2-3

 トイレから部屋に戻ってきた私を見るなり、夏希が口を開く。


「あっ結。私、茜をバンドのボーカルに迎えたいと思ってるんだけど」

 「私も」と答えようとしたそのとき、凛が口を挟んだ。


「ねえ、茜1人しか歌ってないのに決定って変じゃない?オーディションなんでしょ、これ?」

 茜はムッとした表情を見せたが、すぐに軽く肩をすくめた。 「まあ、理屈としては間違ってないよね」と、凛の言い分に納得しているようだ。意外にも大人しい反応で、思わず先ほどの茜の姿を思い出す。ナイーブな心境をまだ引きずっているようだった。

 

「他の子にも歌ってもらってから決めたほうがいいと思う。それからちゃんとボーカルを決めよう」

 そう言うと凛は、鋭い目で私の方を見る。


「星ヶ丘さん。あなたに歌ってほしい」

「えっ私!?」

 

 不意に名前を出されて、私は思わず声を上げた。

 歌なんてしばらく人前で歌ったことがなかった。自慢ではないが、私は誰かとカラオケに来ても、歌うのをずっと渋り続けて周りをシラケさせてしまうタイプの人間だ。

 

「結、やってみてよ。私も聞きたい!」 

 夏希が私に催促する。「バンドをやらない?」と彼女に誘われたときの記憶がよみがえる。でも真剣だったあのときとは違い、その声色には、どこか無邪気な好奇心が混じっていた。頬もしまりなく緩んでいる。


「……でも、しばらく人前で歌ったことなんてないし……」

 私は視線を泳がせながら、声を小さくする。逃げ出そうとする私を、夏希は許してくれない。


「結の歌が聴きたいんだけれど」

 少し拗ねたような口調だった。それでも頑なに歌うとを拒み続ける私に対し、夏希は実力手段に打って出る。私の右手を引っ張ってマイクを無理やり握らせると、離せないように自分の両手で包み込んだ。私の手が、夏希の手の中に閉じ込められた。


「歌ってくれるまで、絶対に離さない」

 口元にいたずらっぽい笑みがこぼれていた。弄ばれている、と自覚した。こんな夏希は初めてだった。

 しかし彼女は明らかにふざけていたが、その一方で本気でその手を離さないつもりのようだ。空いた左手で夏希の両手を引きはがそうとしても、彼女の力が強くてどうすることもできなかった。夏希にマイクごと右手をギュッと握られて、掌の圧と温かさが伝わってくる。だんだんと心拍数が上がっていく。一定のラインに達したとき、私はようやく理解する。あぁ、歌うことよりも、こうやって夏希に手をギュッと握られる方が、何百倍も恥ずかしい、と。

 

「……歌います」

 覚悟を決めたものの、心臓はまだ暴れるように鼓動していた。


 曲を選び、画面に歌詞が表示されると同時に伴奏が流れる。夏希が「がんばれー!」と盛り上げて、茜も「いけ~!決めろ~!」と便乗する。「スポーツの大会じゃないんだから……」と内心呆れると、凛が私の気持ちを代弁してツッコんでくれた。

 私は手に持ったマイクを見つめながら、深く、強く、息を吸う。もう半ばヤケになっていた。覚悟を決めて立ち上がる。

 選んだ曲は「ロビンソン」。私が世界で一番大好きな曲だ。


 ☆


 歌い終えたとき、部屋の中は静寂に包まれていた。私は顔を上げるのが怖くて、視線を床に落としたまま、声を詰まらせる。


「……結、とてもよかった!本当にカッコよかったよ!」

 一番に声を上げたのは夏希だった。彼女の瞳は驚きと感動で輝き、声は少し上ずっていた。


「うん。ロビンソンの新しい解釈だ」

 凛は静かに、何度も頷いていた。その表情は満足げだった。茜はポカンと口を開き続けている。彼女たちの評価は思いの外に良好なようだ。


 褒めてもらっていたのに、心は1ミリも弾まない。あの日の記憶が、しこりとなっているのを感じた。中学時代、「ギター、上手いね」と言ってもらったときの記憶を。そして、それが嘘だったと知ったときのショックを。胸の中で湧き上がる疑念が、私にブレーキをかけていく。

