第2話 恋に落ちる瞬間
ポキンと小枝を踏む音がして、振り向いた時彼女がいた。流れる銀の髪に紫の瞳。俺たち下級貴族の男子学生から、密かに月の女神と呼ばれている公爵令嬢。王太子の婚約者だ。
「ごめんなさい、訓練の邪魔をしてしまったかしら」
いつも、きりりとしている彼女が少し困ったように微笑んだ。
「いや、そんなことは……」
その後の言葉が続かない。自分とは縁がないと思っていた高貴な女性に声をかけられて、なんと答えたらよかったのか。俺はいつの間にか構えていた剣をだらりと下げて、彼女を見つめていた。
「私、散歩をしていたらここに出てしまって、あの、どうぞ訓練を続けて?」
月の女神という二つ名には、その美しさの他にもう一つの由来がある。日頃、一部の隙もない佇まいで近寄りがたい彼女が、闇夜に輝く月のようだから。その長い銀の髪のように冴え冴えとした冷たい光は誰にも等しく届くのに、誰も触れることができない。公爵家という貴族社会の頂点にいて、いずれ王族になる女性。その彼女が、申し訳なさそうに眉を下げて俺に話しかけている。
かわいい、と思ってしまった。こんな人だったろうか? いや、元々よく知っているわけじゃない。学園に入って二年目。同級生に王太子とその婚約者がいることは知っていたけれど、数回遠目から見かけたくらいで。それでも、二人が連れ立って歩く姿は容姿の端麗さ以上に威厳や睦まじさを感じさせて、将来この国を治める国王夫妻になるのだという説得力があった。彼女は高根の花、雲の上の人であって、こんな、俺の目の前でもじもじとする筈がなかった。
「ちょうど休憩をしようと思っていたんです」
なんとかそれだけいって、俺は剣を鞘に納めた。
「ずっと剣を振っていたものね。すごい汗だわ」
彼女が笑う。笑った……。心臓が跳ねる。俺は慌てて、額の汗を手で拭った。
「……ずっと見ていたんですか」
「ごめんなさい、私、剣の稽古をしているところをあまり見たことがなくて」
「いえ、いいんです。ただ、女の人が見ておもしろいものじゃないでしょう?」
「いいえ、とても興味深かったわ! やっぱり、自分を守れる強さは必要よね。体力もつくし」
「そうですね?」
理由はよくわからないけど、キラキラと瞳が好奇心に輝いている。いつもは歳より大人びた美人だけれど、今の彼女は年相応の、いや少し子供っぽさを感じさせるような少女めいた風情だ。会話を始めて5分も経っていないだろうに、これまで知らなかった彼女の顔が次々と現れる。心臓が早鐘を打っている。これはずっと剣を振っていたせいだ。
「もしよかったら、少し剣を持たせてもらえない?」
遠慮がちに、俺を見上げてくる。心臓がぎゅっと掴まれるような感覚。思わず息を呑む。
「あっ、失礼なことをいってごめんなさい、気を悪くしたかしら?」
少し不安げになった彼女に、慌てて首を横に振る。剣を抜いて、鍔のほうを彼女の手元に差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう!」
透き通るように白く、細い彼女の指が俺の剣を掴んだ。やばい、柄、絶対汗臭い。べたべたしてるかも。どうして拭いてから渡さなかった!
「わわ!」
彼女が剣を取り落としそうになり、俺は柄の先を支えた。
「大丈夫?」
「ごめんなさい、大事な剣を。ちゃんと両手で持たなくてはね」
彼女が両手で柄をぎゅっと握ったので、俺は手を離した。
「結構重たいわ」
構えを取る真剣な顔。隣で俺が綺麗だと見とれているなんて、思いもしないだろう。
「振るのはやめたほうがいい。重さに振り回されて転んでしまうかもしれない」
彼女は頷いて、そっと剣を降ろした。
「大事な剣をありがとう」
至近距離で俺だけに微笑まれて、もう言葉を発することができない。俺は頷いて剣を預かり、鞘に納める。
「あなたが片手で踊るように剣を振っていたから、私もやってみたかったの」
「あれは剣の型稽古なんだ。剣舞の基礎の基礎といったところかな。あなたがやるなら、もっと軽くて短い刀身の剣がいいと思うよ。身長に合わない長さや、使いこなせない重さの剣を使うのは怪我のもとだ」
「なるほど、その人の体格や力にあった剣を選ばないといけないのね」
勉強になったわ、といって彼女がまた笑いかける。
「昼休憩まで熱心に訓練をしているのね」
「俺は冒険者なんだ。王都にいる間に体がなまってしまわないようにね」
「冒険者?」
彼女がキラリと目を輝かせた。普通、貴族は冒険者なんて鼻にもひっかけないから、がっかりされると思ったのに。
「俺は家督に関係ない三男だから。うちは辺境に近くて魔獣が多い。せいぜい剣の腕を磨いて領地の役に立たないとな」
「騎士団ではないの?」
「騎士は自分が好きな場所で勤められるわけじゃないから。うちの実家は王都から遠くて弱小領地だから元々騎士団からの支援は期待できない。自分達が強くならないと暮らしていけないんだ。冒険者なら地元を守りながら金も稼げる」
「そう、失礼なことをきいてしまってごめんなさい」
「謝るようなことじゃない」
王都にいる間も、休みの日には単発の仕事を受けて冒険者として活動しているというと、彼女は先ほどよりも更に目を輝かせた。
「よくここで訓練しているの?」
「ああ、昼食のあとは腹ごなしに大体ここで剣を振っているよ」
彼女は子供の様ににっこりと笑った。
「今日はありがとう! またお話聞かせてね」
王子の婚約者にして公爵令嬢は、とびきりの笑顔を残し弾む足取りで去っていった。昼下がりの日差しに輝く銀の髪が踊る華奢な背中を見送る。静かな夜に冴え冴えと輝く月のようだといわれていたのに。春の嵐のように、俺の心を騒がせてあっという間に吹き抜けていってしまった。
「また、会えるだろうか」
ふと、口から零れた言葉に自分が驚く。何をバカなことを。相手は王太子の婚約者、公爵令嬢さまだ。貴族といっても名前ばかりで家督も継げない、俺とは住む世界が違う。まさか似ている別人ってことはないよな? いや、そもそも今の出来事は現実だったのだろうか? まるで人を惑わすという幻獣に出会ったような気分だ。
俺は雑念を振り払うように、頭を左右に大きく振った。
「さあ、訓練、訓練」
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