第7話 ジーク・フェスター

食堂の扉を開けた瞬間、七瀬の足が一瞬止まった。


広々とした空間、ピカピカに磨かれた床。

賑やかな笑い声や軽やかな談笑が耳に飛び込んでくる。

しかし、七瀬にとって、ここは居心地の良い場所ではなかった。


一歩足を踏み入れた途端、空気が微妙に変わるのを感じる。

一瞬だけ会話が途切れ、いくつもの視線が七瀬をかすめた。


「……またか」


VR訓練でジークに勝ったあの日から、他の候補生たちは七瀬を避けるようになった。

表立って嫌がらせを受けるわけではない。

だが、そこには確かに見えない壁があった。


(俺が勝ったから、なんだろうか?)


候補生たちは全員がライバルだ。

流石にVRでの勝利を祝福されるとは思っていない。

ただ、ここまで露骨に距離を置かれると、


(それなりにヘコむな……)


いっそジークのように、他者に無関心でいられたら……

そんな考えが頭をよぎる。


七瀬は小さく息を吐き出し、食事をトレーに乗せて席に向かった。

その途中、耳に引っかかる言葉が七瀬の足を止める。


「アイツの裏切りさえ無ければなあ」


背筋に冷たいものが走る。

それは、イーサンの声だった。


『裏切り』

ーーその言葉が、七瀬の心に突き刺さった。


「自分から連携を持ちかけてきたくせに、突然裏切るからな。お前らも注意した方がいいよ。カエデにはさ」


イーサンが他の候補生たちにそう語る声が聞こえた。


(俺が……裏切った?)


脳裏に浮かぶのは、あの日のジークとの死闘。


イーサンが不用意に身を乗りだしたことでライフルを破壊され、状況は一気に悪化した。

シールドを飛び越え、イーサンに容赦無く迫るジークの姿。


確かにあの瞬間、七瀬の頭に「助ける」という選択肢は浮かばなかった。


どうすればジークを倒せるかーー

考えていたのは、それだけだった。


ただ、あの即席の連携は最後には敵同士になることが暗幕の了解だったはずだ。


(これは……裏切りなのか?)


胸の奥に重苦しい疑問が広がる。

言い返したい気持ちがないわけではない。

だが、否定しきれるほどの確信もなかった。


「おい、あれ」


候補生の一人が七瀬を指差す。

振り返ったイーサンと七瀬の目が合った。


イーサンの視線には、怒りとも侮蔑ともつかない冷たい感情がにじんでいる。

耐えきれず、つい七瀬は目をそらした。


トレーを持つ手が小刻みに震える。

七瀬はキッチンに向かい、小さな声で謝りながら、食事の載ったトレーをそのまま返却した。

そのまま足早に踵を返し、食堂を後にした。



自室に戻った七瀬は、扉を閉めるとそのままベッドに倒れ込んだ。


「あれじゃ……イーサンの言葉を認めたみたいじゃないか……」


絞り出すような声が漏れる。

七瀬はシーツを両手で掴み、ぐしゃぐしゃに握りしめた。


(俺自身は、あの時のことをどう思っている?)


