第10話 昼間の月
「ここは片付けておくから、そろそろあなたは戻ったほうがいい」
「もう少し大丈夫よ」
「公爵令嬢さまが息を切らして教室に駆け込むわけにはいかないだろう」
彼女が小さく息を吐いた。ありがとうと、握っていた剣を俺に差し出す
「公爵令嬢なんて本当に面倒ね」
口ではそういいながら髪をさっと撫でつけ、リボンやスカートのひだを整える。
「じゃあ、シグルド。また明日ね!」
軽く手を上げて応える俺にくるりと背を向けて、教室ではなくサロンのある建物へと足早に遠ざかっていく。細い背中が見えなくなるまで、俺が見送っていることを彼女は知らないだろう。
「王子さまと結婚したいわけじゃないんだな……」
小さな俺のつぶやきが空気に溶ける。銀の髪がふわりと靡いて建物の角に消えた。
「さて、俺もいくか」
二本の剣を手にして、それから、ポケットにしまったハンカチを取り出して額を拭う。竜の側面を描く黒い糸、彼女が俺のために。
「俺、強くならなくちゃな」
ハンカチを強く胸に押し当てて目を閉じる。浮かぶのは銀色の面影、先程みたばかりの無邪気な笑顔。
竜を倒せるくらいの冒険者。数百年前にはいくつか向こうの国にいたという、伝説の存在だ。人と竜が争うことはなくなったから。人は竜を恐れ、竜は人を厭い。その生活圏を人が足を踏み入れることがかなわない、雲の上に頂きのあるような険しい山に移して久しいという。今ではすっかり、子供への寝物語と絵本の中でしかその姿を知ることはできない。
だから本当に竜を倒すということではなく、それくらい強い冒険者ということだろう。全く。田舎ギルドの冒険者に無茶をいってくれる。『俺にできることならなんでも』といったのに、そこは聞こえなかったのだろうか。楚々として見えるのに、実は結構せっかちなところがあるからな。口もとがふ、と緩むのが自分でもわかった。
ハンカチをポケットにしまいこみ、彼女とは逆方向に俺は歩き出した
「なんなりと、お姫様」
空には遠く小さな昼間の月。彼女の助けになりたい。できないことでも―。
「今日も訓練か? 精が出るねえ」
ロッカー室でクラスメイトのトーマスに鉢合わせた。彼も下級貴族、子爵家の次男でお互いに家督を継がない身であることもあり、学院の中でも気楽な付き合いができている。何事にも如才なく、洗練された都会の貴族らしい彼と気が合うのは不思議だ。
「お前だって卒業したら騎士の試験を受けるんだろう? 怠けていて大丈夫なのか?」
「訓練くらいしているよ、学院の昼休みにまでやらないだけさ」
「俺は冒険者なんだ。腕のなまりは死活問題になる。魔物は合格をくれる試験官じゃない、倒さないといけないからな」
二本の剣を個人ロッカーにしまい、鍵をかけた。その様子を彼がじっと見ている。
「なんだよ?」
「いつから双剣使いになったの?」
「どうでもいいだろ」
部屋を出ようとする俺の横に、ぴたりと彼が寄ってきた。そのまま並んで教室へと歩き出す。
「最近、公爵令嬢サマと仲良しなんだって?」
冷やかしというには低い声。
「そんなんじゃないよ、俺が訓練しているところにたまたま通りがかっただけ。冒険者に興味があるみたいだ。物珍しいんだろう」
「なるほどね、どういう風の吹き回しだか知らないが、確かに公爵令嬢サマともなれば冒険者を生で見られるのは学院くらいのものだろうしな。探せば冒険者は他にもいるだろうけれど、昼休みにまで剣を振っている酔狂なのはお前くらいか」
上手いことやったじゃないか、と肘で小突かれる。
「だから、そういうんじゃないって」
「まあ、いいけど。あんな裏庭に通りかかるなんて、あの人も学院の中で余程身の置き所がないんだろうなあ」
憐れむような物言いに、俺は苛立ちを感じた。
「どういう意味だ?」
「だって、婚約者があの調子だぜ」
窓の向こう、トーマスが流した視線の先には、貴族の集う学院に相応しい色とりどりの花々で美しく整えられた中庭。その一角で学院執行部の面々、王太子と噂の彼女、それからご学友と呼ばれる高位貴族令息たちが楽し気に談笑している。
「ご学友サマの婚約者たちが何度か諫めたらしいけど、奴ら『やましいことはない、あくまでも執行部の活動』の一点張りで聞きゃしないってさ」
通路を行き交う人間は皆足を止めることなく、不自然なまでにそちらを見ないけれど。俺は王子さまから目が離せなかった。金の巻き毛に緑の瞳。約束された次代の王。この国でたった一人、その名を呼ぶことを許された銀の月に手が届く男。
どす黒い気持ちが湧き上がり、ぐっと奥歯を噛みしめる。そんな俺に気づく風もないトーマスの気楽な声が聞こえてくる。
