第9話 初めての友達


「シグルド!」

昼休み、いつもの場所に向かって声をかけると、打ち込みを止めて彼が振り返る。私に向かって軽く剣を左右に振った。随分と容易い動作に見えるけれど、あの剣、とても重たいのに。

「すごい汗ね、いつから訓練をしていたの?」

「昼飯のあとからだから、でも、まだ10分くらいだよ」

「10分でそんなに汗をかいて、昼休みが終わるまで訓練していたら倒れてしまわない?」

シグルドが肩を竦めた。


「魔物は時間を決めて活動するわけじゃないからね。小一時間振り続けてへばるようじゃ討伐には出られないよ」

「冒険者ってすごいのね」

感心する私に、琥珀色の瞳が優しく細められた。

「そんな風にいってくれるのはあなたぐらいだよ」

「みんなはシグルドの凄さをわかっていないのね」

シグルドが大きな手で顔を覆った。

「冒険者としては当たり前のことだから、もうそれくらいで勘弁してください」

「しょうがない、許してあげるわ」

「どうも」


シグルドがまた生え際の汗を手で拭おうとした。

「待って、これ使って」

私が差し出したハンカチを、シグルドがじっと見つめている。

「いつもそうして手で拭っているでしょう? ハンカチがあったら便利かと思って」

「これ、俺に?」

「剣を教えてもらったり、刺繍小物を売ってもらったり。いつもお世話になっているでしょう?」

ハンカチを差し出しても、彼はじっと見つめるばかりだ。


「これ、もしかしてあなたが刺繍してくれたのか?」

「そうよ、黒い竜。かっこいいでしょ?」

「俺がもらってもいいの?」

「そういっているじゃない。実はね、ほら、5枚あるのよ。洗い替えも必要でしょ」

ポケットから残りの4枚を取り出して重ねた。彼の前にずいっと差し出す。

「ありがとう、嬉しいよ。大事にする」

彼がおずおずと、でも嬉しそうに受け取ってくれた。

「あ、しまい込んじゃだめよ。ちゃんと使って」

全部をポケットに入れようとしたシグルドが笑って、1枚を取って汗を拭いた。


「これでいいか?」

「いいわ。これからは毎日ちゃんと使ってね」

「努力する」

「ハンカチを使うことに?」

驚いて、私は少し声がひっくり返ってしまった。


「こんな高級な布だし、それに使ったり洗ったりしたら、せっかくの刺繍が取れてしまわないかと思って」

「刺繍なんてほつれたら直せばいいのよ。それに、まずは5枚なの。まだ別の竜の図案を制作中なのよ」

「あまり無理しないで、売り物だって寄付用だって作らないといけないんだろ」

「あなたの分のほんの何枚かくらい、どうってことないわ。次はね、正面に翼を広げた竜にしようと思うんだけど、シルエットだけだと竜に見せるのが難しいのよね」

なんかこうもりっぽくなってしまう。前世でいろいろな竜の絵を見た記憶はあるのだけれど、私には残念なことに再現するための絵心が足りないようだ。


「初対面の時から思っていたんだけど、なんで竜なんだ?」

「最初からいっているじゃない。あなたならきっと、竜を倒してしまうくらいの冒険者になるって思っているからよ」

「田舎ギルドの冒険者にそんなこといってくれるの、ほんと、あなただけだよ」

お世辞じゃないわよ、と言い募る私に、シグルドが参ったなあと頬を掻いた。


「私、シグルドにとても感謝しているの。ハンカチくらいじゃ追いつかないくらい」

「そんな風にいってもらえる程、大したことしていないんだけどな」

「シグルドにとっては大したことがなくても、私には大切なことばかりなの」

「そうか。他にも何か俺にできることがあったらいってくれ」

「ほら、そういうとこ」


シグルドが不思議そうな顔をする。

「恥ずかしいんだけど、私、この年になるまで友達らしい友達がいなかったの。こんな風に一緒にお昼休みを過ごして、お喋りしたりするのも初めてなのよ」

シグルドが驚いて、言葉を失ってしまったようだ。そうだよね、そんな人普通じゃないよね。


「10才の頃に婚約が決まってね、将来王族になる立場になったからには特定の家と付き合いが偏ってはいけないって王家から指示されて。誰とも公平に、深入りせずに満遍なく付き合って、誰とも仲良くなれなかった」

