0-2…

「暑いな……」


大凡コンビニへ行くには不自由ないがスーパーに行くには憚られる、そんな最低限の装いだけ整えて外出した青年を待ち受けていた異様な熱気。


年々上がり続けて今や日常と化した真夏の息吹が肌を撫で付け、肉を焦がすような、あるいは血を沸騰させるような暑さに嫌な汗が噴き出してくる。


その汗は体温と同時に冷静な思考を奪い、延々と不快感を煽っていた。

そのせいか、ふらふらとして覚束無い足取りが目立つ青年の姿からは哀れなゾンビを想起させるほど。


ただ、暑さだけが原因ではないだろう。

最大の要因は青年が目的地も決めずに歩き始めたこと。


飽きたら帰ろう、なんて。計画性の欠片もない曖昧な目標設定は実質思考の放棄と変わらない。

しかし、それが理解できても行きたい場所そのものが存在しないのだから仕方ない話だ。


「あ〜、失敗したかな」


そもそも外出の目的は気分転換の側面が強く、何処に向かうかは大して重要ではない。

とはいえ、こんな環境では酷い疲労感が募るばかりで嫌気が差す。


それでも直ぐ様引き返す選択をしないのは、やはり一度決めた事柄を簡単に覆すことに些細な抵抗を覚えるからだろうか。


「せめて水を持ってくるべきだった」


額に浮かんだ水滴を手の甲で軽く拭い、そのまま腕を移動させて首筋に指を押し当てる。

親指を除く4本にぺたりと付着した液体の感触に肩を跳ねさせた青年は、その気持ち悪さを誤魔化す形で側頭部に手を添えて、まるで頭痛を堪えるような仕草を取った。


率直に言えば気力の欠如。

身体ではなく精神が前に進むことを拒んでいる。それこそが存在しない頭痛の正体だ。


しかし立ち止まっていたからと解決する問題ではないことなど分かりきっている。

だからこそ青年は伏せていた顔を上げて思考を巡らせた。


いっそコンビニでアイスでも買おうか。

無理だ。財布は家に置いてきた。


近所のエアコンがよく効いた図書館で涼むか。

いいや、今は読書をしても何も記憶できないだろう。

青年は気質の問題から、目的とは全く異なる用途で施設を利用することを好ましく思えない。

例えそれが利便性を捨てる行為だとしても。


では、では、では。


「そういえば、自然公園があった」


記憶の片隅をよぎった一瞬の映像。

日の光を遮るには丁度良い、整えられた木々の隙間を縫う散歩道。

その奥で悠々と流れる滝は決して大きいものではないが、十分に自然の雄大さを示してくれる。


つまり涼むことに適した場所と言えよう。

1つ、青年の誤算だったのは。


「あっつい。もうこれはアマゾンの奥地。もしくはサウナ」


気温、高め。そして同時に湿度も高い。

そんな土地柄故の猛威が容赦なく牙を剥く。


むせ返るような熱気が全身を包み、忙しない蝉の声を煩いと感じる以前に、そもそも意識を向けられるほど余力がない。


青年が訪れたこともない場所を連想するのは、ある意味当然の話で。

根本的に自然環境とサウナという人工的に作り出した環境が同列に語られる時点で色々と手遅れなのだろう。


それでも足を前に進める。

あと少しで目的地の滝まで辿り着けると理解していなければできない類の苦行だ。


自分は修行僧にはなれないだろう、なんて言葉が青年から漏れることはなかったが、別に彼等も進んで苦行に飛び込んでいるわけではない。


そこには、いつだって明確な目標があり、その過程が偶然苦行に分類されるだけ。

最初から極楽に行くことが約束されているなら彼等も喜んで自堕落な生活を送るはず。


結局、人の心はその程度だ。

少なくとも、青年はそう考えている。

だが極一部の例外が上限を突き抜けて、平均的イメージを塗り替えてきた。


音楽もそうだろう。

青年が感性を、生涯を、魂を捧げたはずの分野。

それでも理解できない未知に溢れた現状がもどかしく、酷く心を揺さぶる。