「どこまでいっても、王子サマと孤児院育ちの平民じゃあ先はない。いずれは自分と結婚するとわかっていても、あれじゃあ令嬢サマだって面白いわけないだろうさ」
そんなんじゃない、と口に出して否定することはできない。“婚約者を辞めたい”という彼女の本心は、二人だけの秘密なんだ。
「俺たち下っ端にはわからないけどさ、令嬢サマも気分転換なのかもしれないな。いつもとは変わったことをしてみているのかも?」
角を曲がり、華やかな中庭が視界からようやく消えた。返事のない俺の背中をトーマスがポンと叩く。
「今一時、お前の隣で剣を振っていたって。いずれ王妃になる人だってことを忘れるな。覚えが目出度くなるのなら、家のため将来のために役立つこともあるだろうけど。面倒ごとには巻き込まれないように注意しろよ」
急に優しい声になったことに、俺は驚いた。
「面倒ごとって、なんだよ」
絞り出された声は我ながら不機嫌そうなのに。
「王子サマと平民の色恋沙汰に、うっかり巻き込まれるなってことだよ」
トーマスは柔らかい声音のままだ。
「俺には関係ないことだ」
「あんまり令嬢サマに肩入れすれば、火のないところに煙を立てられるかもしれないぞ」
お前のほうはもう燻っちゃってるみたいだけど、と俺を見てニヤリとするトーマスに、何も言えなかった。
「あの平民女、王都で執行部の面々とお出かけしているところを何人にも目撃されているらしい。王子サマやご学友サマたちが何と言おうと『ただの友達』ではもう済まされない。婚約者サマたちの実家も怒り心頭って話だぜ」
怖い怖いと、トーマスが大げさに身震いしてみせる。
「高位貴族が学院内のことに口出ししてくるっていうのか?」
「そんなことをすれば狭量だと揶揄されるだろうからな、学院にいる間はむしろ何もないだろう。だけど、特待生だ執行部員だと今はちやほやされたって、卒業しちまえばただの平民なんだ。とりわけ、令嬢サマの実家は王家に次ぐ天下の公爵家だぜ? 王子サマやご学友サマが何をいったところで、目につかないところでやりようはいくらでもある」
「彼女がそんなことを望んでるようには思えない」
「ああ、諫めているのはご学友の婚約者サマたちばかりだっていうな。しかも、令嬢サマのほうは王子サマに執行部に誘われたらしいぞ」
驚きに目を見開いた俺に、トーマスで皮肉そうに笑う。
「今さら何をってなあ。でも、令嬢サマは『慈善活動に集中したい』とすっぱり断ったって。王子サマの気をひくための点数稼ぎなんていってた奴らもいたけど。さすがは月の女神だよな」
スカっとさせてくれるぜ、とトーマスが陽気な声でいう。そうか、王子の誘い、断ったんだ。俺も覚えず笑顔になった。
それからは二人で話すこともなく歩いた。行き交う人の会話が意味をなさない音としていくつも通り過ぎていく。残り少ない昼休みを満喫する、のんきな学院の日常。
教室を目前に、トーマスが真面目な声音を潜めていった。
「令嬢サマ本人は意に介さないかもしれない。でも実家のほうはそうはいかないさ。貴族の頂点、天下の公爵家のメンツを潰したんだ。いずれ平民本人にも実家たる孤児院や教会にも、何かしらの報復がきっとある」
足を止め、通路の端で俺たちは向き合った。
「それはお前にも言えることだ。王子サマが今は別の女に目が向いていても、その時になれば、嫁と親しかった男なんて面白くない存在だろう?」
「俺は……」
「お前は気のいい奴だ。令嬢サマでなくたって気の毒な女がいたら優しくしちまうんだろう。でも、それは俺が友達だからわかってやれることで、世間はそうは見てくれない。俺は、お前があの平民女みたいにいわれるのは嫌なんだ」
「俺、そんなつもりは」
「わかってるさ、俺はな。でも、俺だってただの下っ端貴族だ。こうしてお前に話すことしかできない」
ごめんな、とトーマスがいった。
「お前自身は将来冒険者になるといっても、実家は男爵家のままで、王子サマは将来王サマになるってことを忘れるな」
「実家?」
「ああ、お前の親父も、いずれは家督を継いだ兄貴もアノ王サマの家臣になる。下っ端だって、俺たちは貴族の世界で生きてるんだぜ」
返す言葉もなく、俯いた俺の上からトーマスが労わるような声でいう。
「思いがけずに月の女神さまの傍にいられる機会があればさ、大それた思いを抱いてしまうことだって男なら仕方ないさ。でも、育てて咲かせたところで実のつかない悲しいだけの花だ。つぼみになる前に摘んでしまえよ」
トーマスは俺の肩を一つ叩き、足早に教室に入っていった。
午後の授業の開始を告げる鐘が鳴っても、俺は、そこから動くことができなかった。
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