1-3

 ――――私と、バンドをやらない?

 その言葉が耳に届いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。

 夏希は、長い髪を撫でながら、照れたように笑っている。その表情に心を揺さぶられ、私は視線を彷徨わせてしまう。落ち着こうとドラムセットに目を向けたが、鼓動はコントロールできない。

 

 「あなたとバンドがしたいの」

 穏やかな声で、夏希はもう一度言った。その表情から照れは消え、まっすぐな瞳からは真剣さが伺えた。彼女の視線を受けて、胸の心拍数が上がっていく。しかし頭が締め付けられるように痛い。


 「……そんなこと、急に言われても……」

 気づいたら口をついて出たのは、そんな消極的な言葉だった。夏希に誘われて、嬉しさがなかったわけじゃない。ただ、その感情を拾い上げる前に、心のどこかで何かが固く閉じてしまうのを感じた。


 「無理にとは言わないよ。けど、もし少しでも興味があったら考えてみてほしい。」

 夏希の言葉は、私の心の中の閉じた扉を無理にこじ開けようとするものではなかった。ただ、その優しさに怯える自分がいた。


 結局、何の返事もできないまま、私は曖昧にうなずいただけだった。


 朝の冷たい風が頬に刺さる中、私は自分の部屋へと歩いていた。夏希の言葉が、まるで部屋を飛び出して私に纏わりつくように離れない。


 「バンドか……」

 鍵を開け、部屋に入ると、飲み会で着たままの服の汗ばんだ感覚が急に気になり、私はそのままバスルームへ向かった。


 服を脱ぎ棄て、シャワー室に入る。シャワーをひねると、温かい水が頭上から降り注ぐ。その瞬間、溜息とともに全身の力が抜けた。


 夏希のことが頭から離れない。彼女を求める気持ちが、心の奥底で湧き上がるのを感じる。

 けれど、その感情を正面から受け止めることが、どうしてもできなかった。


 「……どうせ、また裏切られるだけかもしれない。」

 先輩のことを思い出すたび、心が締め付けられる。私が憧れて、好きになった先輩。「ギターが上手いね」と優しい笑顔で私にいってくれた先輩。

 でもあの人は、ただ「演じていただけ」だった。それを知ったときの痛みは、未だに私の感情に蓋をして、重く圧しかかっている。


 ―—――私と、バンドをやらない?

 本当に夏希はそう思っているのだろうか?誰に対しても同じことを言っているだけではないだろうか?あの優しさは本物なのだろうか?……シャワールームの中で反響する、水の音と陰鬱な感情。それは止まない雨のように、ゆっくりと私を沈めていく。私はシャワーを止め、湯気の中で小さく息を吐く。


 シャワールームから出ると私は濡れた髪をドライヤーで乾かし、ラフな部屋着に着替える。

 今日は休日だ。大学に行く必要もなく、部屋でゆっくりできる日。それなのに、心は落ち着かず、浮ついているような感覚だった。

 朝食を軽く済ませた後、机に向かって大学の課題を進める。レポート用の資料を広げ、文字を追いかけるけれど、どうにも集中できない。時計を見ると、もう昼を少し過ぎていた。

 

 「ここまでにしておこう……。」

 深くため息をついてペンを置き、椅子にもたれる。部屋の中に閉じこもっていると、考え事ばかりが増えてしまう。思い切って、外へ出ることにした。


 最寄り駅から電車に乗り、二駅先の繁華街へ向かった。東京23区外の街だけど、私の地元とは比べられないぐらい賑わっているだ。

 駅前にはアーケード街があり、人々が駅から吸い込まれるようにそこへ流れていた。アーケード街のカフェで昼食を済ました後、気になっていた雑貨店に立ち寄った。私の好きなキャラクターのグッズを取り扱っている。既に私の手提げカバンには、その作品に登場する白い猫のキーホルダーがぶら下がっている。手に取ったのは彼の親友の泣き虫な黒い猫。並べてあげたいなと思った。レジに向かいながら、いつしか心が穏やかになっている自分に気づく。

 会計を済ませると、店内が混み始めてきた。店に入って来た女性客にカバンが当たり、私は無言で頭を下げた。女性客はそのまま店の奥へと通り過ぎていく。当たったことすら気付いていないようだった。

 雑貨店にはまだまだ気になるものがあったけれど、そろそろ潮時だろうと考えて店を出ることにした。まだまだ時間も行き先もある。これから、どこへ行こうかと考えていたそのときだった。


 どこかから、ギターの音色と歌声が聞こえてきた。

 音のする方を向くと、道端の少し開けたスペースに一人のミュージシャンがいた。スピーカーもなく、アコースティックギターを抱えて、静かに歌を紡いでいる。立ち止まる人はほとんどいない。それどころか、彼の前を通り過ぎる人々は、まるでそこに彼がいないかのように素通りしていく。その光景に思わず胸がざわついた。


 私は立ち止まり、彼の姿をじっと見つめた。ギター一本で、流行りの曲を歌っている。無表情とも思えるほどに淡々とした歌いぶりだった。その歌声には特別な派手さも、強い感情の揺さぶりもない。ただひたすら言葉を真っ直ぐに伝えようとしているように感じられた。


 人々が通り過ぎていく中で、どうして歌い続けることができるのだろう。彼の歌声そのものよりも、その心境に興味を引かれる。自分の音楽が誰にも求められていない。私だったら、その現実に、絶対心が折れてしまうから。

 ずっと前の私はバンドに憧れがあった。大好きなスピッツみたいに仲間と演奏したいと思っていたし、派手な髪型でステージに立つのもいいかな、なんて思っていた。

 だけど先輩に会って、先輩に嘘をつかれて、何もかもが怖くなってしまった。


 ――——私にはやっぱり無理だ。


 その思いが胸を締め付け、私は目をそらしてしまう。もう帰ろう。足を早め、ミュージシャンの前を通り過ぎた。歌声はいつまでも背中を追いかけてくるようで、平静でいられなくなる。


 息を乱しながら、駅に着いた私は、改札を通るため、手提げカバンからスマートフォンを取り出した。そのとき、ふと違和感を覚えた。


 「……あれ?」

 いつもカバンにつけているはずのキーホルダーがない。友だち想いで、いつもニコニコしている白い猫のキーホルダーが。

 どこかで落としてしまったのだろうか。雑貨店だったか、それとも別の場所だろうか――。

 心臓がざわざわと騒ぎ出す。私は再び足を踏み出し、来た道を引き返していった。雑貨店の店員に事情を説明したが、該当する紛失物は届いていなかった。他に思い当たる場所も探してみたけど見つけられなかった。きっと、彼は二度と戻ってこないだろう。

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