そんな荒んだ感情を塗り潰すのは、やはり音楽だ。


音が聞こえる。

水という流体が上から下へと落ちる、特有で独特な音が連続して鳴り響き、滝が目前にあることを知らせた。


「やっとか」


しばらく前を見続けていた青年だが、まるで今の今まで気付いていなかったとでも言いたげな様がとても印象深い。

別に観光名所ではないが、地元では多少有名程度の規模を誇る滝が見えていないなんて事はないはずだ。


それでも、青年の認識を問えば今始めて見たのだと返すことだろう。

深く思考の海に沈み、全体像を漠然と眺めるだけで、殆ど視界が機能していなかったので当然といえば当然か。

しかし意外と歩行に支障はないらしい。


「思った以上に涼しい。けれど、苦労に見合うかは微妙だね」


顔だけで軽く振り返り、背後に視線を送る青年は億劫な表情を隠そうともしなかった。

自分は辟易している、という言外の意を豊富に込めた溜息が実にこれみよがしに映る。

吐いた息が生温く、家に備わる冷房の利便性を伝えてくるのも比較して評価を下げる要因だろう。


「でも、紙に汗が滲まないだけ上出来か」


先程から積み重なったマイナスの感情を示すように、少々乱暴な手つきでズボンのポケットから取り出した手帳と鉛筆。


いまどきは随分と珍しい紙媒体によるメモ。

それを、青年は重んじている。


そもそもとして人間の脳を働かせるなら文字を書く行為は重要な意味を持つ。

惜しむべきは、それが淘汰される程度に現代社会では効率が求められ、人間は便利な道具に流されやすいということだろうか。


だからこそ大切に続けていくべき文化だ、なんて意識が青年から更に文明の利器を遠ざけていたりする。


「自然環境の整備。人間の手による管理。統制された自然。むしろ不自然か?本物の自然の消失……ああ、彼等は蒼い空を知らない」


誰に聞かせるわけでもない、しかし抑揚に溢れた言葉が脈々と紡がれていく。

それは舞台の上で踊る演者のように。

ともすれば異様に映る姿を鑑みることさえ忘れて、鉛筆が複雑な軌道を描いた。


自分の世界に浸って、淡々と進む想像と創造。

音楽に満たされた脳が、その視覚から、その聴覚から得た情報の全てを飲み込んでは勝手な解釈で咀嚼する。


そうして、長い時間が過ぎた。


時間にして1時間にも達しないが、間違いなく長い時間だと断言できる。

余人を圧倒するほどの濃密さを示すのは、青年の手に握られた手帳だろう。


始め最初の数ページのみが埋まっていただけだった“それ”。

だが、そんな記憶は遥か遠く昔の事だと錯覚してしまう。

既に全体の半数以上に殆ど隙間なく並べられたアイディアが思考の過程を物語り。

満足気に頷く青年が結論の納得を表す。


つまるところ、最早この場所に用事はなくなっていた。


「帰るか」


何ら未練なく踵を返して、当初の涼みたいなどという目的はすっかり忘却した青年が黙々と足を動かしていく。


全身に巡る微かな疲労感と僅かな痛みが達成感をもたらし、同時に気力を削いでいくため遅々として進まない足取りではあるが。

確かな事実として自宅へ向かってはいるのだ。


しかし、どれだけ簡単な目標も予想外の方向からやってきた要因に邪魔されて達成できない、というのは悲しいけれど往々にして起こる悲劇。


日常的に繰り返される失敗が当人の能力不足とは誰が決めたのだろう。

それを許すことも、それが許されることも、人の成長には必要なはず。


それでも、時として1度の失敗が全てを終わらせることもある。

酷い話だが、理不尽なんてそんなもの。

例えば……


注意不足が原因で交通事故に遭ったとはいえ、突撃した自動車に一切の責任がないというのもおかしな話だ。


「……なに、手紙?」


自宅と自然公園の間に存在する横断歩道。

その丁度中心辺り。


風に飛ばされたのか、封が閉じたまま地に伏せる手紙が相応に物哀しさを漂わせる。

