第7話 恋の奴隷

「お疲れ様、いつも頑張っているのね」

柔らかい声に、俺はハッと息を呑んだ。ゴクリと唾を飲みこんでゆっくり振り返る。昼過ぎの日差しに輝く銀の髪。紫の瞳が細められて、俺を見ている。

「また来ちゃった。お邪魔かしら?」

「いや、そんなことは……」


全然ない。本当に、また会えた。また来るといっていたけれど、あれっきり日が過ぎていき。俺はあの日のことはやっぱり幻だったんじゃないかと思い始めていたところだった。


「実は、今日はいろいろとお願いがあって」

「俺にできることなら」

思考が停止している俺が脊髄反射でそう答えると、彼女のほうが慌てる。

「そんな、内容も聞かずに承諾していいの? 私は助かるけれど」

慌てた顔もかわいらしい。思わず綻んでしまう顔を隠すようにうつむきがちに、俺は剣を鞘に納めた。


「じゃあ、お願いごとの内容を聞くよ」

「私に剣を教えてもらいたいの」

先程とは打って変わったその真剣な声に驚いて、俺は彼女の顔を見つめた。

「あなたが剣を? その、公爵令嬢なのに」

「知っていたの?」

「そりゃ、この学院で知らない人はいないんじゃないかな」

「そうよね、みんな知っているわよね」

彼女が少し寂し気に笑う。しまった、王子と特待生の噂のことと思われてしまったか。


「違うよ、あなたが公爵令嬢で、その、王子の婚約者だってことはみんな知っているっていうだけの意味で」

「いいの、かえって気を使わせてしまってごめんなさい」

「そんな、こっちこそごめん。俺、本当にそんなつもりじゃなくて」

「どうもありがとう、もう気にしないで。そういえば、私、あなたの名前を聞いていなかったの」

教えてくれる? と彼女が微笑んだ。綺麗だけれど、痛々しく見えてしまう。

「シグルドだ。シグルド・クロイツ」

「強そうな名前! 竜を倒せそう」

「そうかな?」

「ええ、きっとすごい冒険者になるわ」

ありふれた名前の何がそんなに楽しいのか、彼女が無邪気に笑う。俺もつられて笑顔になった。


“王子が婚約者から特待生に心を移した”、最初は密やかに、今では社交とは縁がなく、貴族の義務として学院に通っているだけの下級貴族の俺の耳にまで届くほどに周知された噂。学院を飛び出し、社交界でも広まっているらしい。


くそ王子、一体彼女の何が気に入らない? 直接話す機会のない下級貴族の間では、冷淡で気位が高いという評判だったけれど。実際の彼女は、貴族からは下に見られる冒険者の俺を見下すどころかきさくに話しかけてくる。美しく、細やかな気遣いをしてくれて、新しいことにも臆することなく前向きな努力家だ。こんな人が王太子妃に、王妃になればいい国になるだろうに。どうしてだろう。入学したばかりの頃は、確かに彼女と王子は寄り添って歩いていたのに。


「クロイツさん、ね」

「うちは弱小男爵家なんだ。家名で呼ばれると背中がムズムズする。シグルドでいいよ」

「じゃあ、私はヴィクトリアで」

「それはできない」

俺の答えに彼女の顔が僅かに曇る。でも、彼女は遠からず王族になる公爵令嬢。下っ端とはいえ身分社会に身を置く俺が、気安く名前を呼び捨てするなんて許されない。下手をすれば実家に迷惑がかかることにもなりかねないから、そこは譲れない。


