夜が見る夢

@rakuten-Eichmann

窮鼠はチーズの夢を見て、朝日の先に絶望を見る

 また今夜も眠れなかった。夢は遠くの方で僕を笑っている。

 十二月の朝日は寝坊をしているようだ。夜が明けても仄暗い。明けない夜はないって誰かが言っていたけど、真冬の新潟に来たら意見を変えるだろう。

12月の新潟は毎日厚い雲に覆われて、ほんの少ししか日がささない。それが原因で鬱になる人も多いそうだ。

 カーテンを開けてため息をつく。カーテンを勢いよく開いたせいで、窓際のゴミ袋の山が崩れる。それに構わず窓の外を眺め続ける。道路に面した僕の部屋は、道ゆく人たちから丸見えだ。

 朝の7時だというのに、サラリーマン風の男が小走りで目の前を通り過ぎて行く。ガラスがだんだんと白くなっていく。袖で二、三度水滴を拭うとまた窓の外を眺めた。

 歩く小学生、無邪気だ。走るトラック、うるさい。全力疾走のスーツの男、頑張れ。

 誰の目にも僕は映っていない。世界に僕は存在していない。

 深い深いため息をついてカーテンを閉めた。遮光カーテンなので部屋の中は真っ暗になる。

 後ろを振り返ると天井付近に赤いモヤが浮いている。まただ。眠れなかった明け方になると幻視が現れるようになって久しい。最近では幻聴もしょっちゅうだ。

 赤いモヤを手で振り払うと、その奥に今では連絡もとっていない友達の姿が見えた。

 彼は言った。

 『今から寝るのか。』 

 「ああ、もう夜も遅い。」

 『今は朝だよ。明日は誰が出てくるかな。』

 「楽しみだ。またな。」

 『ああ。』

 本当は眠れないから動く気力がなくなり、ひたすら横になるだけだ。その間に数分間の睡眠を挟み、死人のような顔で起き出し、酒をのむ。

 数分間の睡眠では、眠りが浅いのか、必ず夢を見る。

 近頃、夢と現実の境目が曖昧になって行くのを感じる。夢と現実の境目がなくなってしまった人間は、いわゆる『無敵の人』になってしまい、街中で事件を起こすのだろう。

 僕はそうはなりたくない。人に優しくありたい。だからこうやって街ゆく人々の様子を見て正気を保っている。

 仕事を辞めて二ヶ月ほど経った。何もしていないのに疲れ切った体を横たえてこう思う。今日は何の夢を見ようか。いや、見られようか。もう何も考えられない。泥のような思考に飛び込むと、エアコンが甲高い笛のような音を立てた。


 目が覚めた。変な夢を見ていたはずだが思い出せない。短い灰色の夢だったような気がする。今何時だ、どのくらい寝た?枕元のスマートフォンに手を伸ばして、一瞬固まった。

 部屋の中央に自分の身長くらいはある、真っ赤な薔薇が咲いていた。立ち上がると、ちょうど花弁が僕の視線と同じ高さにある。

 どうせまた幻覚だろう。そう思い手で払った。

軽い弾力が伝わり、次いで爽やかな香りがうっすらと漂った。そして脳内に声が響いた。

『痛いな、叩くなよ。』

今度こそ本当に驚き、後ずさった。

 幻覚が酷くなったのか、ものすごくリアルな夢の中にいるのか、本当に気が狂ったのか。

 もう一度、薔薇に近づく。やはり爽やかな匂いがする。花弁を少し齧ってみた。青臭くって、瑞々しくて、夜明けみたいな味がした。かがみ込んで、茎の部分に耳を当てた。地下から水を吸い上げているのだろう。ドクンドクンと、心臓のような音がした。

 五感を使って確かめた。このバラは確かにこの部屋に存在する。妄想や幻覚なんかじゃあない。確実に、そこに生えていた。

 薔薇に話しかけた。

 「お前は喋れるのか、幻覚じゃないのか、幻覚じゃないなら妖怪の類なのか、」

 それらの問いを呟いた瞬間、頭の中に声が響いた。

 『おいおい、なんてチンケな質問だ。俺はお前の認識の中で生きている。つまり俺はお前がみている世界に確かに根ざしている。世界とは五感によって捉えられるものであり、その五感が示していただろう?世界は人それぞれ、俺はお前のための墓標なんだ。この意味がわかるか?』

 それを聞いた僕はゆっくりと振り向き、部屋に落ちている剃刀で手首を切った。しかし、血は流れなかった。薔薇は満足そうに揺れていた。


さて、どうするべきだろうか。警察に通報?それとも市役所に連絡。いや、大家にクレーム? 

