1-4

 大学の中庭にあるベンチで、一人昼食を食べていた。春の日差しの下、談笑している学生たちの声が聞こえてくる。そんな眩しい光景から私は目を背けた。噛り付いたサンドイッチのマスタードの風味がやけに鼻についた。


「ここにいたんだ」

 聞き覚えのある声に顔を上げると、夏希が立っていた。長い髪を肩に流し、微笑むその姿は、まるで別の光の中から現れたかのようだった。


「どうしたんですか?」

 声が少し上擦ったのが、自分でも分かった。


「結の姿を見かけたから」

 短く言ったその言葉に、不意を突かれた。胸の奥がじわりと熱くなった。喉が締めつけられて、言葉を飲み込む。


「講義が終わったら軽音サークルに行くけど、結も来る?」

 夏希が尋ねる。その声は、以前と変わらず穏やかだった。


「……まだ入るか悩んでいて」

 嘘をついた。でも、それ以外の言葉が見つからなかった。


「そっか」

 夏希はそれ以上何も言わなかった。二人の間に沈黙が流れる。木の枝を揺らす風の音だけが、私たちの間を埋めていた。

 本当は聞きたかった。「なぜ私とバンドがやりたいんですか?」と。でも、その言葉は喉元で引っかかり、代わりにこう尋ねていた。


「……なぜ夏希さんはバンドがやりたいんですか?」

 少し間を置いて、夏希さんは口を開いた。


「私、高校に入ったあと、大きな病気にかかっちゃってね。結局、1年休学することになったんだ」

 意外な話だったけど、驚きはしなかった。むしろ納得感すらあった。夏希は、他の同級生たちよりも大人びて見えるから。


「だから、実は私、結より1歳年上なんだ。」

 夏希は笑いながら言った。照れ隠しのその笑顔は、少し切なげに映った。


「……入院中、すごく寂しかった。周りから取り残されたような気がして……でも、音楽を聴いているときだけは、その辛さを忘れられた。それでね。元気になったら、ドラムを始めたいと思ったんだ」

 夏希は淡々と話す。しかしその言葉には重みがあった。


「そしてドラムが上手くなったら、誰かとバンドを組みたいなって。ずっと……ずっと病院で考えていた……」

 切実な理由に、どう答えたらいいか分からない。頭の中で思いついた言葉は、どれも軽薄な響きに聞こえる気がした。

 夏希は私に視線を向ける。そして少し困ったような顔をして、こう言った。


「ねえ、結……バンドの話、なかったことにできる?」

 突然の言葉に、私は固まった。


「え……どうして?」

 気づけばそう聞いていた。


「これじゃ、私の想いをあなたに一方的に押し付けているみたいだから。」

 夏希の言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。そのまま止まってしまいそうだった。

 

「結を迷わせちゃうの、嫌だからさ」

 そう言って、夏希は微笑んだ。コンパで私を気遣ったときの、優しい笑顔だった。その瞬間、予鈴のベルが鳴り響いた。


「それじゃ、また会ったら」

 夏希は立ち去っていく。春風が彼女に向かって吹いていた。私は何も言えず、呆然とその背中を見送る。


 ――バンドの話、なかったことにできる?

 その言葉がリフレインする。夏希がそう言った瞬間、突き放された、と感じた。私と彼女の距離が二度と埋められないほど離れていく気がした。


「そんなのは嫌だ」

 これが私の本心だった。私は夏希に惹かれている。でもこれから彼女は私から離れていく。彼女に曖昧な態度をとって、彼女の優しさを疑って、ようやくはっきり理解できた。だけど、何もできなかったし、何も言えなかった。吐き出しそうになるほど苦しくて、ただただ情けなくて、惨めだった。

 そのとき、ポケットの中のスマホが振動した。着信画面に表示されていたのは、あの雑貨屋の名前だった。


「もしもし……?」

 電話に出ると、店員の声が聞こえる。


「あの、お客様がなくされたとおっしゃっていたキーホルダーが見つかりました。」

 失ったものが見つかった。まだ揺れる心を抱えたまま、私はスマホを耳に当て続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る