「ヴィクトリア……」


思わずといった風に、彼の口から零れた私の名前を聞き逃しはしなかった。

「あ! 聞いちゃった! シグルド、今私の名前を呼んだわね」

シグルドが大きな手で口を抑えた。

「聞かなかったことにしてください」

「だめよ、もう聞いちゃったもの。これからずっと、そう呼んでくれていいのよ」

「それは、本当にごめんなさい」

背の高いシグルドがペコリと頭を下げた。燃えるような赤い髪の中のつむじを、私は初めて見たのだった。


「私のほうこそ、無理をいってごめんなさい。わかっているの。身分が上の人の名前を呼び捨てにしているところを見つかれば、処罰されることもあるのだもの。私は将来王族になるといわれてなおさらみんなが気を使ってしまうのよね。仕方ないわ」

「ごめん」

私は首を左右に振った。


「私の名前を呼べるのは家族と王妃様と殿下だけ。それ以外の人からは、小さい頃からずっと家名で呼ばれて。一度だけでもシグルドに名前を呼んでもらえて嬉しかった」

仲良しっぽいでしょ? とお道化てみせる。

「高位貴族って大変なんだな」

『王太子の婚約者』といわないところが、シグルドの優しさだって私はわかっている。

「俺たち、友達になろう。すごく仲良しの」

「うん、ありがとう」

少し寂し気な琥珀色の瞳。同情してくれている。シグルドは本当に優しい人だ。


「ねえ、お友達に聞いて貰いたいことがあるの」

「なんなりと、お姫様」

シグルドが胸に手を当てて頭をさげる。

「騎士みたいね」

「冒険者だけどな」

顔を見合わせて二人で笑った。楽しい。こんな気楽なおしゃべりは前世ぶりじゃないかな。前世の友達のように、シグルドにならなんでも話せそう。


「この間ね、王妃さまにお城に呼ばれたの。二人でお茶をしたのよ」

「高位貴族って本当に大変だな。俺なら寝込んじまう」

「学院でも、社交界でも、殿下とあの彼女のことは有名でしょ」

悲痛な顔を見せるシグルドに笑ってみせた。


「違うの。噂みたいに、殿下の気持ちを失って私が苦しんでいるって話じゃないの。私は、婚約者を辞退したいと思っていてね。殿下にもそう伝えたの。父にも」

シグルドが息を呑んだ。

「なんだけど、王妃さまは一時のことなんだから大目にみてやれっていうの。殿下もね、将来王様になって息苦しい生活を送ることがわかっていて、学院時代だけが羽を伸ばせる時間なんだって。父も、将来結婚するのは私なんだから、王妃になるんだから広い心を持てって」


「あの、あなた婚約者を辞めたいの?」

私は大きく頷いた。

「他の人に恋をしている人と結婚する代わりに王妃になれますよっていわれても、私は全然嬉しくない。王妃さまも父も、王妃になることがすごいご褒美みたいにいうけれど。その代わりに人付き合いを制限されて、名前を呼んでもらうこともできずに、浮気を我慢して。お勉強、お稽古。これがふさわしいの、あれはふさわしくないの。我慢しなさい、もっと頑張りなさい。こうしなさい、ああしなさいって。いう通りにすれば、周囲からは『冷淡』だとか、『お高くとまっている』とかいわれちゃう。王妃なんてむしろ罰ゲームじゃない?」

「あー……」


シグルドが俯いて、小さく呻きながら額を抑えている。

「あなたの気持ちはよくわかった。でも、それ余所でいうなよ」

「わかってる。ここだけ、シグルドにだけよ」

シグルドが二度三度、頭を掻いて。それから小さく笑った。


「王子と結婚したいわけじゃないんだな」

「彼女でも誰でもいいから、早く交代して欲しいわ」

「声が大きい」

シグルドにツンと額をつかれる。

「ちょっと、私、公爵令嬢なんだけど」

「俺たちは仲良しのお友達、だろ」

顔を見合わせて、私たちは小さく笑った。


「王家に嫁がなければ私は王族にならないでしょ? なのに殿下は大目に見てやれ、可哀そうだって甘やかされて。我慢するのは私ばっかり。生まれながらの王族で、将来王様になるほうが頑張らないとおかしいと思う」

「下が我慢して頑張った成果を、上が掠め取るのが貴族社会だ」

「そういうもの?」

シグルドが困ったように微笑んだ。

「それも余所でいうなよ」

私は肩を竦めてみせた。


「自由になりたい」

思わず零れた呟きは聞こえなかったように、シグルドが私の背をポンと叩いた。

「ほら、今日はあなたまだ全然稽古していないじゃないか。昼休み終わっちまうぞ」

「はーい」

シグルドに差し出された手袋をはめ、剣を手に取った。




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