 どれもナンセンスだ。僕はこの薔薇をこの部屋で育てることにした。勿論、誰にも秘密でだ。

 薔薇に聞いてみた。

「君に肥料とか、水とかは必要なのか?」

『チンケな質問が好きだな。1日にしてここまで育ったのだぞ。何も必要ない。強いていうならば君の正気が僕を存在させている。』

「そうか、ならよかった。僕はまだ正気だろうか。」

『そんなの、部屋を出たらすぐにわかるさ。』

「この部屋からは出られないよ。君にはわかるだろう?」

『ああ、いつだってわかっていたさ。おい、泣くなよ。』

「泣いてなんかないさ、埃が目に染みたんだ。」

実際、僕は泣いていた。薔薇が発する一言一言に感涙し、涙を流していた。なぜだかわからないのに、意味などないのに、決してあの頃には戻れないのに。

 透明な部屋で、僕は虫を食べていた。笑い声に包まれたまま。それはまるで餃子みたいに、暑くて、包まれていて、すごくすごく熱かった。

 けどそれを漉しとった先に誰もみたことがないものがあるなら、遠くの方まで、息がブチギレて当たり散らすまで、走っていこうぜ。


 目を覚ました。酷く喉が渇く。変な夢を見ていた気がする。ゆっくりと布団から体を起こした。部屋の中はゴミ袋だらけだ。中央にポツンと椅子と机がある。その侘しさは死刑囚の独房を思い起こさせる。僕もいつかここで首を括って死ぬのだろうか。

ノロノロと起き出すとテーブルの上に投げ出していたスマホに手を伸ばす。何人かからLINEがあったが、返す気はない。モタモタしているうちに充電がなくなってしまった。真っ暗なスマートフォンの画面はいつまで待ってもつかない。暗い目をした自分の顔をしばらく見つめた。誰かが言っていたことを思い出した。深淵を見つめている時、深淵もまたこちらを見つめている。

 外の道路から子供達がはしゃぐ声がする。登校の時間か、下校の時間か、それすらわからないほど時間の感覚を失ってしまった。カーテンを開けて確認した。強い西陽が僕の顔を照らす。珍しい。冬の新潟で晴れるなんて。貴重な晴れの日を無駄にしてしまった後悔が、腹の奥でチリチリと痛んだ。僕は台所へ行き、コップ一杯の水を当てつけのように飲み下した。

 今日は何をしようか。まとまった睡眠を取れたせいか、いつもより元気だ。夕方から遊ぶとなると、一人で飲みにでもいこうか。

 窓を開けて気温を確かめる。室内との気温差で体が引き絞られる。頬で冬の風を感じた。このくらいの気温なら何枚か着込めば大丈夫そうだろう。窓を閉めて、支度を整えた。


 街灯が濡れた地面を照りつける街中。飲みすぎた僕は朦朧とした頭で歩いていた。珍しく晴れたと思ったら、夜が深まるにつれてだんだんと湿っぽくなっていき、2軒目のバーを出た頃には頬にポツリと雨粒が落ちた。

 あれよあれよという間に雨足は強まっていき、僕は傘も刺さずに街をぶらついている。酒を飲み、雨に打たれ、自分を冷遇する快感に酔うとともに、世界への呪詛を吐いている。

 僕は一体全体なぜここにいるのだろう。流されるままに生きてきて、不眠になって、鬱になって、働く気もないまま街を彷徨く。

 頭の中が痒くなってきた。どうにか抑えるために、僕は自分の耳を殴った。周囲の目は僕に対して、「興味ないですよ、今日も平和ですね。」と言った調子で語りかけてくる。

 僕は夢の中にいるのだろうか。それとも夢が僕を見ているのだろうか。まあどうでもいっか。失うものは遥か昔に置いてきたんだし。遠くの方で声がする。遠くで僕を呼んでいる。その声じゃ僕に届かない。その声は僕には優しすぎる。

 その時声がした。

 『なあ、お前はいつになったらこっちにくるんだ?』

 僕はゆっくりと振り向き、唇の端を歪めると家に向かって歩き出した。


 明日はホームセンターに行かなきゃ。必要なものを買いに行かなくちゃ。


 『もういいのか?』

 「ああ、もう向こうに戻ることはないよ。」

 『そうか、よかったな、祝福するぜ。』

 「ありがとう。なんか、君、大きくなったな。」

 『だろ?天井につきそうだ。お前のおかげだ。ありがとうな。』

 「礼なんていいよ。いつまでこの部屋に入れるかわからないけど、しばらくよろしく頼むよ。」

 『ああ、こちらこそ。』


 1月21日早朝、新潟市中央区のアパートの一室において、身元不明の男性の遺体が発見された。その後の調べで、発見された遺体は新潟市中央区居住の20歳代の男性と判明した。死因は、首吊りによる窒息死。

警察によると、現在、事件を疑う要因は見つかっておらず、事件性は極めて低いとみて捜査を続けているという。 

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