第3話 妻の二度目の朝帰り

 僕が思い描いていた奈子の青春は、夫のたまの休みに子供を預けて、その時だけは何もかも忘れてバカみたいにお酒を飲んだり、クラブで遊んだり、自由に踊ったり、ナンパしてくる男たちを次々に袖にしたり、同じ年代の子たちと夢を語り合ったり――。


 普通の20代の子なら誰でも経験するであろう時間だった。


 僕だって、そん時間を過ごして来た。

 命がげでバカやって、親にこっぴどく怒られたり、警察のお世話になった事だってあったけれど、楽しかった。

 あの頃があったから、今があるのだと思えるし、彼女とそんな青春を共有したいと思っていた。


 そんな事に一ミリの不満も言うつもりなかったのだ。


 結論から言うと、この日、奈子は帰って来なかった。


 次の日は月曜日で、僕の仕事は休みだったが舞人は幼稚園がある。

 これまで奈子が完璧に整えていた通園準備を、ほぼ手探りで済ませて、どうにかバスに乗せた。

「優しいパパね」

「子供さんの面倒ちゃんと見れて素敵なパパ」

 と、ご近所さんからは賞賛され、気を良くした単純な僕は――。


 どうせ何の予定もなかった今日。奈子の帰りを気長に待つ事にした。


 部屋を片付け、洗濯を回し、朝食をとる。


 食器を片付けて、掃除機をかける。


 お昼ご飯を食べようと、買い物に出かけた。


 そこで、奈子に会ったのだ。

 いつも奈子と一緒に利用していた近所の小さなスーパー。

 都心では珍しく、ちょっとした夕飯の食材を購入するのに便利なお店で、買い物と言えばここだった。


 そこに、昨夜クラブに出かけたままの服で、楽し気に食材を選んでいる奈子。

 その隣には、あの男――颯太がいた。


 知らない人が見れば、二人はいつもそうしているカップルで、夫婦にも恋人同士にも見えるだろう


「奈子?」


 背後から声をかけた。


「パパ」


 振り向きざまにそう声を上げた奈子の瞳は一瞬で曇った。


 颯太は僕の顔を見た瞬間、顔を強張らせ、無言で頭を下げた。

 幸い、僕の買い物かごの中身は空だ。


 僕は、そのままカゴを返して奈子の手を掴んだ。彼女が持っている数点の食材が入ったカゴをひったくり、颯太に押し付ける。


 頭の中は真っ白。

 本能的に、僕は奈子を捕まえた。


 奈子の表情は一気に険しくなり、咄嗟に身構えて、小さな声で「いや……」と言った。

 まるで叱られる事を察知した子供みたいに、今にも泣きそうに下瞼に涙を溜めた。

 真っ白だった脳内に、奈子が痣だらけの体で、泣きながらダンススタジオに逃げ込んで来た時の記憶が蘇る。


「ごめん。そんなんじゃないんだ。昨夜帰って来なかったから、心配してた」

 ようやく言葉を絞り出すと、奈子は深くうつむき「ごめんなさい」と言った。


「いいよ、謝らなくてもいい。帰ろう。服だって着替えないと、ご飯も食べてないんだろう?」


「ご飯は今から奈子が作るんで」

 そう横から入り込んできた若造に、僕は思わず大人げなく声を凄ませた。声だけじゃない、顔も、態度もだ。


「てめぇには聞いてねぇんだよ。人の嫁をこんな時間まで連れまわしやがって、何考えてんだ? 常識ってもんがないのか? あぁ~?」


 こんな僕を見たのは、奈子も初めてだっただろう。

 僕は一体、何年ぶりにこんなに怒りを露わにしただろうか。


「パパ、やめて……」


 声を震わせる奈子の手を握った。


「帰ろう。お昼は何が食べたい? 二日酔いはしてないか? 寒いしうどんでも作るか? それとも駅前の札幌ラーメンに行く? マックがいい? それともフライドチキン?」


「パパ……私……もう少し」


「ん? もう少し……、おいしい物が食べたいか?」


「颯太と一緒にいたい……」


 僕の脳内は再び真っ白、いや、灰色になった。

 握っていた奈子の手はするりと抜けて、キーンと耳が詰まる。

 

 歪んだ世界に、彼女の背中が溶けて行った。

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