時間だけが緩やかに過ぎていく世界には、絶望だけが渦巻いているということを。

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