1-5

 講義が終え、私は雑貨店へと急いだ。夕方の淡いオレンジが街を照らし、長く伸びる影を作っていた。

 アーケード街に向かう途中で、懐かしいメロディーが聴こえた。歌っていたのは、あの路上ミュージシャンだった。

 

 群衆は相変わらず彼を無視し、彼もそれを意に介さず淡々と歌っている。彼が歌っている曲は、とても有名な曲だった。スピッツと同時期にデビューした、彼らのライバルとも戦友とも呼べるバンドの代表曲だった。脚色のない歌声は、その歌詞ことばを真っすぐ、あるがままに伝えているようだった。


 音楽は人を暴く。バンドをやりたかった私。先輩に憧れた私。そして裏切られ、傷つけられ、全てを人のせいにしてきた弱い私。すべての私を詩が揺さぶり、拍動が私の脈となる。それは一拍ごとに衝動となり、体を駆け巡っていった。


 やがて最後の一音が鳴り終わり、小さなステージに短い沈黙が訪れた。私は静かに拍手をしながら、少し震える手で財布を取り出し、小さな紙幣を投げ銭のケースに入れる。ミュージシャンの無言の会釈に、私はただ静かに頷いた。


 雑貨店に着き、店員さんからキーホルダーを受け取る。

 「ご連絡ありがとうございました」とお礼を言いながら、両手でそれを包むように持つ。白い猫のマスコットは少し汚れていた。

 店を出て、歩道脇のベンチに腰を下ろし、手の中のキーホルダーをじっと見つめた。そしてポケットから先日買ったもう1つのキーホルダーを取り出し、2つを並べる。黒い猫と白い猫。チェーンに揺られてじゃれ合っているようだった。


「もうなくさない」

 そう呟いて、手のひらで2匹の宝物たちを握り締める。夕焼けの空の下、迷いも情熱も、まとめて抱きしめるように。そして私は立ち上がった。

 

 ☆

 

 休日。サークル部屋には誰もいなかった。スコアやギター弦の包装が雑然と散らばって、少し苦笑いする。

 陽の光が薄く差し込む中で、ギターケースからギターを取り出した。ギターケースのファスナーには2匹の猫が並んでいる。実家に置いてきたエレキギター。両親に電話をし、送ってもらった。「またやる気になったんだな」と父は電話越しに笑っていた。そして「勉強もちゃんとやれよ」と釘を刺された。

 

 中学の軽音楽部を辞めた後も、ギターには時折、練習していた。1人で。大学受験の頃ぐらいからほとんど触らなくなってしまったけど。だから夏希が「ずっと1人でドラムを叩いてた」と言ったとき、そんな自分の姿を思い出していた。未練があった、と今なら認められる。

 チューニングをし、6つの弦を一度に鳴らす。それは、久しぶりに再会した旧友のような感覚だった。そして、あいさつ代わりに、おそるおそる昔、練習した曲を弾いてみた。ところどころおぼつかない部分はあったけれど、思いのほか弾くことできた。身体が覚えている、とはこういうことなのだろう。安堵感を覚えた。


 そのとき、不意に背後から声がした。


「練習熱心だね、キミ」

 振り向くと、そこには夏希が立っていた。開けっ放しだった扉の向こうから、まるで偶然通りかかったような顔でこちらを見ている。その笑顔はどこか嬉しそうで、ちょっとだけいたずらっぽかった。


「……見てたんですか?」

 私はギターを抱えたまま、少し恥ずかしさを感じながら問いかけた。


「サークル室に忘れ物があってね。そしたら結がいた。驚いたよ」

 夏希はどこか浮ついているようにも見えた。

「言わなければ」と思った。私の想いを。あるがままの心を。しかし夏希に先を越されてしまった。


「ねえ、ちょっとついてきてくれる?」

 そう言って彼女は私をサークル棟の地下にある練習室に連れて行く。夏希が薄暗い部屋のスイッチを押すと、ドラムセットが私たちを出迎えてくれた。


「ちょっとね。ちょっと見せたいものがあってさ」

 夏希は自然な動きでドラムセットのスツールに腰を下ろすと、スティックを握った。夏希が真剣な表情になって、空気が張りつめる。そして彼女は何も言わずに、音を刻み始めた。


 はじめは慎重に、まるで何かを探っているかのようなドラミングだった。しかしリズムは徐々にスピードを上げ、音は迫力を増していく。胸まで響くそのビートに心臓を操られているような気分になった。そんな私の姿を夏希の視線が捉える。その瞳は、私を挑発していた。


「……なるほど。」

 意図は分かった。彼女は私に合わせてほしいと言っている。私は、応えられるだろうか。少しだけ不安が顔を覗かせる。そんな私の背中を押すように、拍動が全身に響き渡ってくる。私は意を決した。


「待ってください」

 そう言って、私は近くにあったアンプにギターをつなぎ、肩にギターをかけ直す。そして、夏希に視線を合わせる。彼女が小さく頷く。


 ピックを弦に乗せて息を吸った。吐き出すようにコードを1つ鳴らし、リズムに合わせるように音を乗せた。瞬間、部屋の中に音楽が生まれる。生まれたばかりの名もなき音楽。それは拙いながらも、確かに夏希と私の音が絡み合って作り出したものだった。

 ドラムとギター。音の波がぶつかり合い、地下室全体が振動する。ギターの叫びとドラムの轟が、私の肌に刻まれて、血流まで溶け込んでいくのを感じた。不安も恐れもアンプを通じて変換され、歓喜の歌となって脳内に駆け巡る。ただただ気持ちがよかった。ずっと夏希とこうしていたいと思った。

 

 最後の音が部屋に溶けるように消えたとき、私は思わず息を飲んだ。音が消えた後も、胸の鼓動は収まらなかった。

 汗が床へポトリと落ちた。私は顔を拭い、夏希の方を見た。夏希も汗をかき、インナーを湿らせていた。そして2人は視線を合わせる。その表情は満足そうで、でもどこか照れくさそうだった。そんな彼女を見て、私の胸は不思議な熱でいっぱいになる。ただ楽しかった、だけではない。切なく締め付けられるような想いもあった。


 私はずっと、恐れていた。他人にも。バンドにも。でも今はすべて弾け飛んだ。暗闇の中でくすぶり続けた情熱が噴火するように溢れる出る。私はまた音楽をやりたい。誰かと、夏希と一緒に。


「……私、誰かとドラム叩くのはじめてだったよ。どう?私のドラム?気に入ってくれたかな?」

 夏希が息を弾ませながら言った。興奮を隠しきれない声色が、セッションの余韻の中で響く。


「……よかったです」

 そうじゃない。もっと言うべきことが私にはある。ギターを思い切り轟かせるように。


「……もっとやりたい……もっとやりたいです!……私、バンドやりたいです!」

 大きな声が出た。自分でもびっくりするくらいの。不安や恐れ、私に蓋をするものはない。目の前には夏希だけがいた。孤独な夜を終わらせる太陽のように明るい笑顔がそこにあった。


「私も、結とバンドをやりたい。じゃあ、これからよろしくね」

 新しい物語の始まり。音楽と、仲間たちとの日々の序章。その確信を胸に、私はもう一度ギターの弦に指を置いた。

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