「そうね、ごめんなさい。でも私も家名で呼ばれるのは嫌だなと思ったの」

「じゃあ、今まで通りに“あなた”って呼ぶよ。それならいいか?」

「ありがとう!」

代名詞で呼ばれることを喜ぶなんて、高位貴族は大変なんだなと思う。


「それで、剣の稽古のことだけど」

「そう、シグルドがここで練習している時に、ついでにちょこっと教えてもらえたらいいの。お願いできない?」

「俺なんかに頼まなくても公爵家だって、その、城にだっていい先生がいるんじゃないか?」

「誰にも知られずに習いたいの。だからシグルドにしか頼めないのよ」

お願い、と彼女が顔の前で両手を合わせて目を閉じた。なんだろう、公爵家の何かの作法だろうか。長いまつげが白い頬に影を落としている。目を閉じた顔もかわいらしい。

「将来、絶対に必要になると思っているの」


瞼が開き、俺をまっすぐに見つめてくる紫の瞳。怪我をさせたらどうしようとか、あんなに細っこい手で剣が振れるのか、とか。いろいろなことが頭をよぎるけれど。


「俺なんかでよければ構わないけど」

「本当? ありがとう!」

「でも、剣の何が習いたいんだ? 剣舞がしたいの?」

「いいえ、自分の身を守れるようになりたいの」

「公爵令嬢なのに? 護衛を雇えばいいじゃないか」


彼女は首を振って、真剣な目で俺を見た。

「誰にも頼らず、自分で自分を守れるようになりたい」

先程はキラキラと輝いていた紫の瞳に、思いつめたような陰が差す。


将来の彼女にはそれこそ護衛が何人もついて、自分で剣を握ることなんて許されないような気がするけれど。……そうか、王家を信用できなくなったのかもしれない。無関係の俺からしても、学院での王子は、彼女に対してますます不実になっているようにみえる。今からこの状況で、城に入った途端に何もかもが上手くいくなんて楽観できないのも仕方がない。実際のところ。今から剣を始めたとしても、彼女が望むように『自分の身を守れるようになる』かは難しい。でも、少しでも彼女の力になれるのならば。


「わかった。俺もまだ学院生だし、冒険者だから騎士みたいな正統な剣術を身に付けているわけじゃないけど。できるだけ協力するよ」

「どうもありがとう! それでね、御礼のことなんだけど」


彼女の瞳がまたキラキラと輝きだして、俺は安心した。彼女にとって今の学院は居心地が良くないかもしれないけれど。せめて俺といる時には暗い顔をさせたくない。

「御礼なんて気にしなくていいよ。教えるといっても専門家じゃないんだし」

「いいえ、だめよ。こういうところはちゃんとしなくちゃ。実はね、もう準備してあるの」


彼女がポケットから取り出したのは、綺麗な刺繍の施されたハンカチやリボンだった。

「ごめん。俺、男だし。せっかくのところを悪いけど、髪もそこまで長くないし」

こういうのをつける趣味はない。

「やだ、ごめんなさい。違うのよ」


一瞬目を見開いた彼女が、声をたてて笑い始めた。何がおもしろいのかわからないけれど、笑い声を聞けたことが嬉しい。彼女は公爵令嬢で、王太子の婚約者で。高根の花で、雲の上の人。だけど、こうして笑っている姿はどこにでもいる普通の女の子じゃないか。


「ごめんなさい、シグルドがリボンを結んでいるところを想像してしまって、おかしくって」

「じゃあ、結んでみようか」

今度は二人で、声をあげて笑った。こんな風に笑ってくれるのなら、リボンなんかいくらでも結んでいいと思った。


「リボンをね、シグルドの髪に結ぶんじゃなくて売ってきて欲しいの。このハンカチも一緒に」

そのお金を御礼にしようと思ってと彼女がいう。

「なるほど、そういうことか。でも、そこまでしなくてもいいよ。御礼なんていらない」

「あのね、シグルドへの御礼の分以外にも売ってきて欲しいの。私、お金を持たせてもらったことがないのよ」

「公爵令嬢ともなると別の意味で大変なんだなあ」


家にはお金がたくさんあっても、自分の自由になるお金はないのか。

「シグルドも冒険者をしてお金を稼いでいるのでしょう? 私は冒険者はできないけれど、刺繍ならできるからやってみたいと思って」

「そうか、いろいろ考えているんだな」

彼女がニコリと微笑んだ。


「わかった、預かるよ。どこか、こういうのを買い取ってくれるところを探してみる。少し時間がかかるかもしれないけど」

「全然かまわないわ! 男性には面倒だと思うけどごめんなさいね。どうもありがとう」


剣の稽古や、代名詞で呼ぶこと。刺繍小物を売りに行くこと。全然大したことじゃない。彼女の役に立てるのなら。彼女が喜んでくれるのなら。俺のできることは何だってしてやりたい。紫色の瞳を曇らせたくない。俺は辺境の弱小男爵家の三男坊で、しがない冒険者だけれど。物語に出てくるような、姫君に剣を捧げる騎士というのはこういう気持ちなのかもしれないと思った。


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