2枚のシールドでイーサンと連携し、残り3人まで生き残った。

そして、最後のジークとの駆け引きに、勝った。


自ら描いた勝利の絵図が、あの瞬間、現実のものとなった。

その時の高揚感が、今も胸の奥でじわりと熱を帯びる。


「やれるかな……」


1度の勝利では、自分に才能があるかはまだ分からない。

ただジークを打ち倒し、勝利した瞬間の快感。

それは、七瀬の中の何かを呼び起こした。


「また、戦いたい」


気がつけば、イーサンの言葉は頭の中から完全に吹き飛んでいた。


******


その部屋は荒れ果てていた。

候補生たちに割り当てられた簡素な一室。

ベッドは無造作に乱れ、机は倒され、床には書類や小物が散乱している。


部屋の主、ジークは、肩で荒い息をつきながら、拳を握りめて立ち尽くしていた。


「あああっ……!」


荒々しい感情の爆発が、部屋に響き渡る。


ジークは突き動かされるように拳を振り上げ、ベッドのフレームに全力で叩きつけた。

鋭い衝撃音とともに木材が軋み、彼の拳からわずかに血が滲む。


「……俺が、負けた」


その言葉は、自分自身への憤りと屈辱そのものだった。

あの日以来、敗北の瞬間が、何度も脳裏をよぎる。


七瀬の放った奇策

ーーシールドを投げ、その裏から放たれた必殺の一撃。

対する自分は、その一瞬を判断を誤った。


「くそっ……!」


全身に湧き上がる破壊衝動が、理性をかき消そうとする。

再び拳を振り上げた瞬間だった


『はらり』


小さな音が、静寂の中で鮮明に響いた。

ジークは反射的に音の方に目を向ける。


床に落ちた財布が、散乱した書類の中に埋もれていた。そこから、1枚の写真がわずかにはみ出している。


眉をひそめながら、ジークはそれを拾い上げた。その写真には、幼い少年と少女が写っていた。


「……リリア」


かすれた声で名前を呟く。

少年は12歳のジーク、少女は10歳の妹ーーリリア。


離れ離れになる前に撮った。二人だけの最後の写真。ジークが持つ、唯一の思い出だった。


写真を持つ手が思わず震える。

この写真を最後に見たのは、いつだっただろうか……



妹、リリアの快活な笑い声が、ふと記憶の奥底から蘇る。


「私も、うーんと勉強して、たくさんお母さんとお兄ちゃんを助けるね!」


彼にとって、リリアは何よりも大切な存在だった。その笑顔があったからこそ、ジークは苦しい境遇を耐え抜くことができたのだ。


父は、ジークが5歳に亡くなった。

母は生まれつき体が弱く、安定した仕事に就くことは叶わなかった。


「おい見ろよ、貧乏兄弟だ!あいつらまた同じ服着てるぜ!」


からかわれ、いじめられた。

それでも幼いジークは絶対に屈しなかった。


「母さん、泣かないで。俺、絶対負けないから。何があっても」


貧しさやいじめに耐えるジークとリリアを見て、母は何度も涙を流した。


その涙を見たくなくてーー

ジークはその頃から、強さを求めるようになる。


腹が減って眠れない夜もあった。

それでも、家族3人で過ごす時間だけは、ジークにとって何よりもかけがえないのないものだった。


だが、その時間はあまりにもあっけなく終わりを迎える。


ジークが12歳の時、母は亡くなった。

死因は過労による階段の転落。家族の時間は、一瞬で崩壊した。


ジークとリリアは一緒に児童養護施設に預けられるはずだった。

しかし、突如現れた遠縁の親戚が、リリアだけを引き取った。


10歳のリリアは、幼いながらも将来の美しさを予感させる顔立ちをしていた。

一方、喧嘩に明け暮れる問題児のジークは、必要とされなかったらしい。


「嫌だ!お兄ちゃんと一緒がいい!」


リリアは涙をぽろぽろとこぼし、声を張り上げて泣き叫んだ。小さな手はジークの服を必死で掴んで離さない。


親戚は、かつて母が頼っても門前払いにしたようなやつらだ。


だが、彼らの身なりはよく、生活に困ることだけはなさそうだった。

この親戚のもとに行けば、少なくともリリアだけは金で苦労をせずに済むだろう。


『リリアと引き裂かれる自分の痛み』

『リリアの幸せ』

ーーどちらを選ぶかは考えるまでもなかった。


「お前の面倒を見るのは、もううんざりなんだよ!」


12歳のジークは、自分の心に蓋をした。

泣き叫ぶリリアを振り払い、一方的に背を向けて去った。その背中に、小さな叫び声がいつまでも突き刺さった。


それ以降、妹とは会っていない。


3年後ーー


「ジークには決して手を出すな」


児童養護施設で、自暴自棄になっていたジークはそう言われていた。

少しでも挑発されれば、相手が複数だろうと容赦なく叩きのめす。


いつしか誰もジークには近寄らなくなっていた。

そんな彼の元に、一通の手紙が届く。


差出人はーーリリア・フェスター

最悪の形で別れた妹からの手紙だった。


『お兄ちゃんへ、元気にしてますか?』


そう書き出された手紙には、何度も、何度も、ジークを気遣う言葉が綴られていた。


そして最後の一文に、ジークの目は釘付けになる。


『もし叶うなら、いつかまたお兄ちゃんと一緒に暮らしたい……。面倒な妹でごめんね』


震えるような筆跡。

その言葉は、ジークの胸を強く締め付けた。


(俺は、最悪の兄だ……)


「リリアの幸せ」を願い、別れを選んだ自分。


だが、それはジーク自身の勝手な思い込みでしかなかった。

リリアの本当の気持ちを、何一つ考えていなかったことに今更気づく。


「どうしたら、リリアの願いを叶えられる?」


児童養護施設にいる15歳の自分には、経済力も社会的信用もない。


それでも、何年も時間をかけるのは論外だ。

できる限り早く、リリアの望みを叶える。

そのためなら、どんな手段も厭わない。


だからーー『あの女』に頼るしかなかった。


交わした約束は「サイバーネクストプログラム」でプロ契約を勝ち取ること。


「サイバースーツは金のなる木さ。今年のチャンピオンの年収は150億、トップチームの収益は800億円。その市場に、アタシも1枚噛みたいんだ」


思い出すのも忌々しい、甘ったるい声。


「ジーク。そのための投資はしてあげる。でも、失敗したら分かってるわよね?」


その言葉が耳にこびりつく。

だが『あの女』との約束などどうでもいい。


元より、ジークにとって手段は選ぶつもりなどなかった。

リリアのために、絶対に敗北は許されない。

ジークの目が冷たい光を帯びる。


「カエデ・ナナセ…」


彼を負かした男の名を呟く。


オーラも威圧感もない。だが、妙に鋭い視点を持つ候補生。

自分にはない発想があると、認めざるを得ない。だが、負け続けるつもりは毛頭ない。


「……次はないぞ」


その言葉と瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。

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