 

「……ありがとう」

 かろうじて絞り出した声は、どこかぎこちなかった。


 私が黙り込むと、凛がこちらをじっと見てきた。

 

「星ヶ丘さん、何か引っかかってる?」

 驚いて顔を上げると、彼女はまっすぐに私を見つめていた。冷静で鋭いその目に、私は言葉を詰まらせる。


「……別に。ただ本当に私の歌がそんなによかったのかな……なんて思ったから」

 凛は一瞬考えるような仕草をしてから、静かに話し始めた。


「星ヶ丘さん、聞いてほしいんだけど、ロックバンドのボーカルって、必ずしも歌唱力がすべてじゃない。むしろ、声の質や感情表現の方が重要な場合が多い。有名なバンドのボーカルでも、技術的な部分では平凡な人はいくらでもいる。でも、そういう人たちは他にはない声の個性があって、聴く人の心を掴むんだ」


「でも、私……」

「君の声には、そういう声だった。自覚がないかな?いい声をしてるんだよ、星ケ丘さん」

 「わかる」と夏希が同意する。

 

「坂田真彩って分かるかな?女性声優の。星ケ丘さんの声は彼女のような透明な声で、力強かった。」

 坂田真彩……知っている。人気女性声優で、歌手としてもとても評価されている。


「それに「ロビンソン」の歌い方も素晴らしかった。飄々としてかつロマンティックなオリジナルとは全然違って、内に秘めた感情を吐き出すような魂のこもった「ロビンソン」だった。他の人が「ロビンソン」を星ケ丘さんみたいに歌ったらおかしくて笑っちゃうかもしれないけど、声の良さと確かな表現力でまったく違和感を覚えなかった。むしろオリジナルよりもロックなものだった」


 凛のことを、ただクールで物静かな人だと思っていた。でも、彼女の話す姿を見ているうちに、それが間違いだと気づかされた。彼女は必要なときには迷いなく、自分の意見を理路整然と述べる。ただ相手に自分の言葉を届けるために。真剣な瞳の彼女を前に、私は知らないうちに息を詰めて聞き入っていた。


「茜の歌も素晴らしかったよ。上手い下手でいえば、茜の方が上手かった。単体のソロアーティストとしてなら、ビジュアルや堂々とした立ち振る舞いも含めて茜の方が向いているよ。でも洗練とされすぎていて、ロックバンドのボーカルに必要な泥臭さや野生的な魅力には欠けていると思う。どっちがいいか、ってことじゃなくて、あくまで向き不向きの話」


「まあ、そう言われたら納得するしかないかもね。ちょっと悔しいけど」

 

 茜は腕を組んだまま、軽く肩をすくめて笑う。バンドのボーカルとしては否定されてしまったけれど、他の部分で褒められて、まんざらでもない様子だった。


「とにかく……星ケ丘さん。私はあなたの歌声をベースで支えたい」

 凛はそう言って私をじっと見つめる。まるでプロポーズのような言葉に、私の心は深く揺れる。

 

 バンドには憧れがあったけど、ボーカルをやりたかったわけじゃなかった。でも凛たちの言葉を耳にして、私にもやれるんじゃないかという気がしてきた。あの日、私に勇気をくれた路上ミュージシャンのように、私の歌声で誰かの心を震わせることができれば、それはとても素敵なことだ。

 

「結、ボーカルやってみようよ。ギターとの両立になっちゃうけど、私が練習付き合うからさ」

 夏希の手がそっと私の肩に触れる。本当にできるだろうか――不安が顔を覗かせる。しかし目の前の笑顔が、私の背中を押してくれた。

 

「ボーカル。私、やってみる」

 そう言って、私は小さく頷いた。その刹那――――


 「じゃあ私、キーボードやるね」

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