第7話

 ナマコの胎児だ。私が気づくと、掌にのるほどの小ぶりな黒い粘体が、床をゆっくりと進んで私の足元の辺りまで着いていた。いいや、一匹ではない!後ろから先頭のつくった粘液の軌跡を辿って、数十、数百の群体がぞろぞろと、しかし極めて速度なく私の方へと迫ってきている…。怖気を感じずにはいられないだろう、私は気が動転して、驚嘆に声すら喉につかえ、嗚咽ともいえぬ情けのない鳴き声を出した。疲労すら忘れたように、私は勢いよく立ち上がって、鉄格子を力一杯揺らしてみる。廊下には誰もいないのだろうか…静かな牢獄に金属のかなりたつのがこだまして、それが明白のものとなると、私はただナマコたちと目の合わぬように瞼を強く閉じて、鉄棒を掴む腕を激しく動かす。


「そんなにでたい?」


 誰だ、金切り音の雑踏にまぎれて、透けたような繊細な声が聴こえた。反射的に眼をあければ、そこには少女がひとり、私の前に立っていた。檻を介してしばらく立ち尽くす両者は、極悪人と、それを救いにきた天使かのように写るのであろうか。


 その目の前に立つ少女の正体など構うこともなく、私はただひたすらに助けを乞うことに精一杯にならざるを得なかった。私の脚は、すでになまこの胎児に囚われて、自由の利かないまでになっていたのだから仕方のないことである。


「たのむ、兎に角ここから出してくれ!」


 今この瞬間にも静かに蠢く粘性がひやりと地肌にまで届いてきて、寒気がする。少女は私の焦燥と対に、極めて落ち着いて不気味に微笑みかけてくる。まるで余裕のない年端の離れた大人を嘲るように、私の姿をなじって眺めて、その細い腕を前に組むと、項垂れたようにふかく考え耽りはじめた。


「わかったわ。出してあげるから、しばらく私の遊びにつきあって頂戴」


 しばらくして発された彼女の文言に対して、私の回答はほとんど反射的なものであって、そこに大した考えの練る余地は残されてなどいなかった。私はこめかみにたら々と汗を滴らせながら、何度も細かく頷いて、可能な限り刺激のないように、もしくはナマコのこびりついてゆっくりと追い詰められた故の動揺のためか、声を張りあげるのを我慢して、


「たのむ…」


と情けなくつぶやいた。

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