これを放置するには憚れる程度の感受性が青年には備わっていた。

幸い、この街は都会と呼ぶにはあまりに少ない人口を誇り、横断歩道には青年以外の歩行者どころか待機する車さえ存在しない。


歩み寄り、手を伸ばして、拾う。

そんな動作を躊躇う理由は何処にもなかった。


「うん?」


不意に、掴んだ拍子で手紙の上下が裏返る。

おそらく表側が地面に接していたのだろう。


知らない文字だった。


しかし文字だと認識できるくらいに整った配列が純粋な記号の類かもしれないという予想を消し去ってみせる。


ただ、そんなことはどうでもいい。

正確には、どうでもよくなった。


理解できない文字だ。

そのはずだ。

それなのに、直感的な、あるいは天啓のような感覚を伴って脳裏に“言葉”がよぎるのは何故か。


意識の隙間を縫って、思考の狭間を抜けて、瞼の奥で反響を繰り返す。

『宮殿の招待状』とは何を指す言葉なのだろう。


疑問は尽きず、終わりが見えない迷路の先で、ふと青年は我に返った。


「馬鹿か?」


灰色に覆われた視界は途端に色を取り戻し、酷い錯覚だったという感傷だけを残して消える。


1度、何処にも焦点を合わせず空中を彷徨わせた瞳で手紙を見直せば、やはり知らぬ文字だった。

ならばきっと、先程の出来事は全て勘違いであるはず。


断言はできないが、そうでなければ随分と恐ろしい体験談だ。

よほど疲労が溜まっていたのか、帰ったらゆっくり休むべきだと青年は結論付けた。


そうして、1つの話にオチがつく。

もしも次を語るなら、場面を切り換えるべきだろう。

これを怪談だと仮定するなら、もっと手紙の詳細に触れるべきだろうか。

しかし、そのようなIFが現実に作用するはずもなかった。


かくして、此処に終章は紡がれる。

それは、いっそ呆気ないほどに。


「っ゛」


強い衝撃。


肺に取り込んだ空気が無理矢理に吐き出され、悲鳴未満の怒号を形作った。

宙を舞う体は酷く不自由で、指先さえ満足に動かすことが叶わない。

全身を刺し貫く鈍痛が青年から走馬灯に縋る余地を奪う。

許容量を超えた刺激を恐れ、脳は現実を傍受する権利を放棄したらしい。


他人事としか思えない光景を、青年はただ眺めていた。

できることなど、何もない。


時速にして100kmに迫る鉄の塊に、どうして人間が抗えようか。


それは意識の外側から青年を襲い、受け身を取ることも困難だった。

地面に叩きつけられた体。

最初に接触したのは頭部。

人体の中で最も重く、自重に従うだけならごく自然な話。

そして、何かが割れた。


それ以上を語る必要はないだろう。

死者は黙して語らない。


残された者達は、黄泉往く旅路に幸福を祈る。

あるいは、加害者を責め立てるべきか。

せめて遺書でもあれば対応は楽になるが、唐突で予想外な最期に備える若者など極少数。

手帳にびっしり書き込まれた内容は全力で事故とは無関係だと主張しており、強いて言えば遺品として墓に入る役割を果たすかもしれない。


そこに、怪しげな手紙の姿はなかった。

誰にも認識されない手紙は、誰にも指摘されないまま……


【青年を宮殿へ誘う】


◆◆◆◆


『次のニュースです。本日12時頃、〇〇県で交通事故が起こりました。被害者は亡くなっており、当初は過失運転致死と判断していた警察でしたが〇〇容疑者の「あの男を殺さなければいけないと思った」という発言を受けて容疑を殺人事件に変更する方針を明らかに……』


『〇〇容疑者ですか?いや〜、全然そんなタイプには見えないというか。なんなら常に冷静な人だったと思いますけどね。あ〜、でも』


“最近幻聴に悩まされてたみたいですよ。神の声が聞こえる〜とか。多分原因はそれじゃないすかね”


◆◆◆◆

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