2-2
大学の最寄り駅近くの雑居ビルの3F。少し年季の入ったカラオケルームは薄暗かった。くたびれたソファに沈むと、妙に居心地の悪い気怠さが身体にまとわりつく。本当なら今頃、サークル棟で音合わせをしているはずだったのに……。
「さあ実力を証明しますか、実力を!」
知り合ったばかりの金髪の少女――
茜の名前を知ったのはついさっきのことだけど、実は彼女のことは何度か大学内で見かけていた。遠目でもはっきり分かるくらいのスタイル――ウエストは細いのに胸は大きくて、率直に言うと羨ましい。
「こういう奴なんだ……すまん」
小さな子供に振り回される保護者のように、凛は私たちに詫びを入れる。その一方で、茜は全く意に介していない。
どうしてこうなったのかと言えば、凛が私たちのバンドに誘われていると知った茜が、「それなら私もボーカルで加入する!」と言い出したのがきっかけだ。凛が渋い顔で止めようとするも、「実力を証明すればいいんでしょ」と言い返し、そのまま勢いで「じゃあボーカル決定カラオケオーディションね!」と話を進めてしまったのだ。
茜が選曲に悩んでいる間、夏希が私たちにドリンクのオーダーを尋ねた。この店では、ドリンクを1杯頼むのがルールらしい。3人のオーダーを聞き終えると、夏希はスマホを手に取り、フロントへ電話で注文を入れた。薄暗い部屋の中、テレビ画面から漏れる青白い光が、彼女の背中を柔らかく照らしている。その光景はどこか静かで、落ち着いた空気をまとっていた。
初めて彼女と出会った新歓コンパのときをふと思い出した。まだ緊張していた私に、ドリンクを注いでくれたあのさりげない仕草。あのときもそうだったけれど、夏希のこうした自然な気遣いに触れるたび、大人びた魅力を感じてしまう。
そんな思いにふける間もなく、明るくアップテンポなイントロが鳴り響いた。茜の好きな曲だというJ-popの一曲が始まり、彼女は軽快に歌い出す。その瞬間、部屋の空気が一気に切り替わったように感じられた。
「うわ……歌うまいな」
隣の夏希がぽつりとつぶやいた。私も同感だった。茜の歌声は、明々としていて、自信に満ちていて気持ちよかった。
それから茜は次々と曲を歌っていく。あらゆる曲も見事に歌いこなす彼女に、カラオケ機の採点マシーンも当然のように高得点を与え続けていた。
そして、ついに少し難易度の高そうな曲が流れ始めた。近年の大ヒット曲だ。冒頭から速いテンポで畳み掛けるようなリズム、音域も広くて、歌うには相当の技量が必要そうだ。
しかし、茜はそれを何の苦労も感じさせないように歌い上げる。彼女の声は滑らかで、一音も外さずに旋律を追っていく。
曲の終盤、最も盛り上がる部分に差し掛かったとき、私は思わず息を呑んだ。うらぶれたカラオケルームが、ライトで七彩に照らされているようだった。完璧な歌声と華やかなルックス、自信に溢れた表情。誰もが目を奪われていく――思わず、そう言ってしまいたくなるだけの魅力があった。
「……すごい」
気づくと、夏希は拍手していた。それを見て、私も同調するように手を叩いた。
――――本当にすごい。断る理由はどこにもなかった。もうバンドのボーカルは茜にやってもらうしかない。きっと夏希もそう思っているだろう。
「まあね!天才ですから!」
茜が高笑いながらマイクを置く。さすがに苦しかったのか、呼吸がいくらか上ずっていた。
「はいはい、すごいね。アクの強さが天才的ですね」
棒読み気味に凛が皮肉を言うと、茜がムッとしてすぐに言い返す。
「そうですね、辛気臭くてイヤミな誰かさんにも、私の天才的な自己表現を見習ってほしいですね!」
イヤミの応酬。しかし本気でいがみ合っているというわけではなく、2人とも口元からは笑みがこぼれいる。そんなやりとりを見ていると、私は少し笑いそうになってしまう。喧嘩するほど仲がいいって、こういうことを言うのかな……?
とにもかくにも茜をボーカルとして採用しよう。彼女の気が変わらないうちに、三顧の礼で迎えよう。そう夏希に提案しようとしたそのとき、なんと……厠が近くなってしまった。
廊下を抜け、女子トイレに向かう。店内は壁には古びたポスターが何枚も貼られ、絨毯は少し擦り切れていたけれど、トイレだけはしっかりリフォームされていた。思わず肩の力が抜ける。
用を済ませて洗面台で手を洗っていると、背後で扉が小さな音を立てて開いた。鏡越しに映ったのは茜の姿だった。淡い蛍光灯が金髪を柔らかく、どことなく儚げに見えた。
「……茜……さん?」
名前を呼ぶつもりはなかったのに、自然と口をついて出た。
彼女は吸い寄せられるように近づいてくる。あと少しで肩が触れてしまうくらいの距離に立たれると、思わず息を飲んだ。見上げると、整った顔立ちがすぐそこにあり、かすかに漂うフローラルな香りが私を包む。
「結……ちゃん、あのね……」
まっすぐな瞳。けれど、揺れている。自信に満ちた姿で歌っていた彼女とは別人のようだ。私はただ、立ち尽くす。
「私……いろいろ勝手なことしちゃったからさ。ボーカルなりたいとか。カラオケ行こうとか……怒ってない?」
茜の声は震えていた。
「全然、うん、全然そんなことないよ。それよりも茜さんの歌、すごく上手だったよ。堂々としてて、羨ましいくらい」
精一杯言葉を並べたけど、彼女を安心させられただろうか。
「……ありがとう、結。これからもよろしくね」
彼女はそう言って、踵を返してトイレから出て行った。手を洗うわけでもなく、用を足すわけでもなく――ただこれを言うためだけに?「ありがとう」と言った笑顔は、今にも泣きそうな子供のようで、頼られたような気がして胸がぎゅっと締めつけられる。
深呼吸をしようとして、ふと気づいた。華やかな香りがまだ残っている。
「……はぁ」
どうしようもない気分だった。彼女に取り繕ったような言葉をかけた自分が嫌になった。夏希だったら、どうしただろうか。彼女ならもっと優しく、的確な言葉をかけられたはずだ。
飛鳥茜――自由で、美しくて、繊細な女の子。出会ったばかりなのに、彼女のいろんな顔が私の中で波を立てている。
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